2020年8月20日
金沢にはブッコフじゃない古本屋が何件もある。その1件でみつけたのが徳富<蘆花>健次郎の巡礼紀行。
「ふとキリストの足跡を聖地に踏みてみたく、かつトルストイ翁の顔見たくなり」準備もそこそこに出かけたという徳富先生。
インド洋経由、エジプトからエルサレム、ジェリコ谷から死海へと見物。そして、とあるドブ川で馬車が止まったらそれがヨルダン川。
「がちょーん。この汚水でジーザスが洗礼を受けたんかい?」
と蘆花先生は考える。<ちょっと違うんじゃないか>感が満載である。しかるに同行の宣教師は歓喜して裸で汚水に飛び込んでいる。
<いかんいかん。俺は信心が足りないんだ。>
と考える、このあたりが信仰と奴隷根性の境界線だ。
汚いドブ川を聖地と思えないとき、それは信心が足りないのか?人生が思うようにいかないとき、世間じゃなくて君が悪いのか?百度参りを99回でやめたら不幸がやってくるのか?
聖地がドブ川だったならまだしも、だいたいにおいて、百万遍とか、八十八か所参りとか、F票獲得数とか、数値化されきたらそれこそ要注意だ。
当時トルコ帝国の版図だったエルサレムはとても汚いところだったらしく、蘆花先生は
「こんなとこ、クソガキ乞食人民もろとも燃やしてしまえ。」
と毒を吐きつつ、同時に
「神の愛をもって世界を覆え。」という。
十字軍がやったことと同じことをプロテスタントの蘆花先生が考えてる。
そういえば植民地侵略者とイエズス会ってWIN-WINの関係の最たるもんだ。なーんて考えつつ読み進むと、蘆花先生は緑のガラリヤにやってきて救われたらしくベタ誉めである。そんなガラリアから煉獄のエルサレムにきて死刑にされたジーザス修造は、熱いやつだったにちがいない。マイケル・ハドソン先生の
...and forgive them their debts: Lending, Foreclosure and Redemption From Bronze Age Finance to the Jubilee Year
という長い題名の本の表紙には、高利貸しをボコるジーザスが描かれている。そりゃこんなことをしてたら恨みを買うわ。
汚いエルサレムも野犬だらけのコンスタンチノープルも、トルコ帝国はおおむね不潔だと蘆花先生は結論し、ロシアに向かう。いきなり訪ねてきた蘆花先生はトルストイ一家に歓待され、いっしょに水浴や食事や散歩を楽しむ。地主階級のトルストイは、その信条からして、もてる資産財産を困った元農奴たちにぽんぽんくれてやろうとしたため、禁治産者にされてしまった。なんでか知らんが、そのトルストイに怒ったりしている。蘆花先生の文脈はよくわからないが、おおむねトルストイに癒され、シベリア鉄道に揺られて浦塩経由で帰ってきた先生であった。おかえりなさい。
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