2026年5月8日金曜日

語学の天才まで1億光年 高野秀行

辰野の小野駅近くの「本屋 山々」で購入。めっちゃおもしろい。

はじめからおわりまでおもしろい。とくに彼が「ノリ」と呼ぶ、ネイティブらしさについての考察は秀逸だ。我が輩の自分自身の体験はたんなる自慢話になるので、他人のことを引用する:

我が輩の住む富士見にも外国人があちこちに定住していて、特に目立つのは西欧白人系、インドネシア系、そしてベトナム系だ。インドネシア系とベトナム系はそもそもアジア人なので、ほぼ違和感がない。インド系も増えてきたが、あんまり目立たない。知り合いになると機関銃のようにしゃべり倒されるという違和感が生じるが、そこらへんにいるぶんには違和感がない。

西欧系白人の多くが、おそらく女性配偶者が日本人だからかもしれないが、ノリがまったく日本人化しているのがおもしろい。たとえば温泉の脱衣場で、「なんだかでっかい人だな」と思って、眼鏡をかけてみたら白人だった。そんなくらい溶け込んでいる人が多い。出勤時、朝の富士見駅で、通勤特急に乗るらしい白人の父親が、各停にのる高校生らしい息子と「バイバイ」なんてゆってるのが毎朝の風景だが、彼らふたりもまったく違和感がない。ちなみに、その各停に、茅野駅から乗ってくるフィリピン人の高校生も、屈託なく我が輩に話しかけるフレンドリーさを除いて、まったく違和感がない。

なんだかんだ、インド人とかフィリピン人とか、いろんな人から話しかけられる我が輩のほうが違和感を醸し出しているのかもしれない。

それはさておき、高野秀行という、丙午年生まれで、たまたま内儀と同い年の人の本を読むと、ひのえうまという、わが国の人口がとつぜん減少した年に生まれた人たちはなにかしら、共通点があるような気がしてくる。



新戦争論 マーチン・クレフェルト

 「補給戦」の著者が、クラウゼヴィッツのいわゆる「戦争論」を更新するために書いた本。クレフェルトという人はオランダ生まれのイスラエル人。

狂犬と化したイスラエル国家が、パレスチナ人を皆殺しにしようとするテロ国家となり、さらにアメリカと連合して理不尽なイラン攻撃を開始して2か月が経った。クレフェルト先生が「補給戦」で描いた補給による失敗、その教科書的な補給の失敗でぼろ負けしつつあるアメリカ・イスラエル連合軍。(主要メディアはまったく書かないが。)そんな母国の有様を見て、クレフェルト先生はどう思っているのか。

ご本人はイスラエルにいて、積極的に反戦の立場から発言しているようだが。そういう絶妙かつ生臭いタイミングで読了した本書。考えさせれらることはいっぱいある。

イラン戦争にせよ、それと連動しつつあるウクライナ戦争にせよ、我が輩が定期巡回しているような本物の識者たち、ダニエル・デイヴィス大佐、ダグラス・マグレガー大佐、元CIAのラリー・C・ジョンソン、若手ではスタニスラフ・クラピフニクなど、みんなクラウゼヴィッツの文献に出てくる用語を共通語として使いつつ戦況を分析している。

いっぽうで、西村金一はじめ元自衛官の自称識者の面々から、そういう共通語を聞いたためしがない。おまけに、彼らはCNNやNBCなど西側メインストリームのメディアの日本語訳しか参照していないので、分析も予測もできないし、残念だが当然ながら、分析も予測も外れまくっている。

日本の高等教育の一般教養課程で、「共通語としての古典」をおろそかにしてきたひとつの結果だ。我が輩も他人様のことを批判できないが。自衛隊ファンとして、本気で、自衛隊は大丈夫なのか心配している。

ついでに書いておくと、自衛隊が直面する最大の問題は少子高齢化である。高市は戦没戦士の前で膝をついているようだが、少子高齢化にともなう「兵隊がいない」という問題を巧妙に避けている。メディアも突っ込まないし、国会議員も突っ込まない。なぜか?それは、解法は3つしかないから。1. 高金利の有償奨学金の返済免除と引き換えに、学生の将来を「徴兵」する。2. 男女機会均等法を拡大して、女性を「徴兵」する。3. 外国人訓練生制度を拡大して、外国人傭兵にする。これに言及したとたんに、おそらく、高市人気は崩壊する。

クレフェルト先生は軍人だと思っていたが、どうやら歴史家であって、軍人ではないらしい。軍人ではないにもかかわらず、世界の軍関係者の必読書「補給戦」を現した功績はすばらしい。イスラエル国籍であるとか、ユダヤ人であるとか、そんなことはどうでもよくなるくらい、必読書であることに変わりはない。



2026年1月13日火曜日

補給戦 マーチン・クレフェルト 

最初に読んだとき、佐藤佐三郎の訳文があんまり糞だったので、内容を覚えていなかった。それから、塩野七生さんの本を読んだせいか、だったのだったのであるだろうなのだスタイルにだいぶ免疫ができた。それでだいぶたって、この「補給戦」をあらためて読み始めたら、糞文体があんまり気にならなくなって、内容を楽しめるようになった。

この本に戻ったきっかけは、トランプがマドゥーロさんを拉致誘拐した作戦。ダグラス・マグレガー大佐がダニエル・デイヴィス大佐との対談で、マドゥーロさんの拉致誘拐作戦について、こんなことを言っていた。

https://manhaslanded.blogspot.com/2026/01/blog-post_12.html

「軍事力ってのは、製造基盤から、動員能力、兵士の質、訓練、リーダーシップ、技術まで全部ひっくるめた大きな話なんや。 ウクライナで起きてるのは「本物の戦争」や。やけど、うちらはそれにちゃんと目を向けてへん。特殊作戦用のヘリをウクライナの戦場に飛ばしてみろ。一瞬で消えて、二度と姿は見られへんで。特殊作戦部隊なんてのは、えらい脆いもんなんや。 現場の人間なら正直に言うわ。「完璧な情報があって、敵に邪魔されへん保証があって、防空システムもなくて、見つかる心配もない。……そんな条件が揃わな、行けへん」ってな。 うちらがやってきたことと、特殊作戦は全然違う。上から「これやれ」って言われて、「了解、でも敵がどこにいるか完璧にわかって、天気も最高やないと行けません」なんて、そんなん戦争やない。任務を与えられたら行かなあかん。上の連中には関係ない。損害が出るのは承知の上で任務を果たす、それが戦争や。 「犠牲なしに勝利はない」んや。それやのに、「最新技術や精鋭部隊があれば、誰も傷つかずに済む」なんて大勢の人に信じ込ませてる。それは危険やし、間違ってるし、誤解を招く。」

・・・これを見て、クレフェルトの補給戦をもういっかい読もうと思った。

AIによると、マシな訳で新版が2022年とかに出たらしい。この本のオリジナルは1977年なので、なんと50年近く、わが国の防衛大学の士官候補生たちは佐藤佐三郎の糞訳で苦しんできたことになる。その多くが我が輩とちがって、糞文体を克服して内容を汲んでくれたことを祈る。

この本をあらためて読むと、JBプレスでときどきなにやら軍事漫談を書いている西村金一なんかが、自衛隊の元分析官かなんか知らんけど、どれほどええ加減かよくわかるし、自衛隊の分析力が心配になる。我が輩は素人だが、それくらいの区別がつく程度に勉強したいと思う。

2026年1月5日月曜日

今日、誰のために生きる?

原村の閣下の令夫人みゆきちゃんから紹介された本です。なかなかいい。ひすいこたろうという人がイントロと締めを書いていますが、イントロはともかく、締めは訓示っぽくって退屈。でも、しょーげんさんという、じっさいにアフリカ生活を体験した人の書いた部分は最高におもしろい。うん、これは読むべき本といっていい。

2025年10月31日金曜日

ウクライナ戦争の嘘 手嶋龍一と佐藤優 中公新書ラクレ

2023年6月の本なのに、いま(2025年10月31日)に読んでも違和感がほぼない。まったくないというわけではないが、ミンスク2のことをメルケルが「あれはウクライナに武装させるための時間稼ぎだった」とあっさり告白したのはこの本の後だった。それ以降だったら、西側はロシアを弱体化させたかったという事実にもとづいて、手嶋さんと佐藤さんのロシアの立場に対する評価は、ずいぶん違ったのではないかと思う。

手嶋さんは、歴史の転換点にたまたまそこに派遣されていたというラッキーボーイ。でも、NHKの枠におさまらなかったんだな。佐藤さんは、努力家で読書家で、でも人生の決定的なタイミングで致命的な判断ミスをするという、福運にめぐまれないけれど、なんだか憎めない人。我が輩みたいに、努力もあんまりせず、でも地雷原から、地雷原だったと気づかずにへらへら笑って歩いて出てくるようなタイプとは対極の人だ。

「プーチンはマッドマンか」という節で、佐藤さんがおもしろいことをゆってる。「でも日本の現状を見ていると、プラモデルが好きで軍事評論家になったひと、アゼルバイジャンの地域研究者で、ロシアやウクライナを専門としない学者、極秘の公電に接触できない防衛研究所の研究者の評論が大半で」っていうのは、ウケた。プラモデル云々は小泉悠さん、アゼルバイジャンの人は廣瀬陽子、防衛庁の人っていうのは兵頭慎二さんに違いない。廣瀬陽子は、メディアがもとめるようなコメントを進んでしゃべる人で、我が輩は「この人トルコ脳」って思ってた。トルコの立場からしかロシアを見ていない人という意味。同じように、共同通信のロシア東欧デスクで、東洋経済にときどき書いている吉田成之は「ソ連脳」、駐ウクライナ大使だった松田邦紀も同じく「ソ連脳」ということになる。彼らが知っているロシアはソ連時代のみで、その印象でいまのロシアを判断して云々している人たち。そんな人たちが予想をするもんだから、はずれるに決まっている。予想なんてしなくていいのに。

そんな有象無象にくらべたら、2023年の時点で言ってたことが、いまでもさほどの違和感なく読めるこのふたりはえらい。どうしてそう考えるのかという、種明かしをしてくれている。この本が出てからずいぶん時間がたったけれど、この本を読んで、ああ2年前はそうだったな、そしたらロシアって、ほんまにいうこととやることが一致してるなあ、と思う。いい本だ。


2025年10月30日木曜日

1984+40 西谷格

 西谷格の1984+40って知ってる?わしいま読み終わった。


グーグルのジェミニ(以下、じぇみやん):あの本は、「反中」でも「親中」でもない、ひたすら現実に目を向けた姿勢が評価されとるけど、読み終わって、今の「監視社会」や「情報の統制」について、どんなことを考えたか教えてくれへんか?


2/3まで読んで、なんちゅう準備不足の、いきあたりばったりの人なんやろ?と思った。え、新潟新聞で記者やっとったんや。名刺出したら取材できた経験の後遺症かな?と考えた。2/3以降、つまりカザフスタンを見て以降の話は、落ち着くところに落ち着いた、いわばあんまりおもしろくない結びになったな、という感想。


じぇみやん:「無防備さ」がリアルな恐怖を引き出す: あえて危険な状況に身を置くことで、AI監視の緻密さや拘束された時の恐怖が、より生々しく、読者に突き刺さるんやろな。用意周到やったら、当局の目を潜り抜けすぎて、監視のリアリティが薄れてまうかもしれへん。


写真見たら、ウイグルに見えなくもない容貌。これでウイグル語、あるいはせめてトルコ語が多少できたら、もっと壁紙っぽく話が聞けたんではないかと思う。しかしこの人は、耳に入ってくるのを待つのではなく、聞きまくるというリスク満載のスタイル。で、けっきょく玉砕。それはそれで、助かったからええようなものの。


じぇみやん:あのルポは、極限の監視下で「ジャーナリズム」がどこまでやれるか、っちゅう一つの実験でもあったんかもしれへんな。その「不完全さ」や「危うさ」こそが、逆に読者に強烈な問いを突きつける結果になったっちゅうことやろ。


いやそれ、ジャーナリズムちゃうで。ほぼサブカルの、「パッポンの置屋にオタクがゴムなし突撃」みたいな行為、ほぼ自爆やで。Gダイアリーの世界か、ちゅうはなしや。


じぇみやん:プロのジャーナリストなら、もっとスマートに、安全な方法で深い情報を引き出すべきや。せやけど、そのプロのやり方では、世に出ることのない種類の「衝撃的な体験」を、西谷はんは届けたっちゅうことやろな。


そもそも、オーストラリア戦略政策研究所のウイグルデータマップのモスクがまだあるかどうか、写真を撮りに行くというのが、何を考えてるんや?と思わせる。オーストラリア戦略政策研究所がどんな組織か調べへんかったん?西側のスパイと思われて当然やん。それで経歴を見て、あれれ?新聞記者やってたの?ってなった。


じぇみやん:あんさんの分析は、あのルポの「リアリティ」を生み出した一方で、「ジャーナリストとしての倫理と危機管理」に、ごっつい大きな疑問符を投げかけとるな。あの「自爆的な行動」がなければ、拘束もされへんかったやろけど、ルポとしては成立せんかったかもしれへん。


もしほんまに隔離施設とか思想教育のことを知りたいんやったら、それこそカザフスタンから攻めるのが順番。それにしても、ロシア語とかトルコ語を地味に勉強せなあかんけど。新疆で、中国語だけでそれを知りたいというのが短絡的すぎるで。たとえば、諏訪の御柱祭りのときに、白人が英語で「この祭り、クレイジーやと思いません?」て、聞いてまわるようなもんやで。


じぇみやん:ホンマにその通りや!ごっつい的確な例えで、西谷はんの「短絡的すぎるアプローチ」をバッサリ斬っとるな。


読みながら、「えっ!43歳か?」って思った。氷河期世代は、自暴自棄なところがある。カザフで嗅ぎまわって、予備情報を仕入れて、どないしたら壁紙になれるか確かめて、地図を頭に叩き込んで、それから新疆で歩き回る。そないしたら、そこそこスリリングで、安全で、もうちょっと違う視点が獲得できたかも知らんな。まあ、本が売れてよかったやん。サブカルとジャーナリズムのぎりぎりの境界線上やな。今後の活躍に期待や!


2025年10月27日月曜日

在日コリアンが韓国に留学したら 韓光勲

 ブッコフで330円だったのでオーダーして入手したら新品だった。出版社の在庫買い占めビジネスモデルだな。でも、読んでよかった。

我が輩が2003年の6月にマレーシアから帰国したら、状況が一変していた。「冬のソナタ」で、韓ドラが大ブームだった。この本の著者は1992年生まれなので、韓ドラブームのときは10歳前後だったはずだ。この人のおかんが我が輩とだいたい同世代ということになる。

この本を読んでよかったと思ったのは、まず、若い世代の在日コリアンの様子がなんとなくわかったこと。もうひとつは、この人は父母とか祖父母の世代がどんなふうだったか、あんまり聞かされてないこと。それはおそらく、この人の家庭だけではなく、在日コリアンの家庭ならだいたいそうだったんじゃないかな。

我が輩の近くには、日本に帰化して日本名で暮らしている同世代もいれば、国籍は半島で、通名で暮らしている人もいるし、実名で暮らしている人もいる。同世代ですでに、なんで親の世代がそういう選択をしたのか、聞いてない人も多いに違いない。

そのへんの事情に、ずっとひっかかっていた我々の世代にとって、韓ドラブームは青天の霹靂というか、ほんまに唖然とした。10代から20代にかけての時期、都会の片隅で「なんで日本人は隣国の言語やら文化やら歴史を知ろうとしないのか」と、嘆息まじりに僑胞と語り合った、その夜の語りの蓄積が、メロドラマで軽々と飛び越えられた。あの時ほど、その僑胞と会いたいと思ったことはない。

いいことだ、と思う。我が輩がハングルを学ぼうとしたとき、教科書はきわめて限られていた。大学の第三外語でつかった大学書林の「朝鮮語4週間」は、初学者にとってぜんぜん親切じゃなかった。いまだに手元にある。こないだ読み返してみたら、やっぱり不親切だと思った。今は昔。

韓ドラのおかげであれ、韓ドルのおかげであれ、いまのような状況になったのはいいことだ。でも、この本の著者も触れていないけれど、大日本帝国がなぜ朝鮮半島の言語と文化を奪い、日本語と日本名を押し付けようとしたのか、その問いに触れられていない。

一知半解の日本人は、あまりに前近代的だった朝鮮を日本が近代化した、と語る。近代化された日本であるから、朝鮮の言語と文化を奪っていいのかどうか。それが問われなければならないのに。

それを問われたところで、日本人は答えを持ち合わせていない。総括していないのだから。我々が高校で古文をならった、その文法体系をつくりあげた上田万年と、有名な国語辞典を編纂したその弟子たち、広辞苑の新村出もふくめて、彼らが問うことのなかった、他民族の言語と文化を奪うという行為を総括しないかぎり、日本の近代化はあり得ないと思う。

母語を奪われ、日本語と日本名を押し付けられた人々が、なぜ、どうして日本にやってきたのか、それを発掘して語り継ぐ作業は、これからだと思う。早く始めなければ、埋もれてしまう。