2021年4月4日日曜日

旅ごころはリュートに乗って 星野博美 平凡社

2020年12月7日

ミッション系の学校を出たにもかかわらず「キリスト教徒でもなく、西欧中心的な考えが嫌い」という著者がリュートに惚れ込み、リュートで弾ける古楽(とっても1400年代くらい)を探しつつキリスト教世界を旅する物語。

中世のキリスト教に関する薀蓄量は半端ではない。当方はそのあたりさっぱり興味がないので引用とか翻訳部分は斜め読み。本のまんなかへんでイベリア半島のレコンキスタをあらかた終えたアルフォンソが、それまで翻訳事業(ギリシア・ローマの蔵書をアラビア語からラテン語にした)で世話になったユダヤ人たちに、改宗するか追放されるかを迫る。そしてあちこちでキリスト教徒によるユダヤ人虐殺がはじまる

・・・のあたりから著者も残虐なのがいやになってきたらしく、リュートよりアラビアのウードのほうがいいかなと考えはじめる。リュートはウードと見た目はそっくりだけれど、フレットが打ってあって、音域も高い。

そりゃそうだよね、キリスト教との残虐さは知れば知るほどいやになる・・・と思う我輩は、著者の視点がアラブ世界やユダヤ世界からキリスト教世界を眺める視点に転換するのを期待しつつ、しかしながら物語は長崎のキリシタンの殉教者列伝みたいになって一巻のおわり。せっかくの労作なのにちょっと不発っぽい。

こんなことを思い出した。1985年、ニューヨークからハドソン川を遡ったドブズフェリーという小さな町の、オグデンプレイスという通りのどんづまりの森のなかのシナゴーグに我輩は住んでいた。家主はクラシック界で高名なラマー・アルソップという音楽家。「あんまり聞かない名前だね」というと、「祖先はスペイン経由でアメリカにやってきたセファーディック・ジューなんだ」という。1986年にやはりハドソン川沿いの、ブロンクスのリバーデールという町に移り住んだ。近所に住んでいるブライアン・エルヴァスとブラスバンドで仲良くなった。青くて緑色の不思議な瞳の色をもつブライアンは「わいのオカンがいうには、エルヴァスっていう名前はスペイン経由でアメリカにきたセファーディック・ジューらしいんだ」という。

彼らの祖先こそ、アルフォンソに追放された人たちなのだった。

聖母マリア信仰の逸話がながながと紹介されているところがある。病気とか体の欠損とかをマリアが治したとかあれこれ。そのなかで、巡礼の途中で姦通をした男が夢のお告げで罪の意識に苛まれ、ついに自分のちんちんを切り落とし、それがもとで道半ばで死んでしまった、それをマリアが生き返らせたというのだが、さすがに切り落とされたちんちんは再生できなかったという。これは悲惨なのか笑うべきなのかわからない。

イランの西のほうにマシュハドという宗教都市があって、巨大なモスクがいくつもあつまっていて、門前市がそのまんま街になっているようなところ。イマームなんたらの遺骸が重厚かつきらびやかなフェンスのなかに安置されている。体の不自由な人や老人や病人がそのフェンスをなでたり接吻したりしている。ヴァヒッドくんによると、イマームは何百年か前に死んだのだけれど、いまだに病気や体の不自由なところを治してくれると信じられているのだという。広場では700年前に殺されたフセインを悼む詠歌が流れていて、人々が真剣に聞き入ったり慟哭している。

シーアはそういう世俗的な要素を許容するおもしろさがある。狭量なスンニのワハーブなんかそんなんは許さない。ワハーブはなんでもかんでも異端にして殺しまくったカトリークに似ていて、寛容と共存というイスラムのイメージにそぐわない。

それにしても中世キリスト教の歌の翻訳を見るにつけ、「死んだら救われる!」という人間の情念はすさまじいパワーになるのだなあと思うy。日本の浄土真宗や浄土宗のような念仏信仰も、一向一揆みたいなめちゃめちゃなパワーを生みだしたことがあるの。死んだら天国(とか浄土)に行けるのだから、いっそ死んでやれ!という発想は、人間の根源にある何ものかとレゾナンスするのだろうな。枝雀さんは落語で「念仏はいざというとき日本人の魂の奥底から湧きでてくる」なんちゅうて言ってたけど、おそらくそれは万国共通なのだ。

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