2021年4月4日日曜日

華人の歴史 リン・パン(潘翎) 片柳和子訳 みすず書房

 2020年8月13日

我が輩がマレーシアで働いていた1999〜2002年のころ、サラワク州クチンのホリデイ・インに小さな書店がテナントとして入っていた。その書店には当地の植物誌などにまじって、ボルネオに移民した華人の歴史の英語本があり、眺めているうちに時間が過ぎた。標記の「華人の歴史」は、世界中で出されたその種の出版物(本というよりもパンフレットに近いボリュームのも含め)多数を網羅・統合したような本である。

内容は膨大なアネクドート集で、おおまかな年代で区切られている。区切られた年代のなかで場所がダイナミックに飛ぶので、南洋について多少の地理感覚がないと混乱するかもしれない。たとえばマレーシアのペナンやマラッカからペラ州の錫鉱山やパハンに、そしていきなりマニラに飛ぶ。おまけに大学受験の英文解釈みたいな文体で書かれているので、慣れるまで読みづらい。

という難点はあるにせよ、アネクドートそのものが圧倒的な物語性をもっているので、ノンストップで読まされる。シンガポールの星州日報は胡ファミリーがタイガーバームの宣伝のために作った新聞だとか、キャセイの三代目は動植物誌に造詣が深かったとか、そんな蘊蓄も獲得できる。

翻訳者もさぞかし大変だったろうと思う。原典は英語だ。人名・地名・マフィアの組織名など、英語で表記された中国語の方言を漢字に戻す作業は、我が輩は長年その蓄積を地道に続けてきたつもりなのだが、ほぼミッション・インポッシブルだ。著者がいうように、

「(広東省の)三邑出身の教育のある人が、四邑の農民のしゃべることは一言もわからないというとき、その人はもちろん気取っているのだが、ほんとうに難しいのも事実なのである。例えば『ドイ』は広東の都市部で『チャイ(仔)』であったり、『ヒァット』が『セク(食)』だったりするのでは、分かるはずがないではないか。」

タイランドに多数の移民を輩出した潮州は広東省にあるけれど、言語的には福建省に近い。福建省でもっとも貧しいといわれる福清の言語は、福建グループの中でも突出して独特らしい。中国語の音韻史に興味がある我が輩でも呆然とするようなバリエーションのなかで、訳者は名詞のいちいちを原作者に照会しつつ翻訳作業を進めたのだろう。それだけでも定価4625円の意味がある。(我が輩は尼で1000円で買ったけど。)

さて周庭さんが逮捕拘束され、香港の民主人士の命運について憂慮される昨今である。筆者がいわく、

「かれら(香港の条約港中国人)が中国人であることを誰も否定しないが、その中国人らしさと中国的とされているものとは何ひとつ似通っていない。それは<全く独自>で、海外華人とも伝統的中国人の型とも違っている。海外華人が感じるような出自からの距離感はそこにはない。しかし同時に中国本土が持つ逃れがたい存在構造 -過去が現在を閉じ込めている- に絶望的にからめとられているという感覚もない。」

「ある意味で香港は、条約港という歴史の産物の、最後に生き残った見本である。そしてそれが命を終えるとき、我々はもう『条約港中国人』を見ることはない。」

1995年にだされたこの本は、いまこそ読まれるべきだと思う。


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