ブッコフで330円だったのでオーダーして入手したら新品だった。出版社の在庫買い占めビジネスモデルだな。でも、読んでよかった。
我が輩が2003年の6月にマレーシアから帰国したら、状況が一変していた。「冬のソナタ」で、韓ドラが大ブームだった。この本の著者は1992年生まれなので、韓ドラブームのときは10歳前後だったはずだ。この人のおかんが我が輩とだいたい同世代ということになる。
この本を読んでよかったと思ったのは、まず、若い世代の在日コリアンの様子がなんとなくわかったこと。もうひとつは、この人は父母とか祖父母の世代がどんなふうだったか、あんまり聞かされてないこと。それはおそらく、この人の家庭だけではなく、在日コリアンの家庭ならだいたいそうだったんじゃないかな。
我が輩の近くには、日本に帰化して日本名で暮らしている同世代もいれば、国籍は半島で、通名で暮らしている人もいるし、実名で暮らしている人もいる。同世代ですでに、なんで親の世代がそういう選択をしたのか、聞いてない人も多いに違いない。
そのへんの事情に、ずっとひっかかっていた我々の世代にとって、韓ドラブームは青天の霹靂というか、ほんまに唖然とした。10代から20代にかけての時期、都会の片隅で「なんで日本人は隣国の言語やら文化やら歴史を知ろうとしないのか」と、嘆息まじりに僑胞と語り合った、その夜の語りの蓄積が、メロドラマで軽々と飛び越えられた。あの時ほど、その僑胞と会いたいと思ったことはない。
いいことだ、と思う。我が輩がハングルを学ぼうとしたとき、教科書はきわめて限られていた。大学の第三外語でつかった大学書林の「朝鮮語4週間」は、初学者にとってぜんぜん親切じゃなかった。いまだに手元にある。こないだ読み返してみたら、やっぱり不親切だと思った。今は昔。
韓ドラのおかげであれ、韓ドルのおかげであれ、いまのような状況になったのはいいことだ。でも、この本の著者も触れていないけれど、大日本帝国がなぜ朝鮮半島の言語と文化を奪い、日本語と日本名を押し付けようとしたのか、その問いに触れられていない。
一知半解の日本人は、あまりに前近代的だった朝鮮を日本が近代化した、と語る。近代化された日本であるから、朝鮮の言語と文化を奪っていいのかどうか。それが問われなければならないのに。
それを問われたところで、日本人は答えを持ち合わせていない。総括していないのだから。我々が高校で古文をならった、その文法体系をつくりあげた上田万年と、有名な国語辞典を編纂したその弟子たち、広辞苑の新村出もふくめて、彼らが問うことのなかった、他民族の言語と文化を奪うという行為を総括しないかぎり、日本の近代化はあり得ないと思う。
母語を奪われ、日本語と日本名を押し付けられた人々が、なぜ、どうして日本にやってきたのか、それを発掘して語り継ぐ作業は、これからだと思う。早く始めなければ、埋もれてしまう。
 
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