2020年9月26日
司馬遼太郎の街道をゆくシリーズの「中国 蜀と雲南のみち」にいわく、四川に向かう飛行機でオーウェン・ラティモアらしき西洋人と乗りあわせたとある。そのフライトは1981年のことなので、もしラティモア教授だったとしたら81歳である。おそらく違うのではないかいな。
さてこの本、とてもおもしろく読ませてもらった。感想がいろいろあるので、箇条書きにしておく。
1. 国際関係がいろんな人で動いていた時代を感じさせる。いっぽう昨今の我が国の外交は、安倍ぴょんの顔と口が大きくなるばかり。総理が外遊して大きな口で大きな金額の援助を発表する。金額が大きいのでほとんどは有償資金供与(ローン)になる。金額に従って総理の顔も大きくなるが、地道な技術移転と違って、マネーによる援助はすぐに忘れられてしまう。在外事務所は定期的にそれを思い出させ、返済計画を調整することで疲弊する。いっぽうで100年後に役立つ青年海外協力隊の予算は削られるいっぽうだ。
2. ラティモアさんの辺境愛とかモンゴル愛が伝わってくる。ノリとしては高野秀行さんやさかなクンに近いものがある。蒋介石の顧問という大仕事がなかったら、知る人ぞ知るちょっと変わった人というだけのスタンスだったかもしれない。
3. 中国共産党が国民党に勝ったのは、説得の達人といわれる周恩来が各地のゴロツキ軍閥とうまく話をつけた=中共はゴロツキ組合だとばかり思っていた。ラティモアさんによると、蒋介石の軍隊そのものに負ける原因があったと。つまり、将校が地主のボンボンぞろいで、農民=兵隊は中国語を話す牛馬ていどにしか考えていなかった。だから共産党は農民を人間扱いして組織するだけで、武器装備と兵隊がそのまんま革命軍になった。共産党は共産党員をなぶり殺したゴロツキ軍閥に対し、革命に賛同したら過去は問わないと言った。そしたらみんな寝返った、ということである。
4. 現場を見ることは大切だなあとつくづく思う。ラティモアさんもエレノアさんも感受性に富んでいたのだろう。昭和天皇がいちどでも中国のでっかさに触れることがあったら、アホ軍部の暴走を止めることができたかもしれない・・・いや、見たとしても感受性がなかったらダメだろうな。旅するなら若いときがいい。
余談だが、ロシア製のドキュメンタリーで、昭和天皇はそもそも化学者で、731部隊を組織したのも昭和天皇じきじきであったと語られていた。敗戦後の昭和天皇は植物学者になったのだが、化学者だったという前歴をそれで上塗りしたという意図的な情報操作であったということになる。
5. ラティモアさんはリーズ大学の中国学部をつくった。その最初の卒業生は全員アフリカ人だったと、(たしか)岩波新書の「中国」の解説に書いてあった。欧米は中国のアフリカ援助について、自分らの庭を荒らしていると非難するけれど、どっちかというと中国はアフリカに請われて出ていったんではなかろうか。一帯一路を見ていても、住宅ローンなみの金利で有償資金供与をするなど恨まれるようなことをしている。中国は対外援助なんて、どうやっていいのかいまだにわからないんじゃないだろうか。
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