2023年12月11日月曜日

浄土三部経 上下 岩波文庫 中村元他

中村元さんの解説を期待して購入したのだが、弟子の早島鏡正さんと紀野一義さんがおもに仕事をしたようだ。早島さんの解説もたいへん興味深い。あとがきにご自身の背景に触れたところがある。それによると、顕本法華宗の家に生まれ、広島の原爆で父母姉妹知人を失い云々と。人間的な記述である。法華宗の家に生まれながら阿弥陀経を訳出するという仕事は、なんだかよくわからないところもあるけれど、仏教学者というのはそういうもんかもしれない。

観無量寿経にはこの教えが説かれた背景の説明があって、それを読みたかった。いままであらすじしか知らなかったのだが、翻訳を読むとほぼその通りだった。簡単にいうと、マガダ国王のビンビサーラ王にはアジャータシャトルという王子がいて、王子が父王を幽閉して殺そうとした。ところが21日経過しても死なないので「あれれ?なんでやねん?」と思って部下に尋ねたら、「母君が身体にはちみつヨーグルトを塗りたくって面会に来てはりますえ。王サンはそれを食べて生きてますねん。」王子は怒り狂って母を殺そうとしたけれど、ジーヴァカ医師が「そらあきまへん。父王を殺した王子は過去にもいてたけど、母を殺したらアウトカーストと同じになってしまいますがな。」と諌めたので諦めた。

母であるヴァイデーヒーが身体中に蜂蜜入りヨーグルトを塗りたくって云々。勝手な推測ながら、王子が18歳くらいとして、母は30代。ボリウッド映画で歌い踊るような豊満系の美女がサリーを脱いで身体中に蜂蜜入りヨーグルトを塗りたくり、幽閉された王に面会する。部屋に入ってサリーを脱ぎ、王は王妃の豊満な身体の蜂蜜入りヨーグルトを貪り舐める・・・童貞僧が想像したら爆発しそうな光景ではないか。

我輩の妄想が当たっているかどうかは別にして、他の解説本では王妃が身体に蜂蜜入りヨーグルトを塗りたくって云々「と言われている」みたいな婉曲表現だった。でも原本翻訳本ではもろにそう書いてある。なんで、「と言われている」みたいな婉曲表現にしたかというと、やっぱり童貞僧が爆発しそうになって、その場面しかワテ憶えてまへん・・・みたいな事象が頻発したのではなかろうか。我輩の妄想だけではないと思う。

ま、それはそれとして。注釈や解説によると、浄土三部経のどれかは失念したけれど、成立したのは中央アジアだという。なんでわかったかというと、インド言語の原典写本に中央アジア方言が多用されているから。そもそも子に幽閉され殺されようとした親が絶望状態の中で求めた浄土思想。それがアフガニスタンみたいな荒っぽい土壌で生まれ、戦乱の時期の中国で中国語訳されて広まった。そして日本に移植され、戦国時代に一向一揆で北陸に広まった。概観すると、「死んだらホトケ」みたいな単純な思想が広まる背景には、やっぱり戦争という極限状態でのみ広まるという特性があるんじゃないか。

安富信哉さんが「浄土の眷属 王舎城の悲劇に照らし返されるもの」という文章でそれをちょっとだけ指摘している。もっと掘り下げて、イスラムにせよ浄土思想にせよ、戦争という極限状態でのみ広まることができること、逆に平和が長く続く時代には、その勢いを保持するのが困難なこと、迫害とか弾圧とか戦争によって少数意見(たとえば浄土三部経では女人成仏が許されてないやん、とか)が淘汰され、単純化された教義が迫害とか弾圧とか戦争によって「のみ」広まるという現象を、誰か研究してもええんじゃないかと思う。

誰かそういうのを研究してる文献があったら紹介してください。パレスチナ人がイスラエル政府によって惨殺されている今だから。

アジャータシャトルがなんでそこまで父母を恨んだか?それは、おトシだった父王がバラモンに占ってもらったところ、山の洞窟で修行している仙人が死んだら、その生まれ変わりで王子を授かると言われた。王は仙人が死ぬのを待つのがかったるいので、あっさり殺してしまった。殺した途端にヴァイデーヒーが懐妊した。でも臨月になって王も王妃も不安になったので、高い崖っぷちで出産して、赤ちゃんを崖から落として殺そうとした。でも赤ちゃんは小指の骨を折っただけで助かった。その赤ちゃんがアジャータシャトル王子。だから漢訳で王子の名前は未生怨とされている。

その因縁があかされたのが、お釈迦さんが死ぬ直前の涅槃経。お釈迦さんがなんでその因縁を死ぬ直前までとっておいたのか、というのも興味深い。


2023年11月29日水曜日

我輩の手記02

 明治時代以来の海外情報収集がなんで民間主導だったか。それはおそらく、政府にお金がなかったからでしょう。たとえば世界で一番きびしく、かつ伝統文化を破壊する不条理な酒税法が制定されたのは明治13年つまり1880年。それ以来、厳しくされることはあっても、緩和されたり見直されたりしたことは基本的にありません。国家の面子というのはほんま不条理です。国家の面子といえば、我輩が働いている下諏訪には首塚が残されています。

そのストーリー。相楽総三はじめ8人の赤報隊が官軍の広報部隊として、「新政府になったら年貢半額(とか免除)」と宣伝するため京都を出発し、中山道を下諏訪までやってきた。その頃には官軍が優勢になったので、赤報隊が官軍にとって都合が悪くなった。相楽たちはニセ官軍とされて、1868年に処刑された。相楽たちの名誉が回復されたのは1928年。

60年のあいだ国家は事実を認めなかった。

バイデン政権はいまやアホの塊なので、ロシアのエネルギープロジェクトへの制裁をはじめた。日本が官民あげて出資するプロジェクトです。これはもうG7への踏み絵。ロシアの天然ガス買うか、それとも俺んとこの天然ガス買うか?俺んとこは値段数倍やけどな。・・・。誰も踏まなかったら、帝国の没落が加速するだけやん。踏み絵を踏んだら、G7で民主主義が没落する。帝国って、自由と民主主義が旗印やなかったんか?

あれれ?また既視感。コンテナには自由と民主主義のラベルが貼ってはるけど、中に入ったら自由も民主主義もない。

創価学会というコンテナには、栄光勝利平和の三色旗が貼ってあって、「日本を前に」とか「小さな声を聞く力」とか自由とか民主主義みたいなことも書いてある。でも中に入ると、自由も民主主義もない。どっちかというと、それを捨てたい人たちが入ってくる。公明党が与党でいるのに、非正規労働者の声は無視され、日本はどんどん後退する。

日本政府が自由と民主主義を捨てたいから、自由と民主主義を旗印にしているG7に入ってる。そうと仮定したら、いまいちど真剣にエーリッヒ・フロム先生の「自由からの逃走」を読むべき時代なのかもしれない。

バイデン政権はいまやアホの塊なので、ロシアのエネルギープロジェクトへの制裁をはじめた。日本が官民あげて出資するプロジェクトです。これはもうG7への踏み絵。ロシアの天然ガス買うか、それとも俺んとこの天然ガス買うか?俺んとこは値段数倍やけどな。・・・。誰も踏まなかったら、帝国の没落が加速するだけやん。踏み絵を踏んだら、G7で民主主義が没落する。帝国って、自由と民主主義が旗印やなかったんか?

あれれ?また既視感。コンテナには自由と民主主義のラベルが貼ってはるけど、中に入ったら自由も民主主義もない。

創価学会というコンテナには、栄光勝利平和の三色旗が貼ってあって、「日本を前に」とか「小さな声を聞く力」とか自由とか民主主義みたいなことも書いてある。でも中に入ると、自由も民主主義もない。どっちかというと、それを捨てたい人たちが入ってくる。公明党が与党でいるのに、非正規労働者の声は無視され、日本はどんどん後退する。

日本政府が自由と民主主義を捨てたいから、自由と民主主義を旗印にしているG7に入ってる。そうと仮定したら、いまいちど真剣にエーリッヒ・フロム先生の「自由からの逃走」を読むべき時代なのかもしれない。

今津で創価学会に入っていたのは、おもに主婦層と、半端な男性たち。何年か家族と離れていて帰ってきたけれど、夏でも半袖を着ないおじさんとか。そのおじさんはとても心優しい人で親しくしていましたが、あるとき地域の会合で、「池田先生のなにかあったら俺は・・・俺は・・・。」と思い詰めたように語りました。「また塀の中に行くということなのかな?」と思いましたが、それは言えません。いささか極端な例ながら、そんな人もふつうに受け入れられたコミュニティーでした。

シーアのモスクで胸叩き儀式に参加しても違和感を感じない。パキスタンで民族服を着てサンダルを履いて市場に歩いて行き、大衆に紛れてしまう。チャイナタウンで北京語を話して大陸移民と思われ、犬以下の扱いを受ける。それでぜんぜん平気なのはおそらく、今津で創価学会だった経験があったからでしょう。

ニューヨークでは別の経験をしました。ニューヨークの創価学会には、F武書店(いまのベネッセ)の現地法人副社長や、当時は総領事館勤務の外交官で、のちに参議院議員になるE藤O彦さんなどエリートがいました。もっともE藤さんは地元の会合にはぜったい出ません。幹部がE藤さん宅に伺って指導を受けるくらいなので、普通の会員は知る由もない。

ブラスバンドにはジャコ・パストリアスやマルカス・ミラーとやっていたケンウッド・デナードがいたし、他にも大野俊三さんとか有名なミュージシャンやアーチストがいた。住んでいた地域にはキャブ・キャロウェイの娘のクリス・キャロウェイがいたりして、今津とはぜんぜん違う世界でした。

創価学会をやめて日本に帰ったばかりの頃、妙言寺の住職と話していてこんなことを言われました。創価学会臭が抜けるのに10年はかかる、と。「これから創価学会はどうなるのか?」てな話をしていて、こう言われました。「日蓮正宗の700年余の歴史で生まれた異流儀は、万単位で数えられる。時の流れのなかで、創価学会もまた本尊を持たない単なる異流儀として歴史に埋没するだろう。」

それから30年以上が過ぎました。多少は臭みが抜けたかな。そんな時、同級生の訃報が届きました。

彼は朝鮮高級中学の生徒たちにボコボコにしばかれた経験もありましたが、それでも少数者のことをよく理解していました。学生だった当時、我輩が創価学会の中の人だったというのも知っていて、「創価学会でも思想信条の自由があるから共産党に投票してもええわいな」みたいな話をしていました。創価学会にも在日がおるで、っちゅう話になって、彼曰く、「あいつら学会と総連と民団、二股三股かけとぉで。ふつうやで。」と言いました。総連というのは朝鮮総連、北系です。民団というのは大韓民国居留民団、南系です。我輩にとっては目から鱗が落ちるようなコメントでしたが、異国で生きるための知恵、いざというときのセーフティネットという意味でも、見識です。我輩もおかんも、そんなダイナミックな考えかたを知ってたらよかったなと思います。ちなみに彼の亡くなったオヤジさんはバリバリの共産党、彼も共産党支持でした。

もうひとり、同学で我輩と同じ立場の中の人、つまり親が創価学会だったので自動的に創価学会員にされてしまった親友がいました。彼は我輩よりずっと真面目でした。行田道雄先生のもとでマルクスやヘーゲルなどを真剣に学び、いま読んでもとても難しい卒論を書きました。こないだ35 年ぶりに連絡を取ると、創価学会に完全に洗脳されていました。よくあることとは言え、寂しい限りです。

洗脳された親友の手紙にはこうありました。「私は創価学会の信心を続けていきます。」・・・我輩はこれに強烈な違和感がありました。創価学会の信心とな。創価学会員がやっているのは、第1に自分が献金し、他人にも献金させること。第2に公明党の票を集めること。第3に会員を辞めさせないこと。なんでそれを信心と言えるのか?そもそも宗教とか信仰、教義も本尊も、1991年に破門されるまで日蓮正宗におんぶに抱っこ状態。法華講(信徒団体)のひとつみたいな立ち位置だったのが、破門されてただの政治的な団体になりました。宗教法人としての要件を満たしているかどうかも疑問です。公明党の政治力がなければ、解散請求されても仕方がないと我輩は思います。

2023年11月23日木曜日

我輩の手記

本稿は書物ではなく、愚生が顔面本(フェースブック)にぼちぼち書いた文章をまとめたもんである。中村則弘さんを偲ぶ会で福井に行ったとき、どうやら越前一向一揆衆の想念らしきものが脳内にたんと飛び込んできた。恨みの言葉なので、我輩の想念でないことだけは確かである。ときあたかも、パレスチナでハマスがイスラエルを攻撃し、イスラエル軍が圧倒的な軍事力でパレスチナ人を虐殺しはじめた。現在進行形の戦争と、織田信長や豊臣秀吉が女子供含めて5000人の一向一揆衆を虐殺したという歴史が脳内でシンクロしてしまい、一向一揆衆に感応したようだ。

+++++

「パパにはふつうかもしれないけど、ふつうの人には見えないから、こわいんだよ。」と娘たちに説教されます。他人の見えないものが見えるようだと悟ったのは、大学1年生の頃。ピクニックで行った京都。化野念仏寺の墓地で戯れに撮った写真をプリントしたら、顔がたくさん写っていました。クラスメートの八木に見せると、「これは木の葉っぱの影、これは墓石のでこぼこやんけ」と否定します。否定してるのに、八木は泣いています。その写真はたぶん八木がどっかの神社か寺に奉納したのでしょう。いいやつだ。

兄貴のクルマを借りて夜の六甲山をドライブした時も、カーブの崖っぷち、ガードレールの向こう、人間がいるはずのないところに人の姿が見えます。「いま、ヒトおったよな?」・・・一同無言。

フェースブックはきほんツルむためのツールだけど、サイキック同士がツルむのはあんまりよくない。

友人のミクニさんは他人が見えないものを見るだけでなく、死者の軌跡をトレースできます。トレースを辿っていったら死んだばかりの人の家に行き着いたり、集合写真で黒い顔の人がいると思ったら既に死んでいたり。彼がライブで見る死者たちは、だいたい彼の首を絞めにかかるそうです。なんと暴力的な霊たち。我輩に見える人たちは、不本意な死にかたを余儀なくされた気の毒な、いわば弱い立場の人たち。生きている友人でも、ウマが合う人、そうでない人、飲みに行きたい人、会いたくない人など色々。生きていない人たちとの関係も似たようなものです。

ある夕刻、ミクニさんと梅田の王将の餃子かなんかでビールを飲んでいると、「あの人おかしい」とミクニさんが言います。その人がやってきて、「俺は世界を征服できるんや」みたいなアホを言います。サイキック同士はだいたいわかるので、いきなりそんな話をする人もいます。そのおっさんは目がイッてました。関わりあいたくないので早々に店を出て、阪神梅田の駅で電車を待っていました。電車が入ってきたとき、飛び込みたくなりました。柱の影にしがみついて我慢しましたが、それで我慢できるくらいのパワーだったので、オッサンの世界征服は無理でしょう。サイキックと関わると、ロクなことはありません。かしこまった席で放屁してしまったら、そのおっさんのせいです。

他人の見えないものが見える、という能力を売りにして、そこそこいい暮らしをしている人たちがいます。飲み友達が固定してるように、見える人たちのタイプも固定している我輩としては、ちょっと違うんじゃないかと思います。たとえば、L、G、B、T、S、M、赤ちゃんプレイなど、あらゆる趣向のクライアントに対応できる風俗従業員なんてふつういないでしょう。あらゆるタイプの霊が見えて、対処できるとしたら、その人自身が人生捨ててるか、詐欺師じゃないか。

そういう資質は遺伝的なものか?それはよくわかりません。我輩のおかんがマレーシアにやってきた時、昼寝をしていると、「窓の隙間から8人くらい小人が入ってきてな。」と言います。「私の寝てるベッドをみんなで持ち上げて、ホイホイ言いながらくるくる回すんや。生きた心地がせんかった。」

どうやらダヤン影絵芝居に出てくるような人たちのようです。そんな愉しい経験ならしたいものだと思います。おかんと我輩は、見るタイプの人が違うようです。

長野県の上田市の別所温泉。そのはずれにある法輪寺という寺で、娘の気分が悪くなりました。通途なら見て見ぬふりをするのですが、娘がピンポイントで狙われたなら困る。どんな人なのか。負圧に惹かれるままに境内を彷徨すると、松本繊維学校の若者たちが学徒動員されて8人くらいが死んでしまった、その慰霊碑に行きつきました。不本意な死にかたを強いられた無念なのでしょう。うちの娘を狙ったわけではなさそうです。

生きた人の無念でも、死んだ人の無念でも、もし感応してしまったら、受け止めるのではなく、さらりと水にすべて流すのがいいと思います。流さないで溜めていたら、我輩が潰れてしまいます。そのへんは生きてる人相手のカウンセリングと同じ。入れ込み過ぎたらカウンセラーが潰れてしまいます。

先般逝去した大学の先輩の偲ぶ会で福井に行ったとき、泊まったホテルが旧福井城の隣でした。いろんな想念が飛び込んできました。ほとんどは恨み節。「だまされた」というような。歴史をググってみると、これほどオーナーが頻繁に交代したお城も珍しい。しかしながら「だまされた」というのは何なのか?

パレスチナ人がイスラエル軍に虐殺されているのを聞いた我輩はおそらく、一向一揆衆に感応する準備ができていた。一向一揆衆は、織田信長や豊臣秀吉に何千人と虐殺された。福井でとびこんでくる声は「だまされた」という恨み節。何に騙されたというのか?

一向一揆衆は2重に騙された。第1は、有無を言わさない戦場で、「死んだらホトケ、極楽浄土まちがいなし」と最強戦士に仕立て上げられた。第2は、浄土真宗が権力側に寝返った。抵抗勢力であり続けた一向一揆衆はアウトカーストに落とされ、浄土真宗は彼ら彼女らに「1/10だけ成仏を許す」という戒名を与えた。京都あたりで浄土真宗の寺が火災にあったとき、アウトーカースト信徒が何十人も進んで火中にとびこんだという。お寺で焼け死んだら、来世は平民に生まれ変わる。そこまで思い詰めるような苛烈な差別だったという。

浄土真宗は権力側に寝返った。パレスチナ戦争で寝返るのは、ハマスではなく、ユダヤ教のほうじゃないかと我輩は思う。

ネタニヤフ率いるイスラエルを支えるのは最右翼シオニスト=団塊の世代。イスラエル訪問したブリンケンの最初の言葉が「ユダヤ人としてここに来ました」だった。それなのに、何も成果を得られなかったブリンケン。ただ右往左往しただけの、かわいそうなブリンケン。習近平とうまく話をまとめたはずだったのに、ボケ老人の「習近平は独裁者」という一言で外交成果をぶち壊されたブリンケン。そのオヤジは、アメリカでは有名なダイハード・シオニスト。いま西欧で、パレスチナのためにデモをしている最先端は、まさにブリンケン未満の若いユダヤ系。

世界中のユダヤ人は、右翼シオニスト=段階の世代と、50歳代未満の親パレスチナ世代に分裂している。10〜20年後、団塊の世代が死に絶え、常識的な世代が大勢を占める。彼ら彼女らは、イスラエルという汚名を着た国家に必ずしもこだわらない。たとえイスラエルが国家として存続したとしても、周囲のイスラム国家と共存する方途を探るんではないか。

イスラム世界はずっと、ユダヤ教徒に寛容だった。イスラエルがイランを仮想敵とするのは、イスラエル国内政治の歪みの投影にすぎない。ユダヤ教徒が仮想敵とすべきなのは数百年にわたって残虐な弾圧をした欧州であって、イランではない。イランはおそらく、10〜20年後にイスラエルが穏健なユダヤ教国家になるか、あるいはシオニズムが消滅することをわかっている。

シーアもまた、一向一揆衆と共通する精神がある。歴代のイマーム12人は、ことごとくスンニのカリフによって幽閉+暗殺あるいは毒殺された、というのがシーアの解釈である。スンニでは名君とされるハルーン・アル・ラシッドは、シーアでは残虐の暴君である。例年アルバイン(40日め)には、老若集まって胸を叩き、虐殺されたフセインを、あたかも1ヶ月前に殺されたかのように悼む。我輩も参加したことがあるが、黒っぽい服装でいたら皆シーアと見なされ、いっしょに胸を叩く。その高揚感、一体感はハンパではござらん。

臨戦態勢のもとでは大同小異。皆がタリバン、あるいは念仏衆、あるいはシーア・アリーになり膨れあがった教団。しかるに平和な時代が続くと、百花斉放で異論が出る。浄土真宗では「御同胞の社会をめざす実践運動」で危機感を煽ったのだが。お釈迦さん自身が、西方極楽浄土というのはフィクションだったと言ってるし、と突っ込まれたりする。

キリスト教では、処女懐胎とか死後再生が「それはさておき」ポジションに置かれた。きっかけは30年戦争。当初は王家の争いが宗派の違いに収斂され、悲惨なことになった。

そもそもジーザスは「神よ、我らの借金を免除したまえ」と言って支持を集め、磔で殺された。「師匠、それはマズい」と考えたジョンとかポールが、「神よ、我らの原罪を許したまえ」に変換してローマ帝国に採用され、中世に教会は欧州トップの地主になった。借金免除どころか、金貸しである。世の中、どうなるかわからない。

クアラルンプールで昼寝していたら、窓の隙間から小人が何人か入ってきて、ベッドを持ち上げてくるくる回した。そんな楽しい(本人は怖かったらしい)経験をしたオカンですが、時空を遡って1970年を前にした頃、心を病んでしまいました。原因は、姑と大姑と小姑がガシンタレだったのと、亭主(我輩の父)が甲斐性なしだったから。近所の白雪酒造の社宅に住んでいたアダチさんという人が親切で、いろいろ愚痴を聞いてくれた。その人が創価学会だったので、オカンも入り、我輩も兄貴も自動的に入ってしまいました。だから我輩はかなり中の人。統一教会がらみのニュースを見聞きするたびに、宗教法人解散請求の本当のターゲットは創価学会なんだろうなと思います。30年以上前にやめちゃったから関係ないけど、宗教2世の困惑は人ごとではありません。

高校生になると、会合に出ろとうるさく言われます。会合にでると、学習塾を経営していたカミチカさんというおっちゃんが世話役で、いろいろ「指導」をします。そのカミチカさんの発案で、「人間革命など池田先生の著作の要言集を作る」ということになって、甲子園の駅に近いコカジさん宅というモダンな家に集まり、作業がはじまりました。そのおかげで、池田大作がいかに意味のない空疎な言葉を羅列しているか、よくわかりました。創価学会は「指導主義」といって、体育会系というかほぼ軍隊なのに、池田大作は「民主主義」という。これほど空虚なことはありません。高校生なりに達した結論は、「そうか。池田大作の本なんて、みんな誰も真剣に読んでないんだ。」

カミチカさんが高校生にそんな作業をさせたのは、おそらく政治的野心があったからです。成果を本部に持ち込んで名を挙げようという。のちに彼は県会議員の片上公人の秘書になり、片上コージンがセクハラで失脚したので、カミチカさんも三途の道連れ。諸行無常やけど、その作業がなかったら我輩は創価学会を辞めてないかもしれない。

就職して3年め、ニューヨークに赴任した我輩のところにカワサキという創価学会員がやってきました。なんでわかったんだろう?それはオカンがチクったから。嫌々ながら「せめてブラスバンド」に入ったら、おもろいやつが多すぎて楽しかった。1987年ごろ、ボランティアの通訳でアメリカ人会員にくっついて東京の会合に出たら、池田大作が出てきた。相変わらず意味のない退屈な話をしていました。アメリカ人誰も聞いてないやん。我輩は近所に座っていたマリー・アスキューさんが綺麗だったのと、お向かいに座っていたリサちゃんという日系ハワイ人の女性が可愛かったのを覚えています。池田大作の意味のない話を意味のある英語に翻訳した矢倉涼子さんは、その後サザンオールスターズだった大森ちゃんと結婚しました。夫婦ともに大麻所持で逮捕された。

1990年の終わりごろ、イワブチマサルという人が東京からニューヨークまでやってきて指導会を開き、日蓮正宗がいかにデタラメかなんて話をしました。質問会でアメリカ人が「お寺に行って坊さんの話を聞いていいか?」と尋ねたとき、イワブチが坊さんはくるくるぱーだからダメ、というジェスチャーをしました。お寺の静謐な感じが好きで時々行っていた我輩は、その足でクイーンズ区のお寺に行き、住職と話しました。住職はぜんぜんクルクルパーじゃなかったので、創価学会を辞めることにしました。嘘のかたまり。

最近この話を考えはじめて、思い出して調べてみたら、イワブチマサルという同じ名前の人が北関東で公明党の市会議員かなんかをやっています。我輩がもしイワブチだったら、あんまり楽しくない人生だろうなと思います。嘘のかたまり。

1987年ごろのこと、東京でホシノという人に会いました。小説人間革命にのっている(ここは本当のこと)、創価学会に批判的な僧侶を川に放り込んだ男子部ギャングのひとりだったとのこと。ホシノさんは半身不随で、我輩に「池田先生について行け」と指導を垂れました。僧侶を川に放り込んだりしたから半身不随になったんじゃないか、なんて本人は考えもしなかったようです。別れ際に、「貞永くんによろしく伝えてくれ。」と言います。貞永昌靖。アメリカ創価学会のジョージ・ウィリアムズ理事長のことです。我輩が知っているウィリアムズ理事長は、大きな会合でハービー・ハンコックやラリー・コリエルのバンドで下手くそなテナーサックスを吹いている偉い人。楽屋に行って、「ホシノさんがよろしく言ってました。半身不随でしたけど。」って気楽に言えるような存在ではありません。

ミュージシャンの加納洋さんとはニューヨークで知り合いました。彼は視覚障碍者で、彼の杖がわりにいっしょにうろうろしていると、外の世界のいろんなミュージシャンと出会えて、楽しい思いをしました。

彼はこういいます。「池田先生のピアノなんて音楽的にいえば糞だけど、(自分が創価学会にいるのは)そういうことじゃないんだよね。」

いろんな人々の「そういうことじゃないんだよね」という思いの受け皿というのが、この宗教法人の存在意義のひとつではないかと思います。

そういうことじゃなくて、何なのかというと、それは人それぞれ。けれど宗教2世として半分内側、半分外側から眺めていると、パターンが見えてきます。それは、生活全般で組織の活動を優先させること。組織の活動というのは、自分も献金し、自分の担当している会員にも献金させること。聖教新聞など創価メディアの新聞や雑誌を購読し、担当する会員にも購読させること。50人くらいの学会員を担当する幹部が、聖教新聞を50部くらい自腹で購読するというのは普通の話です。それから、公明党の票集め。自分も投票し、担当する会員にも確実に投票させること。組織のスキャンダルが表面化したときに開催される文化祭に出場し、担当する会員にも出場させること。地域の会合に出席し、担当する会員にも出席させること。その会合を準備するための会合にも出席すること。自分の時間などない、と考えはじめたら、上級幹部に指導を受けに行くこと。自分の時間がなくなるから活動したくない、という会員に指導し、その会員が自分の指導を受け入れなかったら、上級幹部の指導を受けさせること。

受け皿の中に入ると、自由とか選挙とか責任なんていう面倒くさい選択をぜんぶ捨てて、組織の指導に従って生きることができる。イメージ的に言うと、その受け皿には「勝利、栄光、平和」という三色旗が貼り付けてあって、「民主主義」「自由」「大衆とともに」「小さな声を聞く力」「日本を前に」などという抽象的なスローガンが付記してあります。これで安心。外の人に批判されても怖くない。政権与党やし。

2世になると、組織の指導が窮屈だと思う人がいる。週末や休日のすごしかた、どこの政党に投票するか、どんな新聞を購読するか、どんな本を読むか、どんな友達と付き合うか。誰を配偶者候補に選ぶか。ほっといてくれ。雨の文化祭で組体操とかしたくないし、池田大作のくだらない本も買いたくない。脱会者の家の玄関で犬に糞をさせるとか、ストーキングするなんてやりたくない。

自由な選択をすすんで放棄するといえば、まるでエーリッヒ・フロム先生の古典「自由からの逃走」ですが、その通り。この国の一定数の人たちは、選択の自由や民主主義やコンプライアンスや説明責任なんて面倒くさいと思っている。それはこの国だけではなく、おそらくいまの欧州人やアメリカ人の多くもそう考えているフシがある。

戦争状態のときに宗教に騙された、というのは昔の話。現代では、自由という面倒臭いものを捨てるために、自らすすんでカルトに入るんではないか。

当初考察したように、あくまで仮説ですが、一向宗はフィジカルな戦闘行為のもとで団結・拡大した。創価学会が急成長した1960年代後半から70年代は、荒っぽい時代でした。昭和30年代(1955〜1965)の少年犯罪は、その量と凶悪さで今日の比ではないそうです。さらに、学生を中心にしたベトナム戦争反対運動。それが分裂した赤軍派による内部者を惨殺する事件。週刊サンケイでは極真館をテーマにした暴力マンガ連載。明日のジョーの主人公も、タイガーマスクの主人公も孤児院育ち。その時代、我輩が生まれそだった今津では、創価学会と共産党と朝鮮総連が競合関係にありました。なんでやねん?宗教団体と政党と少数民族互助会が争う?砲弾が飛び交うことはなかったかもしれないけど、これは戦場でした。

戦場では異論や少数意見が封殺され、一致団結のふりができない人はよくて排除、気の毒な場合は制裁される。勝ったら拡大するし、負けても生き延びる。その時代に創価学会に入った人たち、いわゆる団塊の世代と、それより年寄りの人たちが創価学会に寄せていた思いと、それより若い世代はぜんぜん違うものを宗教に求めたんではないかと思います。

平和な時代が続くと、一致団結した宗教団体も、タガが緩むのに抵抗できない。自由とか民主主義という、日本の伝統にあんまりなかった考え方が移植されて70余年。創価学会だけでも60万人くらいの人が自由をみずから捨て、宗教法人の指導に従って生きている。60万人というのは、公明党の得票数の1/10、活動家ひとりが10票あつめるという仮定の数字です。その他カルトを合算したら、日本だけで100万人くらい。そのうち比較的若い世代は、自由なんて面倒臭い、ややこしいことは他人任せにしたいと考えていて、カルトに入ったんじゃないか。ウクライナやヨーロッパのネオナチは他人事ではない、ともいえます。しかしこの国では、片づけできない人は片付け屋さんに依頼し、書類仕事は税理士や司法書士に依頼し、地域のあれこれは政治家に依頼し、作文はAIに依頼する。年寄りは特養。アウトソーシングすれば何にも考えなくて済む、便利でユニークな国です。コンプライアンスだ、説明責任だ、それが面倒臭いのでカルト組織に入った会員たち。その受け皿の宗教法人は、コンプライアンスとか責任説明を果たさなければなりません。統一教会がいい見せしめになりました。アウトソーシング先が健全になれば、ヘイトクライムやテロに走る危険性が少なくなります。

日本は世界に先駆けてると思います。誇大妄想かもしれないけど。

1990年に創価学会が反日蓮正宗キャンペーンをやりました。1977年にいちどやって失敗したので、その反省をもとに一気呵成。聖教新聞、創価新報、第三文明、月刊誌「潮」など直系・傍系メディアのすべてで、大幹部、弁護士、芸能人、有名人など総動員して嘘を書き、嘘を語り、ついに自分らが言い出した嘘を自分らで信じ込んで、嘘の無限拡大再生産。それに加えて、脱会者・退会者に対するストーキングやハラスメントが日常活動に組み込まれ、辞めたらこうなるぞという見せしめ効果抜群。戦いの場で異論や少数意見は封殺され、みんな三色旗。500年前の越前一向一揆の戦場が、現代に蘇ってました。

30年以上たって「いやあ、酷かったよね。辞めてよかった。」と回顧してたら、西欧世界のメディアがロシア憎悪で似たようなことをはじめました。公明党支持者600万人に仕掛けられた謀略は、たんに閉鎖された空間のモルモット実験で、その成果を英米謀略期間がじっと観察していたんじゃないかと思うくらいの既視感でした。

ヒラリー・クリントンが国務長官だったころの、2012年に遡ります。リビアのベンガジという街のアメリカ領事館で、クリス・スティーブンスという大使が蒸し焼きにされて殺されました。ヒラリーがその知らせを受けたのが政府の公式メールではなく私用メール、しかも「あっつ、そう」てな感じで数時間放置。外交官が殺されるという最悪の事態を招いたのに、メディアは検証も何もしなかった。ヒラリーのくだりは我輩にはどうでもよくて、注目したのは気の毒なクリス・スティーブンス氏がピースコーの出身だということ。

ピースコー(平和部隊)というのはJFケネディがはじめた機関で、我が国の海外協力隊も「それに倣った」と言われています。協力隊関係者がそう信じているけれど、我輩は逆じゃないかと思う。木村肥佐生さんがチベットからインドまでやってきて投稿し、強制送還された。日本でGHQ(日本を占領していたアメリカ軍)に拘束・尋問されて洗いざらいしゃべった。その報告書がホワイトハウスに届き、JFKが注目して「これええやん」となってピースコーを発足させた。我輩はそう思っています。

ジョン・パーキンスというピースコーOBは世界銀行で働き、あるとき転向して「エコノミック・ヒットマンの告白」という本を書いた。青年海外協力隊OBがJICAで働いているように、いやそれ以上に、ピースコー出身者は外交官や国際機関で働く道が用意されている。そのヒントを与えたのが木村肥佐生さんだと思う。

江戸時代が終わって明治になり、日本が世界に目を向けるようになりました。東亜同文書院が設立されたのが1900年、明治33年。中国では義和団事件が起こりました。この年にはオーウェン・ラティモアが生まれました。ラティモアは中国で育ち、長じてルーズベルトの推しで蒋介石のアドバイザーになったアメリカ人です。前年1989年、石光真清がシベリアに渡りました。1902年には、シンガポールに日系妓楼83件、日本人の娼婦が611名いたそうなので、嗅覚のいい日本人はどんどん海外進出していたようです。日露戦争開戦が1904年。

我輩が注目しているのは東亜同文書院と石光真清です。東亜同文書院は民間で設立されたのに、選抜試験は県単位。選抜された学生には渡航・滞在・学費など全額支給されます。優秀な子弟は東大に行くか東亜同文に行くかと言われた時代。東亜同文に行ったら上海で徹底的に中国語を仕込まれ、最終学年の4年次には自分達で計画した「大旅行」、中国各地をチームで数ヶ月間にわたって旅行し、その報告書が卒論がわり。我輩が学んだ神戸外大の教授のひとりも東亜同文卒業生でした。ガチのトップスパイ養成大学といってもいいでしょう。石光真清は陸軍幼年学校を出た生粋の軍人ですが、ロシア研究が必要という主張が認められ、退役して民間人としてロシアに行きました。この頃の日本はめちゃダイナミック。彼の伝記は現場の雰囲気を生き生きと伝えています。

のちに阿片王と言われた里見甫が修猷館を卒業して東亜同文書院に入ったのが1913年。2年後にはシンガポールに本願寺ができました。宗教の進出は早い。石光真清も、あちこちで真宗僧侶を兼ねた軍人に意外なところで出会ったりしています。1916年に里見甫が第13回生として東亜同文卒業。翌年1917年はロシア革命。この年、天理教がマレー半島に布教拠点を作りました。天理大学の外国語学部が有名なのは、このへんに源流があります。関東大震災のあった1923年、里見甫は京津日日日報に入社。京津というのは北京と天津。京都と大津ではないので念の為。日本軍が御用メディアとして作った満州国通信と、電通が合体した国通の初代編集主幹に就任したのはこのメディア経験ゆえでしょう。この年に大杉栄を殺害した甘粕正彦は、のちに満州で里見甫、岸信介とともに活躍します。岸信介は安倍晋三の祖父です。岸信介はのちに里見甫の墓碑銘「その逝く処を知らず」を自筆で書きました。電通と安倍・岸一族。腐れ縁に歴史あり。

1937年、昭和12年に満州国がペルシア(イラン)から輸入した阿片が20万ポンド。岸信介が支配し、甘粕正彦がメディア界で活躍する満州国の財政の根幹は、中華マフィアと密接な関係を持つ里見甫がアヘン公売で稼いでいたようです。一説には国庫の1/4が阿片と。

東亜同文書院がエリート養成期間とすれば、もっと現場に近いレベルの組織もなんちゃって民間で作られます。それが1930年にできた蒙古善隣協会。善隣協会が1939年に作ったのが興亜義塾。軍事訓練と語学、そしてモンゴル人と起居しながらの生活で、現場レベルのスパイを育成します。卒業生で生き残って有名になったのが西川一三と木村肥佐生さん。我輩が注目する点は、日本が国(政府と軍)をあげてエリートから現場レベルに至るスパイの分厚い層を養成していたこと、そのほとんどが直営・国営ではなくアフィリエイトとして、いちおう民間で立ち上げられていること。その発想と実績は、当時どの国にもなかったダイナミックさがあります。青年海外協力隊も当然その延長線上にあります。戦争目的ではなく平和目的ですが、真剣に日本の行く末を考えた有能な人たちが動き、それに賛同した政治家がいたことは間違いありません。その青年海外協力隊がアメリカのピースコーを手本にしたと?臍が茶を沸かします。逆に決まってる。

ピースコーの初代派遣国リストを眺めると、ほとんどの国でのちにアメリカはクーデターか戦争のいずれかを始めています。ピースコーが国際協力ではなくスパイ養成目的だったのは明白。それだけでも青年海外協力隊とぜんぜん違います。どっちかといえば、ピースコーは興亜義塾のパクリです。

敗戦で行き場のなくなった東亜同文書院。その膨大な図書資料コレクションが関係者の苦労の末に日本に持ち帰られ、それを受け継いだのが愛知大学。東亜同文書院のOB会である滬友会も愛知大学が引き継いでいました。道理で愛知大学の中日辞典は、中国語業界でスタンダードだったわけだ。我輩が神戸外大の中国学科に入って、中日辞典を買わされたとき、そんな経緯はぜんぜん知らなかった。閑話休題。東亜同文書院卒業生で小説家になった沖縄出身の大城立裕さんの「朝、上海に立ちつくす」を読むと、東亜同文書院生、商社マン、軍人などの現地における交流が描かれていて、とても興味深い。

今は閉塞状態に見えるかもしれないけれど、それに対処する日本人のユニークなやり方は、あんがい世界に先駆けているかもしれない。きっとどこかに有能な官僚と、彼ら彼女らを支持する政治家がいて、オモテナシやアニメ以上のダイナミックなことが進行中かもしれない。じっさい、じいちゃんのじいちゃんくらいの世代は、めちゃダイナミックに動き回っていた。商社マンや軍人や坊さんだけでなく、ポン引きやデリヘル嬢まで。メディアなんていちばん遅いんじゃないか。

多くの企業がブラック呼ばわりされたくなくて、ハラスメント対策や情報漏洩対策などコンプライアンスに取り組んでいます。宗教法人で内部告発をするのは、きっと2世や3世でしょう。団塊の世代が死に絶えたら、絶滅する宗教法人もきっと出てくる。自由を放棄することに喜びを感じる人の受け皿は、カルトでなく、NPOになるかもしれない。きっと日本人は、ユニークな解決法を提示するに違いありません。

2023年11月4日土曜日

中村則弘 脱オリエンタリズムと日本における内発的発展

オリエンタリズムというのはアレである。石油欲しさに中東を制圧し、原材料と労働力欲しさにインドを植民地にしたイギリス、インドネシアから350年間も搾取して自国だけ発展させたオランダ、北アフリカを植民地にしたフランスが、学術界で手前勝手なスタンダードなるものを確立した。そして、正しいけれど自分達に都合の悪い論文に対し、特にそれが東方に関することであれば、「それっていわばオリエンタリズムだよね。」とケチをつけるときに使う用語である。

もうひとつ、西欧でもエキセントリックなやつが東方研究にはまり込み、イーデス・ハンソンの関西弁ほどやないけど、ムンバイをボンベイと言わないくらいのレベルとか、ちょっと漢字かけますくらいになってる人らがおった。本人らは一所懸命やねんけど、明らかに西欧白人系である視点から東方を眺めている態度、おんなじことを有色人種の研究者が言っても取り上げられないレベルの内容やのに、白人であるからこそジャーナルに掲載される文章を「オリエンタリズムやんけ」と小馬鹿にするのに使われる。

なんで小馬鹿にするかというと、白人はアジアに来ると目立つ。目立つし、金持ちやと思われるから、有利な場合もあるけれど、調査という作業では不利な点もある。不利な点は、どこまでいっても特別扱いされるところ。

ここからは我輩の自慢と思い出し話、つまり閑話。

+++++

1984年にニューヨークに送り込まれ、マンハッタンのチャイナタウンで北京語を使ったら、犬以下の扱いを受けた。犬以下の扱いだったけど、野菜とか肉をまけてくれた。華人は同胞(に見える人たち)を犬以下に扱うんだな、と思った。でも、まけてくれたよな。

1999年、クアラルンプールに送り込まれた。ケダ州のどっかで、華人系と思われてマレー人から不公平な扱いを受けた。日本人であることが相手にわかったら、地位が急上昇した。その時の高速エレベーター感は忘れがたい。

2009年ごろのある朝、寧波の路上飯屋でタイ人の同僚と一緒に不味いワンタンを食っていた。我輩はタイ語がほとんどできないので英語で話していた。気がつくと、周囲に人だかりができていた。「おたくら、なんで英語喋ってんだ?」と聞かれたので、「いやこの人タイ人だから中国語できないんだ。」と説明すると、「ああそおなんだ。」と納得して人だかりが消滅した。誰も我輩に「じゃあんたは何人なんだ?」と尋ねなかったので、誰かに自慢したくなった。

同じ朝の同じ場所で、白人がやってきてカウンターの中のおっさんに「何ができるかい?」と、とても流暢な北京語で尋ねた。カウンターのおっさんは面倒臭そうに、「壁(のメニュー)見な。」といった。白人は困った顔をして、「俺、漢字読めねえんだよな。」と英語でぶつぶつ言った。助けてやろうかと思ったが、不味い店だし、不味いって言ったのが聞こえたら面倒なので、助けるのはやめておいた。

あとで考えると、英語訛りのまったくない完璧な北京語を話すまで、たいそうな努力をした白人である。たいした努力もせず、漢字が読める我々の助けなど、おせっかいに違いない。

高速バスで浙江省を移動した。乗客の中に旅慣れない女性がいて、バスの中で嘔吐し、悪臭がバス内に立ち込めた。窓際の人たちは窓を開け、周囲の人たちがありあわせの新聞を集めて、吐瀉物を拭き取った。丸めた新聞紙を運転手に渡した人がいた。運転手は窓を開け、走行中に外に捨てた。罵り言葉を呟いたのはその運転手だけで、それ以外の誰もが無言で連携して作業を進めた。一番端っこの窓際に座っていた我輩は、窓を開けただけで、あとは静かに感動していた。周囲の人たちは、女性と顔見知りとか、そういうのではなさそうだ。誰にでもありがちなことに対する寛容さ。お互いさま精神。

高速鉄道で移動していたとき、同僚のタイ人と離れた席になった。列車が動きはじめてから、そのタイ人が困った顔をしてやってきた。「俺の席に他のやつが座っているんだ。」我輩はアドバイスした。「タイ語で文句を言ってみな。」中国人じゃないとわかったら、ちゃんと席をどいてくれたらしい。外国人には一定の敬意を払うようだ。寧波は古い港町だからだろう。

2012年、パキスタンのイスラマバードに送り込まれた。近所のモールのシーアの店に民族服を着て行ったら、店の若い人に「ブラザー」みたいに言われた。シーアの同胞ということなのだろう。その時、これでペルシア語ができたら楽しいだろうなと思った。

在パキスタン日本国大使館から「一部の日本人で民族服を着ると、アフガニスタンのハザールというモンゴル系のシーア派にしか見えない人がいる。タリバンはハザールを殺すので、該当する人は民族服を着ないように周知あられたい。」云々の通達が出された。あれは我輩のことだった。

我輩の密かな愉悦が発覚したのは、金曜日だった。職場のオフィスでは金曜日が民族服の日で、ある金曜日の夕刻に日本人学校のPTA会があった。娘の同級生の親が外交官で、情報収集インテリジェンス系のプロである。最初は「なんでパキの使用人が会場に座っとるんやろ?」と思ったらしい。会合が終わって、娘が我輩をパパと呼んだので、日本人とバレた。

近所のモールには、オフィス帰りに立ち寄る八百屋がある。いつも洋装だし、たいてい家内と一緒なので、「ハロー、サヒーブ(旦那ぁ)!」と認識してくれる。ある日、民族服で一人で立ち寄ると、全然認識してくれない。「ハロー!」と手を振っても無視である。その八百屋には、近在のお屋敷から差し向けられた民族服のピックアップボーイが何人もたむろしている。その一人だと認識されたようだ。我輩の容貌が、パキスタンまで通用するとは思わなかった。

それがおもしろかったので、民族服のおっさんらの隣、歩道の縁石に座っていた。その時に思った。我輩は、これが楽しいんだ。ふつうの人らにまぎれ、同じ目線で風景を眺め、同じ風に吹かれている。ときに犬以下に扱われるかもしれないが、そんなことは、この楽しさに比べたらどうでもいい。

+++++

完全に第三者視点なら、文化人類学をやったらいい。社会学とか、ふつうの人たちが何を考えているかを知りたいなら、溶け込む容貌でないとまずい。ときに犬以下に扱われても。異人には、やっぱり限界がある。にもかかわらず、あたかも限界なぞ存在しないかのように、西欧白人の観点から見て悦に入っておる。オリエンタリズム。

学術業界ではあまりに長く西欧がスタンダードとなってきたので、極東の我々は、西欧スタンダードというだけで平伏する奴隷根性の持ち主たちと、一方でその臭いがしただけで「むかっ」とくる者の極端な2グループに分かれた。中村さんはもちろん後者です。

我輩なぞ「むかっ」と来るほうだ。イギリスはスコッチとギネスとフェイクのブリティッシュ訛りの英語、フランスはチーズとワインとフェイクのフランス語訛り、オランダはゴータチーズとポテトフライとビールのグローシュくらいを贔屓にしておいて、あとはあんまり立ち入らない、関わらないで生きてきた。そんなけ知っておけば、その国の出身で万が一いいやつに出会ったとき、それなりに話題を持たせることができる。

中村さんは全然違って、学術界で真正面から勝負を挑んだ。勇者である。

そんな中村さんが、63歳で去ったのは、残念としか言いようがない。

本の内容についての感想はまたの続きで。

2023年10月1日日曜日

開高健と開高健ノンフィクション賞を受賞した中村安希のこと

開高健の作品は双極性障害みたいなところがある。ベトナム戦争シリーズのように緻密な文体があるかと思えば、エロジョークや食べ物や酒をテーマにした気楽なエッセイがある。一連の文体の中でも、ゴーゴリの翻訳文体みたいな長文もあれば、ただ「眠い。」という短文もある。エロジョークをテーマにした気楽なエッセイは、ポリコレ的に許されないような表現が多いので、読んでいて辛くなる。だからあんまり読まなくなった。

緻密な長文のほうは、開高健が若いころ傾倒していたというゴーゴリの日本語訳を読んで、悟った気になった。長時間のフライトを伴う旅をしていた頃、開高健のベトナムシリーズのどれかをカバンに入れていった。ゴーゴリを知ってから、長旅にはゴーゴリの「ディカーニカ近郊夜話」の日本語訳を持っていくことにした。長旅=開高健ではなくなったけれど、長時間のフライトに乗ることもなくなった。

ベトナム戦記シリーズは、関連エッセイも含めて名作だと思うが、時代の限界が見えることも多い。開高健がベトナムに行ったのは、ベトコン側ではなくアメリカ軍の従軍記者としてだった。否応なしに、アメリカ人から見たベトナムという限界がつきまとう。

アフガニスタンのアメリカ軍は、中村哲さんいわく、ふだんは基地に引きこもっていて、ときどき飛行機で出かけて行って爆撃する。ときどき出かけて爆撃するだけなので、大勢を変えることはできない。しかしアメリカ軍ができるのは、それくらいしかない。

オバマ政権になってからアメリカ兵が殺されるのを極端に嫌がったので、ドローンを飛ばし、テロリストとして登録された携帯電話の電波を受信したら、そこに向けて超音速ミサイルを発射してピンポイントで殺した。多数の一般人を殺害したけれど、「コラテラルダメージ」=巻き添えという言葉で黙殺した。大勢を覆すことができなかっただけでなく、アフガン人の反感を煽り、タリバン賛同者を増やした。

開高健の作品を眺めている限り、ベトナム戦争もそんな感じだ。ベトコンを炙り出すためにモンサント製枯葉剤で森林を破壊したり、ベトコンが隠れていそうな村をナパーム弾で住民ごと焼き殺した。基本的には、たまに出かけて蛮行する、というパターンだ。

思い出されるのは、アメリカ政府の派遣で蒋介石のアドバイザーをやっていたオーウェン・ラティモアのコメント。ラティモアは共産党の勝利を確信していた。なぜかというと、蒋介石の国民党軍の幹部は全員が地主階級のボンボンであり、彼らにとって農民とか兵隊というのは牛や馬と同じレベルであって、牛馬と農民・兵隊は、中国語を理解するかどうかの違いだけだった。共産党は、人間をふつうの人間として扱った。それだけで、他にたいしたことをしなくても、農民を組織化することができた。

開高健の記述では、南ベトナム軍、つまりアメリカ側で戦っているベトナム兵は、バケツにぶちこんだおよそ人間らしくない食べ物を、「ピャウピャウバウバウ」と話しながら食べている。

「ピャウピャウバウバウ。」
ここに開高健の限界が現れている。同じアジア人でありながら、ベトナム語を学ぼうとも理解しようともせず、英語でアメリカ軍人とコミュニケーションをとるだけで文章を書いた。

それ以外のところ、深淵を覗き込んだような表現が魅力的なのだが、「ピャウピャウバウバウ」で興醒めしてしまう。

そして、開高健が残した開高健ノンフィクション賞。中村安希さんの「インパラの朝」は、ぜんぜん面白くなかった。サントリーの広告に釣られて、買って飲んだ酒が意外とふつうだったので、マーケティングに乗せられた後味の悪さが残る。それと同じ感じだ。

開高健もサントリーのコピーライターだった。開高健は、その殻を破ろうとしてもがいたのだろう。青春時代にゴーゴリの文体に出会い、「わいもこれでいくぞ!」と決めて文章修行。家族をくわせるためにサントリーのコピーライター。中年以降、釣りをテーマにした写真紀行文でコマーシャル的に大成功。我輩は18歳の頃からそれに馴染んできた。

しかし、開高健の魅力は、コマーシャル的じゃないところにある。いまでもそう思う。

開高健という名前に、期待しすぎだろうか。

2023年8月26日土曜日

点石斎画報に見る明治日本 石暁軍 東方書店

中国人が明治時代の日本人を描写したのに、解説がついている。

上海の宝善街の日系遊郭「日昇」で生臭坊主が女郎買いをしようとして物議を醸した。1885年(明治18年)のこんな話が、イラスト入りで紹介される。

点石斎画報は1884年から1898年にかけて発行された。日本でいえば明治時代の後半。

そのへんは、石光真清の4部作の時代背景と似通ったものがある。石光真清は明治元年の生まれ。彼の青春時代に、日本人がどんなふうだったかが中国人アーチストによって描写されている。

デタラメな生きかただったひい爺さんの幾太郎が、日清戦争とか日露戦争に行ったのか行かなかったのか、それはなぜか?みたいな興味からはじまり、同時代の石光真清に行き着いた。当時の日本人の国際感覚はどんなふうだったのか。興味と想像が尽きない。この本はそれをビジュアル面で補強してくれる。



茶館 竹内実 大修館書店

中国の地理・地勢に関する、碩学による蘊蓄たっぷりの本。お茶とか喫茶店とかぜんぜん関係ない。ほな、なんで茶館かといえば、いろんなことを語り合うから。

中国にはじめて行ったのは、上海にリニアモーターカーができて何年か経ったころだった。その時はリニアモーターカーじゃなくて自動車で移動した。中国の大きさに感心した。こんなところを占領しようとした日本軍はどれほどアホのかたまりだったのか。最高司令官の「朕」も含めてな。

日中戦争の準備のため、ある軍人が地勢の調査のため湖南省の長沙のあたりにやってきた。糞ど田舎だと思っていた山間部で、国民党のレーニン主義軍隊を見てめっちゃびっくりしたという記録が語られる。

なんや、ちゃんと調査してたんや。それでもあのアホな戦争を始めたということは、誰も調査報告書を本気で読んでなかったんやな。

スコット・リッターがX(旧ツイッター)でゼレに「無条件降伏やな。1945年9月12日の日本やで。」と言った。大日本帝国の大本営のアホのかたまりが、世界規模に拡大してしまった感のある昨今である。

奥書に昭和49年ということは、1974年の本。我輩は16歳である。その3年後に我輩は中国語を学びはじめたのだが、その頃にこの本を読んでいたら中国の見方がぜんぜん違っていただろう。

竹内実と竹内好。似たような名前で、両方とも中国研究者である。「茶館」の竹内実さんは1923年中国生まれ。竹内好さんは魯迅を翻訳した人で、1910年生まれ。



2023年8月23日水曜日

長田夏樹論述集(上) ナカニシヤ出版

まだ読んでいない。ぶあつい本なので、これからぼちぼち読む。 

何年か前、「長田夏樹先生追悼集」を手に入れた。太田齋先輩の文章を読んで、思わず声を出して笑った。

+++++
忌憚なく申し上げれば、長田夏樹先生はやさしく噛み砕いて教えるということがまるで出来ない方であった。決してその気がおありで無かったということではない。受講生からすると、先生が説明すればするほど益々訳が分からなくなるのである。先生の学問の中心を成す漢語音韻学が、初心者には極めて取っつき難いものであるが故に、その思いが特に強い。
+++++

1920年生まれ。東京外大蒙古学部を出て華北交通に就職。敗戦後の中国で人民解放軍に合流して通訳業。それに飽きて放浪中に国民党軍に拘束され、日本人だとカミングアウトして帰国。

我輩が長田先生の謦咳に接したのは、神戸外大の中国学科3年だった1979年、漢語音韻学の授業である。我輩にはめっちゃ面白い授業だったが、同級生の全員が「わけわからん」と投げていた。たぶん我輩は、15歳の頃から法華経を毎日読誦していて、ひらがなで表記される日本語の漢字音について納得のいかない何かを感じていた、だから中国語音韻学にはまったのだろう。

長田夏樹先生のお嬢様が編纂された「長田夏樹年譜」には、日中友好交流の旅で宴会の席上、口に含んだ白酒を噴射し、それに点火して火を吹くという芸を披露しようとして、周囲の日本人学者に止められたという逸話がある。それは我輩と同学たちが長田先生を囲んでコンパしたすぐ前だったのではないか。長田先生はグラスになみなみとついだウィスキーを一気飲みし、白酒で火を吹くという話をしてくれた。

今にして知るダイナミックな生き方の長田先生である。標記の本の目次から、面白そうなところをざっと斜め読みしただけで、長田先生のスタイルが思い出される。

長田先生は講義でも論文でも、いちばん面白いところを最初に言ってしまう。イラチである。学生がイントロだと思っていたら、それがハイライト。結論。聞き逃したらおしまい。あとは付け足しの注釈である。だから冒頭の「先生が説明すればするほど益々訳が分からなくなる」のである。



手記・私の戦後50年 ABS秋田放送ラジオ局

 今年で戦後78年。戦後50年ということは28年前。

この本を落札したことを朝食の席で内儀にいうと、
「私も読みたい。」

到着したとたん、おかんが
「読みたい。私の年代や。」
94歳である。しょうがない。我輩が読む前に手渡した。

千葉県柏市に住んでいた頃、お向かいに清水さん宅があった。そこにはハゲの爺さんがいた。爺さんが笑うときは「たー。たー。たー。」と聞こえた。ずいぶんユニークな爺さんと思っていた。あるとき一緒に酒を飲む機会があって、戦時中は憲兵だったと言ってた。そして、満州娘のことになると「ぐひ。ぐひ。ぐひ。」と卑猥な顔で笑った。こいつはリアル鬼畜だなと思った。

青春時代に中国語を学んだので、白毛女のストーリーは知っていた。この爺はリアル白毛女の世界で日本鬼子の憲兵だったかもしれない。

普通の父親が鬼になるのが戦争なんだ。戦争で鬼であっても、帰国したら普通の父親になれるんや。

おかんは16歳の時、大阪の西淀川の日本油脂の佃工場で働いていた。空襲があって、千船大橋を渡っていたとき、アメリカの戦闘機に狙い撃ちされた。けど助かった。

16歳の少女をしつこく狙い撃ちにする空軍兵て、どんな鬼畜や。それでも戦争が終わって帰国したら、普通のパパやってるんやろな。

納得できない。

まだ読んでないが、そんなことを思い出させてくれた。





2023年8月19日土曜日

笑笑録 岳麓出版

ヤフオクで箱買いした本のうちの一つ。本そのものに興味はないが、開けたらハラリと落ちてきたのが、東方書店の領収証。大阪女子大というのは、大阪府立大学に吸収されたいくつかの大学の一つ。そこで教えていた先生が授業のために買ったのかな。ユーモア小説集なので、研究目的ではなかろう。

箱買いした本の持ち主の謎は深まるばかりだ。

その多くは、開いて読まれた形跡がない。

魯迅選集から出てきたスランゴール国王の招待状の主、ノザキミツアキ氏は、ググってみると高エネルギー加速器研究機構の教授しか出てこない。物理学の人がクアラルンプールで開催される「考える日」の記念式典に招待される、というのはあるかもしれないが、その人が魯迅選集を原文で読むか?

大阪女子大学に理学部はあったけど、理学部で笑笑録を取り寄せるか?しかも東方書店なんて、中国語関係のツウの人しか知らない。



老舎在北京的足跡 李犁耘 北京燕山出版社

老舎は生粋の北京人で、生粋の北京語で小説を書いた人。文化大革命で殺されてしまった。自殺という説もあるけど、文革がなかったら死ななかっただろう。だから、ほぼ殺されたと言っていい。

ヤフオクで、一箱なんぼかで買った本のうちの一冊。魯迅選集がほしくて箱買いしたので、他のはあんまり興味がない。この本は、後半に写真がいっぱい掲載されているので、読むことにした。






2023年8月10日木曜日

ニューエクスプレスプラス ロシア語

やっぱりロシア語をやることにした。トルコ語は第10課と単語集で中断。

我輩はそもそもトルコに行きたいわけではない。イスタンブールで騙されたりボラれたりしたくない。しかし、ウズベキスタンとかキルギスとかカザフスタンには行きたいと思う。キルギスとかカザフスタンは半分くらいロシア語が通じるらしい。ちなみにタジキスタンはペルシア語の世界だ。

トルコ語をギヴアップしたわけではないが、いつでも中断できるし、いつでも再開すると考えることにしたわけだ。

それと、トルコ語の単語みたいに系統立ってもいないし、馴染みも全然ない単語を憶えるくらいなら、いろいろ載っかっているロシア語を憶えてもええんじゃないかと思った。

「いろいろ載っかっている」というのは何かというと、性とか時制とかである。トルコ語にも母音調和というのが載っかっていて、ひとつの機能の単語が3つくらいの顔を持っている。顔が違っても機能が同じ、といえばいいのかな。ロシア語は明らかにテュルク語の影響で同じような現象がある。それに加えて性たら時制たら憶えたらええというだけなので、おんなじようなもんじゃなかろうか。

あれこれ理屈を言い出すとややこしいが、トルコ語は日本語と構文がほぼ同じという気安さもあって、いつやめても、またいつ始めてもいいと思った。

それと、子音が多い単語は憶えやすい。




イスタンブール路地裏散歩

あちこちに「騙されてはいけない」「ボラれるから気をつけろ」みたいなことが書いてある。「なんでそんなとこ行きたいねん?」と考えさせる本である。

我輩はトルコといえばイスタンブールしか知らない。イスタンブールでほっとする正直そうな店はたいてい路地裏にあるロカンタ(食堂)。表通りの店はことごとく詐欺師だ。その意味でこの本は正しいが、それって観光プロモーションになるんか?

何百年も帝国の中心だったとか、交易の十字路だったところは、詐欺師が多くて当然。我が国の京都でも、昆布を入れた湯で豆腐を煮ただけの料理で何千円も踏んだくるところがある。あ、堪忍な。そういうのは詐欺ではなく風格という。今津育ちやから、ものごとをはっきりと言いすぎるきらいがあってな。

何千年の歴史があっても、イランのエスファハンは上品だった。例外かもしれない。



2023年7月22日土曜日

世界史とつなげて学ぶ中国全史 岡本隆司 東洋経済新報社

めっちゃためになった。我輩が受験生のときに、こんな本を出して欲しかった。

中国の歴史が、気候変動やら貨幣やらモノ(コメとか塩とかシルク)の流れに基づいて解釈される。目から鱗が落ちるというやつだ。

こんなふうに、高校生でも中国の歴史がスパッとわかる:

秦漢時代に「中華」という概念ができあがった。ただし中華はシルクロードの東端という位置づけで、世界史から独立していたわけではない。

五胡十六国から南北朝は寒冷化の影響を受けた戦乱の時代。

隋唐は異民族が中華を再統一した時代。

唐宋時代に温暖化で生産力が激増した。

元のとき、中華はモンゴル世界帝国に組み込まれ、世界に開かれた。

明の時代、官は引きこもりになったが、民は活発に活動した。この頃から南北格差より東西格差が大きくなった。

清の時代、明のシステムに乗っかりつつ開放化した。

+++++

考察1。ロシア制裁というのは官の一方的な施策である。G7たらゆうて政府自民党と公明党がアメリカの言いなりになって、好き勝手放題している。一方で、天然ガスや食糧(穀物とか漁業)を真剣に考える民間は、ロシア制裁なんかないほうがいい。軍需なんていうアップダウンの激しい業界に参入したくないし。この官民の温度差、というより隔絶は、明の時代にそっくりだ。明の時代、官は鎖国・引きこもりが国是だった。いっぽう民間は密貿易とかやりたい放題。この頃から、人民はお上の施策を「それはさておき」と、対策を講じつつビジネスに励むという伝統ができた。税金なんて、ごまかしたもの勝ち。役人なんて賄賂でなんとでもなる。有能なやつは兵隊にならない・・・とか。官民が断絶すると、国の将来に暗雲がたちこめる。これ歴史の教訓。

考察2。一路一帯というのは、西方と直結することで中国国内の東西格差をなんとかしようというプロジェクトだ。このルートの先には穀倉とエネルギー地帯が広がっている。枝分かれして海洋にもアクセスできる。ロシアと仲良くしておいたら、枝分かれで北極海にも行ける。アメリカによる対露制裁と、アメリカにまったく賛同しないBRICS・・という昨今の国際情勢が、たまたま一路一帯に合致したんだな。




2023年7月5日水曜日

ニューエクスプレススペシャル 日本語の隣人たち 白水社

富士見町の図書館には白水社のニューエクスプレスシリーズがほぼ全部揃っている。公立図書館としては稀有だと思う。金曜日に借りてきたのがこの本。

隣人といっても、朝鮮語や中国語などメジャーなところは相手にされてない。それは別にあるから。この本で紹介されているのは、世界で一番寒いところのサハ語(ツングース系)、ハワイイ語(ポリネシア系)、台湾の先住民のセデック語(オーストロネシア系)、ブータンのゾンカ語(チベット系)、樺太アイヌ語、オイラートモンゴル語など。

超マイナー言語ばっかり。

そんなマイナー言語で学位をとる、ほんまのマニアというかオタクというか、変態(褒め言葉)がおるんやな・・という発見も面白い。

たしかこの本のどっかに書かれていたと思うフレーズがあった。それは、トルコ語と日本語は語順がほとんど同じだけれど、語彙はぜんぜん共通性がない。日本語をテュルク語族のアルタイ語系に分類したがる人がいるけれど、ちょっと無理があるんじゃん・・的な内容。

我輩の恩師、長田夏樹先生はまさにその、日本語はアルタイ語の端っこであるという学説を唱え、万葉集の音韻に母音調和が残されていたという研究をした人。不肖の弟子としてトルコ語をちょっとだけ齧った我輩は、トルコ語と日本語はぜんぜん違う系統の言語で、たまたま語順が似てただけ、と言いたい。

言語系統説というのは、印欧語族には適用できるかもしれないが、テュルク語族にそれは当てはまらないと思う。

さて、気を取り直して、またトルコ語に戻るか。



ニューエクスプレスプラス ペルシア語 浜畑裕子 白水社

 3度めの登場です。

毎朝の通勤電車でトルコ語を勉強している。そろそろ2年くらいになる。その前は、同じ通勤電車でペルシア語を3年間くらいやっていた。

トルコ語は文法の比率が重い。母音調和という法則があるので、同じ意味と用法でも見た目が異なる。理屈を知らないと、なんでそうなるのかわからない。「どうやったかいな?」「なんでそうなんねん?」とブツブツ言いつつ、例文と対比表を行ったり来たりしている。だから、なかなか先に進まない。ついに10課、ちょうど真ん中へんまで来て、息切れ。バケーションが必要だ。

それで、音が優しく懐かしいペルシア語に回帰。回帰して気がついた。ペルシア語は教科書の例文をほとんど丸暗記したけれど、文法にはまるで注意を払っていなかった。音と意味をなんとか覚えている例文をおさらいし、文法解説を読む。まるで初めて読むかのように、「おお。そーだったのか!」と新鮮に驚く我輩である。

トルコ語をいちおう終わったら、つぎはロシア語をやってみたい。トルコ語を早く終わらせないと、ロシア語に行けない。大変だ。



2023年7月3日月曜日

戦争とスタンプ 全9巻 速水螺旋人 講談社

 漫画である。とても面白い。月姫に貸し出してしまったので正確に引用できないが、名言がときどき、さりげなく置いてある。

「戦争っていうのは、勘違いと、忖度と、縁故と、コネと、たまたまの偶然ばっかりなんだ」みたいな。

舞台はたまたま、いまロシアとウクライナがどんぱちやっているところ。






ウクライナ戦争の200日 小泉悠 文春新書

小泉さんはディミトリー・トレーニンの著作とか翻訳している人なので、いろんな見方を提示してくれると期待していた。でもこの本を読んだら、単なるプロパガンダ要員だった。残念。ロシア語ができるし、奥さんもロシア人みたいなので期待したのだが、いわばCIAのロシア担当分析官が日本語を話しているようなもんだ。

なんでそうなっちゃったかは知らないが、おそらくワシントンDCとモスクワしか見てないんじゃないか。たとえばイスラマバードの市場で日本人と認識されず、ほぼ犬と同じレベルの扱いを受け、しかたがないので普通のおっさんらの隣の地面に座って、おっさんらとおんなじ目線で風景を見たり、風を感じたりしたりした。そんなめっちゃ楽しい思いをしたことがないのだろう。

それでも時々いいことを言っている。ロシアは資源があるし、技術も人もいるから、引きこもって、そこそこのものはなんでも自分らでできる。だから強い、みたいな。

そう、日本は資源がない。その日本が「西側」だったり、なぜか白人国ばっかりのG7に入っていたりすることが、1980年代生まれの日本人(小泉さん)はどうして当たり前に思えるんだろう?

もうひとつ面白いと思ったのが、対談相手のドイツ人女性の話。ドイツに出稼ぎに来ているモルドバ人ていうのは、泥棒するのが当たり前みたいにモラルがない。モルドバ人はそういうもんだって、ドイツ人は思っていると。

この本の話ではないけれど、それで思い出した。今日翻訳した記事の中でこんなのがあった。EUに難民としてやってきたウクライナ人女性いわく、「ここで掃除婦なんてできません。私たちはアラブ人じゃないんですから。」

ウクライナ戦争が始まってからもう500日くらいになる。パリが燃えているらしいが、マスコミはほとんど報じない。



2023年6月27日火曜日

優柔不断術 赤瀬川原平

赤瀬川原平さんが2014年10月26日に亡くなっていたことを知った。
なんでこんな大事なことを知らなかったんだろう。それは、パキスタンのイスラマバードから帰国して、つぎの任地であるイランのテヘランに出発する準備で、あたふたしていた時期だったからだ。そうに違いない。

赤瀬川原平さんは1999年ごろ、たてつづけに重要作品を出した。「老人力」も「ライカ同盟」もそう。しかるに我輩は、1999年から2002年までマレーシアのクアラルンプールにいた。「老人力」を読んだのは2007年ごろ、「ライカ同盟」を読んだのは2020年ごろのことだ。「ライカ同盟」を読んだ頃は、まだ原平さんが死んだことを知らなかった。

この「優柔不断術」も1999年。この本は長和町の道の駅の古書コーナーで発見・購入。「老人力」「ライカ同盟」の軽いノリで読みはじめた。はじめは内容も軽いノリだったのに、読み進めるうちにどんどん深くなってきた。後半にはいると、メモしておきたいような重要な表現が出てくる。

「裏側が描けてない」

「言葉はあいまいが真実である」

「芸術方面の人は、だいたい子供的である。その証拠に、すぐ哲学になる。」

赤瀬川原平さんは、考えに考えぬいて、その結果をわかりやすい形で提示する。まるで「ぽてん。」と路上に置くみたいに。それがたいへんおもしろく見える。トマソンだ。彼が切り取ったり、提示したりするものは、あんまり面白いので吹き出してしまうこともある。でもそれは、さんざんデッサンをしたのに「裏側が描けてない」と言われたりして、さんざん蓄積された見る目が生み出すおもしろさだと思う。

原平さんは1937年の生まれなので、この本が出された1999年には62歳だったはずだ。我輩はそんな歳を過ぎたが、原平さんみたいに面白いことを、さりげなく路上に置き去りにできるかな。





2023年6月20日火曜日

手数料と物流の経済全史 玉木敏明 東洋経済

ブックオフで1000円で購入。

新品同然の本を開くと、はらりと落ちたのが「著者謹呈」の栞。謹呈したのに開かれずに古本屋直行なんて気の毒に・・・。

読みはじめて気になったこと。文体が統一されてない。特に、

のである。
となっている。
意味する。
ものである。
だろう。

が多用されているところと、そうでないところが際立っている。

上に列挙したのは、AIが生成した文章の特徴だ。「ワシが舞い降りたった」というブログで毎日せっせとロシア発の英語記事をAIで和訳して掲載している拙者だ。エディターでまっさきに修正するのが上記のAI癖。

物流の歴史なんてタイトルなので、気張ってホモサピエンスの出アフリカから書きはじめてしまったものだから、AI作文で埋めたのかな。東洋経済と共謀したのか、それとも東洋経済の編集者の目が節穴なのか。それはどうでもよろしかろう。

ヨーロッパのところになると、さすが玉木先生のご専門なので、AI文体ではない。文体は気にならなくなったが、内容の雑さが気になる。アルメニア人とセファーディックユダヤ人に言及したのはいいとして、歴史を撫でたような紹介だけで、なんでそうだったのか、それからどうなったのかというのが決定的に欠落している。面白くない。イエズス会に相当数のコンベルソ(セファーディックユダヤ人でカトリックに改宗した人たち)が流入したという仮説もいい感じだが、実証のないまま次に進んでしまう。残念だ。とても。

マイケル・ハドソン先生はイギリスが世界帝国になる上での原資はインドにあったことを明かしたが、この本にそういう知的興奮は期待できない。歴史の教科書を眺めたような眠さが読後感でありました。

ここまで書いて考えた。これは著者に謹呈された人がブッコフに持ち込んだんじゃなくて、著者その人が持ち込んだんじゃないのか。出版社と著者とブッコフの緊密なコンスピラシー。もう一つの出版ビジネスモデルてか。



2023年6月13日火曜日

建築学の教科書 彰国社

安藤忠雄さんとか藤森照信さんとか、いろんな建築に関わる人たちのエッセイ集。その二人しか知らない。エッセイと言っても、出会うとか探るとか刃向かうというテーマが与えられている。

+++++

「昔、美しい樹の下で、ひとりの人が教師であることも知らずに、これもまた自分たちが生徒であることを知らない人びとと話しはじめた。」

これが学校の真のはじまりだと建築家ルイス・カーンはことあるごとに、ともに働く人々に語った。

+++++

こんな本だ。おもしろかった。



2023年6月11日日曜日

ロシアの正しい楽しみ方 「勝手にロシア通信」編集部

おすすめは次の章

「ロシアの友を日本に呼ぼう!」

・・・カルムイク出身のメルゲンが日本に行きたいというので情報集めと保証取付に奔走する話。メルゲンはけっきょく日本に来られなかった、というのもパスポートを申請していなかったからというオチ。そのメルゲンをカルムイク共和国まで出かけて探すのが次の章。

「カルムイク共和国で尋ね人は探せるのか?」

ちなみに、いつかシベリア鉄道に乗りたいと願う我輩だが、おそらく5ダースくらいのお土産を持っていかんとあかんだろうな、と思う。そんなことを想像させてくれる。




2023年6月4日日曜日

ユーラシアの東西 杉山正明

月子の家にあったので、「これおもろいやん」とコメントすると、「それパパが持ってきたんやで」とのこと。

どうやらロシアの特別軍事作戦が始まる前に読んだのと、始まって何年かたって読んだのとでは面白さが違ったようです。

済州島で開催された学会に参加した杉山さん。鎌倉時代の元寇について、その頃は気動船ではなく、風まかせの帆船の時代で、海運は海流に大きく左右される。そんなことを前提にしないと歴史は解釈できない云々と言います。大変おもしろい。

しかし同じ杉山さんが、アフガンに攻め込んだアメリカ軍について、南下したいロシア、西に勢力を延ばしたい中国、東に勢力を延ばしたいイラン、北に勢力を延ばしたいインド、これらの勢力にアメリカが楔を打ち込んだ、みたいな言いかたをしています。

中村哲さんは、アメリカ軍は空軍基地にひきこもっていて、ときどき飛行機で出かけていって爆撃する、それだけだ、みたいなことを書いていました。最終的に撤退。だから、杉山さんの見立てはぜんぜん違った。地図とか地形図とか眺めているだけでは、よくわからないし、解釈がとんちんかんになる。

歴史家は、数百年から数千年とかいう視線で歴史の因縁を考察するので、比較的短期の国際政治みたいなのにコメントすると、当たるときもあれば、大きく外れるときもある。

この本で名前だけ触れられている廣瀬陽子さんは、ウクライナ戦争がらみでメディアに登場し、とんちんかんでマトはずれ、結局BBC・CNNのデマ追認という役割をふられた。それは彼女が歴史の学者で、数百年みたいなながーいスパンでウクライナとロシアのことを調べてきたから。

済州島の海流みたいに、無理なことをゴリ押しして、それでもうまくいったというのは、歴史ではあんまりない。ハンニバルくらいかな。

杉山さんはこの本でロシア軍をアホ扱いしていますが、それもちょっと違うんじゃないかな。軍隊は装備を揃え、兵隊を訓練し、飯を食わせ、動かす組織。地道にゴリゴリやるしかない。本当のアホはアメリカの政権中枢とシンクタンクではないか。明治維新以来の日本という、欧米にとっての成功体験が彼ら彼女らをアホの塊にさせたのではないかと我輩は思う。

明治維新というのは、ウクライナみたいに弱体だった日本の皇族を、ウクライナみたいに西欧が資金や軍事ノウハウや軍備で支援して成功させたクーデター。明治政府をおだてて、中国とロシア相手に立て続けに戦争させ、近代の分水嶺みたいなのにしたのも欧米。その日本を陥れて、大東亜戦争に持ち込ませ、核爆弾で一般人を殺戮し、占領したのも欧米。躍らされた日本は、それでも欧米に貢献してきました。

それから欧米は戦争に勝っていない。勝たない戦争をずるずる続けることで、軍産複合体が太り続け、一方でシンクタンクも政権もアホの塊になってしまった。

24歳のときイラクに派遣され、砂漠で途方に暮れた我輩。こんなとこでどうやって食い、眠り、生きていくのか。ここの人たちは何をくい、飲み、どこで眠り、どうやって生きていくのか。地図とか地形図とか、人口とか分布とか、資本力とか軍備とか、輸送ルートとか気候とか、河川とか季節とか、そういう机上の知識もだいじだけれど、そこで人々がどうやって生きていってるのか、そんな視点がないとアホになると思います。

下諏訪にも観光客が戻ってきました。外国人のグループもいます。下諏訪には首塚というのがあります。ウクライナみたいに弱体で、西欧の支援でようやく歩きだした明治政府。プロパガンダ目的で「明治政府になったら年貢免除!」というスローガンを広めるため、血気盛んな若者をリクルートし派遣。そのグループが下諏訪あたりまできた時、どうやら明治政府が勝ちそうな趨勢になった。勝ったら免税なんてやるわけないので、プロパガンダ隊が困ったことになった。邪魔なので捕まえて殺した。それが首塚。名誉回復したのは随分あとだそうです。

イデオロギーや勢いで突っ走ると、ろくなことはない。

普通の人たちは、明治政府が勝つか、徳川幕府が勝つか、勝ったほうに従うに決まっています。あるいはその土地で声の大きい人に従うしかない。現地の人たちが何を食い、どこで眠り、どうやって生きていくのか。地面に近い視線で想像力をめぐらさない限り、アホのかたまりになってしまいます。

杉山さんの指摘で面白かったのは、もうひとつ。グルジアとの戦争は、ロシア軍がずいぶん前の時点で準備していたに違いないというところ。それはそうだと思う。サーカシビリはずっとやんちゃなことを言ってきたから、当然でしょう。でももっと面白いと思ったのは、グルジア戦争以来、西欧はウクライナをうまく活用してロシアをやっつけてやろうと思っていたんじゃないかな、と気づいたこと。中国をやっつける前哨戦でロシアに手を出させたというんじゃなくて。中国とはぜんぜん別の文脈で。



2023年5月27日土曜日

魯迅選集

ヤフオクで魯迅選集ほか31冊を1000円ほどで手に入れた。そのほとんどは文学関連の評論とか注釈とか資料集で、本編そのものは少ない。魯迅選集と「魯迅詩浅析」以外はたぶん読むことはなかろう。

ヤフオクで出ているのはこれだけではない。大量の中国関係文書が箱売りされている。「いったい、どんな人が逝去したのか?」という疑問が沸く。

前年秋の同学会で戸崎哲彦先輩の訃報に接した。戸崎(ふーちー)は我輩より4年上だが、彼は大学院修士課程に進んだので、2年間交流があった。中国語のこと、学究を志すということ、本の買いかた、酒の飲み方など、じつにいろいろなことを教えてくれた。

我輩は中国文学に特段の興味があったわけではない。なぜ戸崎先輩が我輩にいろいろ教えてくれたのか、よくわからない。長田夏樹教授が教えていた中国語音韻学の講義を、他の誰も理解できないと言っていたが、我輩だけが面白がっていた。それくらいしか理由が浮かばない。

なんどか彼の下宿に泊めてもらった。彼の下宿にはキャラの濃い先輩たちが何人も住んでいた。その中のひとり、勝原一朗先輩はずいぶん若い頃に逝去した。もうひとりの中村則弘先輩は、のちに長崎大学でずいぶん偉い人になったが、コロナ禍の最初の年に逝去した。

戸崎は故郷の鳥取の大学で研究を続けていたと聞いた。ヤフオクで見つけた中国書籍の発送元は岡山県。どうやら違う。

荷物がついて開梱し、めあての魯迅選集を開くと、書状が一葉はらりと落ちた。一面には英語で、もう一面にはバハサ。マレーシアかインドネシアか。どうやら招待状である。場所はクアラルンプール。宛先はノザキミツアキご夫妻、日付は1961年2月25日。「スランゴール国王の主催による考える日の会」云々とある。ノザキ氏は外交官か、もしくは研究者であろうか。研究者で学会なら夫妻で招待されないだろうから、やはり外交官か。

外交官で魯迅選集はじめコアな中国語書籍類をご所有となれば、中国語業界の関係者に違いない。おそらく、ずいぶんご高齢で逝去されたのか。岡山という立地であれば、ひょっとして同学の大先輩かもしれない。

そんなことを考えながら、魯迅選集の上巻を開いてびっくり。発行者が「北京西総胡同甲50号」の開明書店、初版が1952年4月、主編が「茅盾」とな。

茅盾というのは、中国近代史上の人物である。

これは博物館にあるべき書籍かもしれない。こんど同学会に持っていって、見せびらかしてやろう。






2023年5月16日火曜日

コントラバス

 本ではない。楽器である。トルコ語も朝鮮語もロシア語もやりたいと願っているくせに、コントラバスも買った。

言い訳だが、トルコ語は本を買ってから1年で半分まで来た。朝の電車の30分、週5日だけの緩慢な歩みである。だからコントラバスも、夜更けの30分くらい触っていたら、なんとかなるんじゃないかと思う。


じつはエレキベースならあったんだ。アリアのヴィンテージを入手して、フレットを抜いて溝を埋め、サンドペーパーでつるつるにしてフレットレスにした。なかなかいい楽器に仕上がった。アンプを繋がずに弾いても味がある。しかし音圧がない。アンプに繋ぐと、ノイズがのったりあれこれめんどうだ。だからリサイクルショップに売ってしまった。

やっぱり音圧ならアコースティック。4/4サイズだからこれ以上の大きさは望めない。安定のスズキブランドやし。スクールモデルみたいなので、そんな高級じゃないけれど、人前で弾くわけでもない。自分が独り悦に入っていればいい。

自分の頭のなかで鳴っている音を表現するのに、これ以上の楽器はないと思う。

ニューエクスプレスプラス ロシア語

こないだ「清里のマリヤ」で茶をしばいたときのこと。月子が店主夫妻とロシア語で楽しそうに話しているのを眺めていて、ロシア語ができたら楽しそうだなと思った。

いまはまだトルコ語を、おなじエクスプレスシリーズの教科書で勉強している最中で、ようやく10課にきたばかり。半分である。本を買ってからここまで来るのに1年かかった。ともかく、トルコ語の本を一冊終えなければならぬ。

それからロシア語に行くかというと、じつは朝鮮・韓国語が待っている。トルコ語をやっているうちに、配列がほぼ同じ朝鮮語をやりたくなった。配列という点では、日本語もほぼ同じだ。しかしトルコ語を勉強すると、自分らの使っている言語を外国語みたいな目で眺めることになる。配列がほぼ一緒やから。トルコ語がこうなら、朝鮮語はどうかな?と知りたくなった。

さいわいハングルはずいぶん昔から読めるので、いきなり始めることができる・・・。じつはトルコ語も舐めてかかってさんざん苦労したのだが。

ロシア語はいつのことになるかわからない。月子が辞書をくれた。彼女はデジタル版を持っているから、紙の本をくれたというわけ。これを机において、しばらく眺めることにしよう。とりあえず。



ぐるぐる博物館 三浦しをん

連休で月子とはなこが出入りした部屋にあった。読みはじめて、あんまりおもしろいので一気読み。「人間って面白い」とオビに書いてあるが、三浦しをんの変態さがいちばん面白い。



2023年5月3日水曜日

スペインのユダヤ人 関哲之 山川出版社

トレドの翻訳機関での翻訳のやりかた:ユダヤ人やコンベルソ(キリスト教に改宗したユダヤ人)がアラビア語の原典を口頭でローカルのスペイン語に訳す。それを聞いてスペイン人がラテン語で筆記する。

そんな詳細や蘊蓄や情報がてんこ盛り。分厚い本ではぜんぜんないけれど、情報量が多い。スペインの歴史が、ユダヤ人とのインタラクションそのものだったことがわかる。ユダヤ人はマイノリティーとして単なるトッピングだったのではない。スペイン人とユダヤ人は麺とつゆのように絡みながら歴史を作ってきた。ユダヤ人がなければスペインはただの麺。味も何もない。しかしそれはスペインだけではなく、ベルギーも、オランダも、イギリスも、ポルトガルも、そしてブラジル経由でユダヤ人を受け入れたニューヨークもそうだった。

ユダヤ人の情報・貿易ネットワークがなければ、ヨーロッパもアメリカもただの麺だったに違いない。


異体字の世界 小池和夫 河出文庫

筆者は活字・写植の文字校正者。ほんまマニアックな世界。老眼ゆえか、いや老眼でなくとも目を凝らさないとわからない点の有無など散りばめてあって、この本の活字写植の人もさぞかし大変だったに違いない。ベッドサイドにおいて寝る前に読むと、速攻で睡眠に入ることができる。

2023年3月8日水曜日

酒は老人のミルクである 玉村豊男 世界文化社

 上田の図書館のリサイクル本コーナーで、無料で入手。玉村さんの対談集。「酒文化研究所」のインタビューなので、どうやら酔っ払いつつの鼎談。第1章のゲストは米原万里さん。ロシア語にはウォッカを「ストレートで」飲むという表現がないのだという。これは月子にも再確認したところ、やはりそうらしい。

それよりも面白かったのが第2章。三枝成彰さんを交えた鼎談で、西洋音楽史論。酔っぱらい鼎談なので、文脈を整理しないとよくわからなくなる。

・西欧人、特にゲルマン系は音楽に酔うことを嫌う。日本人は酔うのはいいことだと考える。
・一神教は酒に酔うことを嫌う。
・恋愛はシェークスピアのロメオとジュリエット(1595ねん)まで解禁されなかった。ロメオとジュリエットですら一応結婚していた。14歳だったけど。
・日本では電灯が全国的に普及した1935年になって夜這いが滅亡した。
・カント(1804年没)は「あらゆる芸術のなかで音楽は最下等だ」といった。近代合理主義の観点からするとオカルト的だから。単なる嗜好品である、と。
・モーツアルト(1791年没)は快楽と金と名声のために音楽を書いた。その頃、文化の中心はイタリアからウィーンに移っていた。
・ベートーヴェンはカントの哲学を音楽で表現しようとした。音楽はロジックである、と。でも第9(1824年)でシンフォニーに歌を入れた。ベートーヴェンは革命的だった。
・そもそも西洋音楽ではソナタ(器楽)とカンタータ(声楽)を混在させない。オペラ作曲家はシンフォニーを書かないし、シンフォニー作曲家はオペラを書けない。
・キリスト教は器楽を嫌った。楽器はダンスに使われていたから。ダンスは淫乱だから。
・ベートーヴェン以降は、他人と違うことをロジカルにやることが大切になった。究極的に現代音楽というわけのわからんものが出現した。
・一神教の国は二元論なので、どこかで悪魔性を解放しなければ持たない。例えばカーニバル。
・西洋音楽がどこでも同じに演奏されるのは楽譜の発明によるところが大きい。
・ショパン(ポーランド・1849年没)とリスト(ハンガリー・1886年没)まで西洋音楽にはローカル性がなかった。
・ロマン派以降(1820年〜)になるとテンポが揺れる。テンポが揺れると指揮者が必要になる。テンポが揺れるのはジプシー音楽の影響。つまりカトリーク教会の力が弱くなった。
・半音階は淫蕩である、と教会は考える。
・クラシックはドイツの民族音楽。
・A=440ヘルツが推奨されたのは1834年、オーストリア政府が公式勧告したのが1885年。
・チャイコフスキーは快感のツボを押さえすぎるので下品だと禁欲的な西欧人はいう。

1085年にトレドがレコンキスタされ、アラビア語で記された膨大なギリシア・ローマの知識体系の蔵書が発見された。アルフォンソ王はユダヤ人(やアルメニア人)を使ってそれをラテン語に翻訳させた。翻訳事業が終わるとアルフォンソはユダヤ人に改宗するか、追放されるかの一択を迫った。それから500年、シェークスピアが会ったはずのない(イギリスでは1290年から1689年までユダヤ人追放令が生きていた)ユダヤ人を極悪金貸しとして描写した「ベニスの商人」でユダヤ人のイメージは完成された。ユダヤ人は約1000年間、西欧で暴力的に迫害された。

西欧は中間的な存在を認めたくなかったのだろう。人間でも、音でも。

音楽では、ウードにフレットが打たれてリュートとなり、のちにギターとなった。バイオリン族以外の楽器はことごとく12音階に追従した。バイオリン族はかろうじて生き延びたものの、半音階はダンスと同じく淫蕩とされた。

中間物を排除してエッセンスを取り出し、理屈を発見し、敷衍する。自然科学でも薬学でも医学でも、競争心あふれる西欧人がもりあがった1000年間。政治と宗教が推進したとはいえ、もともと西欧人の嗜好に合っていたのだろう。中東発祥のキリスト教が西欧で広まったのも、西欧人の二元論好き、ロジック好きに訴えたに違いない。一見したところ相反する自然科学とキリスト教の併存は、西欧人にとってあんまり抵抗がなかったのか。それともキリスト教が西欧人の嗜好に寄り添うように進化したのか。

その1000年間、西欧は虐める対象としてユダヤ人を必要としていた。まるで共依存の夫婦のように。ユダヤ人がなければ西欧はなかった。競争心あふれる西欧人がお互いに破滅的な殺し合いを避けるためには、ユダヤ人という共通の敵が必要だった。

ユダヤ人のおかげでアイデンティティーを確立し、科学技術と武器とダイナマイトを発明した西欧は、世界を植民地にした。植民地から搾取し、奴隷にした有色人種から搾取し、蓄積した富と不労所得の旨味を追求。ついにドル世界全体をファイナンス化し、為替と株と商品先物の売買で巨額の不労所得を獲得するシステムを作り上げた。調子に乗って、資源をもつロシア、労働力をもつ中国を植民地化しようとして戦争をはじめた。

終わりの始まりだ。

文明論的観点では、イスラエルの墓穴を掘った。ユダヤ人がイスラエルを建国してしまったいま、西欧はどうすればいいのか?西欧は秦の始皇帝が出なかった中国。統一は絶対不可能。共通の敵を見つけなければならない。ロシアか?

音楽では、12音階をもとに和声楽が発達し、アフリカのリズムと合流してジャズが生まれた。それが西洋音楽の到達点であり、ウィントン・マルサリスがジャズの墓を掘った。ジャズが緊張感をともなったエキサイティングな音楽ではなく、居酒屋のトイレで流れるBGMとなった。クラシック音楽は、死骸である。


2023年2月14日火曜日

酒楼にて/非攻 魯迅 藤井省三訳 光文社古典新訳文庫

去年2022年の11月に同学会があった。その2ヶ月くらい前、八木同学から「神戸の県庁近くに上海料理を出す店がある」と聞き、「在酒楼上の真似ごとしよう。茴香豆あるかなぁ?」みたいなメールを送った。「在酒楼上」というのは、魯迅の「酒楼にて」のことだ。原文は読んだことがなかったのだが、きっとどこかで日本語訳を読んだ記憶があって、唯一印象に残っていたのが、主人公が酒のつまみにした茴香豆だった。八木同学は碩学なのでもちろん「在酒楼上」を読んでいた。我輩は読んだことがなかったので、ネットで原文を入手した。読んでみてとてもいい文章だと思った。簡素なのに情報量が多い。ふつう漢字というのは情報量が多いのだが、それなのにシンプル。こんな文章を書けたらいいだろうなあと思った。暗記したらいいんじゃないかと思い、通勤電車の中で暗記をはじめた。同学会で「近頃こんなことやっててな」と言いたいがために・・。

我輩が読んだはずの日本語訳は確か竹内好さんの翻訳だったと思う。竹内好さんの訳した魯迅は、空気感みたいなものを上手に伝えていて、とてもいい。その新訳が出たというので、取り寄せてみたのが標記の本。

訳者の藤井省三さんは東大の博士。とても偉い人である。魯迅と村上春樹の比較で文学博士号を取った、とどっかで読んだ。

村上春樹というのは、我輩にとってレイモンド・チャンドラーが日本に生まれて、チャンドラーみたいな文体で、でも日本語で、ちょっと不思議な小説を書いてくれているという立ち位置だ。村上春樹がチャンドラーを翻訳したと知った時、じつに自然な流れだと思った。チャンドラーの古い翻訳は、東大出の大家の爺さまが派手な誤訳をかましていたこともあり、しかしあまりに地位が高く、あまりに爺なので出版社が泥を被るしかなかったようだ。

チャンドラーと村上春樹の共通点は、文体だけではない。両者ともに、読み終わったら内容をすっかり忘れてしまい、「これ読んだことないよね」と手にとって読みはじめたら、「おや?これいつか読んだよね」となること。また、同じような設定を長編、中編、短編で使いまわしているので、「これ確か読んだことあるよね」と思っても、全然別の本だったりする。

我輩は「酒楼にて」を読んだ時、その空気感がチャンドラーに似ていると思った。魯迅とチャンドラーは、10歳くらい違うとはいえ、ほぼ同年代だ。10歳くらい違うとはいえ、チャンドラーの奥さんはチャンドラーより10歳くらい年上なので、乱暴に同世代と括ってしまっていいとしよう。洋の東西は違うけれど、似かよった時代背景ということを言いたい。

さて標記の本である。付属情報が多いので、とても参考になる。「酒楼にて」では、主人公と友人が結局5斤の酒を飲むのだが、5斤は3リットルなので大酒である、と指摘したのはこの藤井省三さんであった。「非攻」では、主人公が携帯する弁当がとうもろこしの蒸し饅頭なのだが、その時代にとうもろこしは中国に入っていないことが指摘されている。同様に、「奔月」で女性が食べる炸醤麺に必要な唐辛子も、その時代には中国に入っていないと指摘している。

指摘は食べ物と飲み物だけじゃないけど。しかし食べ物と酒はわかりやすい。

さて「酒楼にて」の訳文である。藤井さんは、竹内好さんの訳文に難癖をつけて、「一つのセンテンスを幾つにも分割して、文意を損ねている」みたいに批判し、「句読点は原則的に原文に忠実に訳した」なんて言っているが、そこはあくまで原則。原文を(まだ全部じゃないけど)暗誦した我輩からすれば、あれれ?というところもある。ならば、竹内好さんをそんなに批判することないやん。そもそもめっちゃ情報量の多い漢字でできている中国語を、薄めの日本語にするのだから。さらに、主人公の一人称が「僕」なので、魯迅というより村上春樹を読んでいるような気分になってしまう。結論として、竹内好さんの翻訳のほうが、魯迅の時代の空気感をよりよく伝えていると思う。

ほんのちょっとしたことで生じた違和感が最後まで後を引くことがある。それが、揚げ豆腐の調味料の唐辛子醤油を「辛子醤油」と訳しているところ。日本語で辛子醤油といえば、崎陽軒の焼売を食べる時につける定番のアレではござらんか。唐辛子醤油を辛子醤油とは言わないね。

それから、「実のところ旅先でのしばしの暇つぶしであって、大いに飲もうというつもりではなかった」という訳文。原文は「其实也无非想姑且逃避客中的无聊,并不专为买醉。」「じつのところ旅の退屈しのぎであって、特に酔いたいためではなかった。」という感じだと思っていたので、ここでも「あれれ?」と思った次第。

とはいえ付帯情報は参考になるし、「非攻」他の翻訳もついてくるので、お買い得だ。

2023年2月12日日曜日

愛と情熱の日本酒 山同敦子 ダイヤモンド社

 手にとって「なんじゃいな?」と思った。表紙の裏に著者のサインがあり、それなのにブッコフの110円コーナーだ。諏訪の地酒は2銘柄しか載ってないし、あんまり期待しないで読んだ。

そしたら、けっこう面白かった。著者はご自分でもいうように、酒つくりの経験があるわけでもない。でもめっちゃ酒が飲めて、ご自分でも料理を作る。ワインへの造詣もあるようで、食中酒としての日本酒を「こんな料理といい」てな具合に描写する。

我輩は体質のせいで、日本酒は正月以外飲まないことにしている。でもこの本を読むと、毎日でも飲みたくなる。

知ってはいけない現代史の正体 馬渕睦夫

 同じ著者の「世界を繰るグローバリズムの洗脳を解く」というのも併せて、面白かったので一気読み。著者は外交官で、元駐ウクライナ大使閣下だった人。こんな勉強熱心な人が大使だったら、当時の大使館はさぞかし面白かっただろうなあ。

「世界を繰る」のほうが新しいらしく、ロシアによるウクライナでの特殊作戦がはじまったあたりのタイミングだろうか。この種の本が3万部売れたというのだから、日本人も捨てたもんじゃない。

カール・マルクスについては我輩が学生のころ和訳されたエルンスト・ブロッホの「希望の原理」で、マルクスが資本論で論じたユートピア的な理想社会が、ユダヤ教の影響を濃厚に受けているというような記述があるらしい。実家に寝かせたままなので、こんど読んでみよう。

それはともかく、ジョージ・ソロスのオープン・ソサエティーも、カール・シュワブの世界経済フォーラム(いわゆるダボス会議)も、カール・マルクスも、レーニンも、トロツキーも、ユダヤ教の影響から派生したという線で結ばれる、というのは長年の疑問が解けたということで、ずいぶんスッキリした。

いや、ユダヤ教の影響というよりも、ユダヤ教徒であったがために常に欧州のどこかで暴力的迫害に晒され、土地を所有できず、共同体の隙間で生きている人たちとして、国家意識がなかったということだ。

ここから本書を離れて、我輩が最近考えている事になる。それは、ユダヤ人問題はヨーロッパ問題だということ。考えてみれば、ユダヤ人を迫害してきたのはヨーロッパ人である。昨今の情勢、すなわち西欧の指導者たちがすすんでEUの枠組みを破壊し、欧州の経済基盤を投げうち、官民ともに勝てるわけのないウクライナに全財産を賭けるようなことをしているのは、ユダヤ人による弔い合戦じゃないのか。自分の国から遠いところの戦争で、死ぬのはウクライナ人とロシア人、ふふん、と高みの見物をしているアメリカもじつは危ない。ユダヤ系は国家意識がないから。

迫害されてきたユダヤ人が、イスラエルを建国したとたんパレスチナ人を迫害するようになった。不思議だと思っていたが、ディアスポラでつねに暴力に晒されてきたユダヤ人ゆえ、暴力への耐性、というより鈍感さは、国家意識のなさと同じくらい根深いものがあると我輩は思う。

欧州は秦の始皇帝がいなかった中国である、というのも我輩の考えである。中国では始皇帝がローカル性にこだわる人たち、ちょっとした差異にこだわる人たちを生きたまま穴に埋め、ローカルな文字や書体を記載した本を燃やしたので、中華という共通アイデンティティーが確立された。欧州では始皇帝がいなかったので、皆それぞれローカルな伝統にこだわり、ちょっとした差異をより際立たせた。そのローカルたちのせめぎ合いが競争心をうみ、それが科学技術の発展を促した。しかしちょっと油断したら隣人にプスリと刺されてしまうという環境で、みんなでユダヤ人をいじめて辛うじて均衡を保ってきたのが欧州の歴史だと思う。ユダヤ人がイスラエルを建国してしまったので、いじめる対象がなくなった。虐める対象がいなくなったら、さっそく内輪揉めだ。さもなくば、新しい対象を探すしかない。そうだ、ロシア人だ。ほぼロシア人であるウクライナ人を使って、ロシアと喧嘩させよう。それを支援しよう。隣人に刺されるより、アメリカの誘いに乗ってロシア人をいじめたほうがええんじゃないか、と。

さて本書に戻る。馬渕さんは日本人の特質として神道と祖先崇拝を挙げている。これはちょっと違うんじゃないか。諏訪のあたりの御柱祭を観察して感じるのは、カリマンタン・ボルネオの先住民にいまだに濃厚なアニミズム、要するに森林に棲む祖先の聖霊崇拝に共通するものだ。また甲斐国あたりの神社の古い石碑などを観察して感じるのは、仏教が伝来するまでぜんぜん体系化されることのなかった神道の祖先崇拝の形だ。古い石碑などを見ると、仏教に対抗するため神道が(おそらく本居宣長くらいの新しい時代に)拙速に体系化しようとした痕跡である。筆者が主張するように、仏教が祖先崇拝を認めたのでローカライズしたのではない。神道は明治時代に国家宗教として拙速に体系化されるまで、それぞれの地域のバラバラのアニミズムだったにすぎない。それが日本人の宗教観だ。

もうひとつ、馬渕さんはこれをどうお考えかな?と尋ねたい課題があったのだが、失念した。思い出したら記述するぞ。


耳鼻削ぎの日本史 清水克之 洋泉社歴史新書

 前に本ブログに書いた、同じ著者による「室町は今日もハードボイルド」がたいそう面白かった。

https://tamapiri.blogspot.com/2022/08/blog-post.html

おなじように面白いのを期待したら、たいそうエグい話に始まり、エグい話で終わった。筆者としては同じスタンスなのだろうが、高野秀行さんみたいな人との対談形式なんかで、適度に薄められたほうが読みやすいのかもしれない。

ではなんでそんなエグい話を読み進めたかというと、何箇所か紹介されていた「耳塚・鼻塚」のうち二ヶ所が近所にあったからだ。

塩尻市大門三番町の耳塚

松本市寿豊丘の耳塚

さらに、Googleマップ様では、塩尻市北小野2704という住所にも耳塚があるとな。ちなみに本書では、前述2箇所は1548年の桔梗が原合戦の戦死者を祀ったものとされているが、考古学的に調査されたことがなく、近在住民にとっては耳が良くなるという土俗信仰の対象であると紹介されている。

しかし、我輩は思う。もし日本が近代化されず、長野県や岐阜県に道路や鉄道が通じず、山々を穿つトンネルがなく、山間の共同体がそれぞれ隔絶されたままだったら、今のアフガンみたいにタリバン的な男たちが跋扈して、耳削ぎ鼻削ぎが普通に行われていたに違いない。本書にはアフガニスタンの鼻削ぎも紹介されていて、それはちょっと違う文脈じゃないか的な記述だ。我輩は、まったく同じ文脈だと思う。