2023年2月12日日曜日

知ってはいけない現代史の正体 馬渕睦夫

 同じ著者の「世界を繰るグローバリズムの洗脳を解く」というのも併せて、面白かったので一気読み。著者は外交官で、元駐ウクライナ大使閣下だった人。こんな勉強熱心な人が大使だったら、当時の大使館はさぞかし面白かっただろうなあ。

「世界を繰る」のほうが新しいらしく、ロシアによるウクライナでの特殊作戦がはじまったあたりのタイミングだろうか。この種の本が3万部売れたというのだから、日本人も捨てたもんじゃない。

カール・マルクスについては我輩が学生のころ和訳されたエルンスト・ブロッホの「希望の原理」で、マルクスが資本論で論じたユートピア的な理想社会が、ユダヤ教の影響を濃厚に受けているというような記述があるらしい。実家に寝かせたままなので、こんど読んでみよう。

それはともかく、ジョージ・ソロスのオープン・ソサエティーも、カール・シュワブの世界経済フォーラム(いわゆるダボス会議)も、カール・マルクスも、レーニンも、トロツキーも、ユダヤ教の影響から派生したという線で結ばれる、というのは長年の疑問が解けたということで、ずいぶんスッキリした。

いや、ユダヤ教の影響というよりも、ユダヤ教徒であったがために常に欧州のどこかで暴力的迫害に晒され、土地を所有できず、共同体の隙間で生きている人たちとして、国家意識がなかったということだ。

ここから本書を離れて、我輩が最近考えている事になる。それは、ユダヤ人問題はヨーロッパ問題だということ。考えてみれば、ユダヤ人を迫害してきたのはヨーロッパ人である。昨今の情勢、すなわち西欧の指導者たちがすすんでEUの枠組みを破壊し、欧州の経済基盤を投げうち、官民ともに勝てるわけのないウクライナに全財産を賭けるようなことをしているのは、ユダヤ人による弔い合戦じゃないのか。自分の国から遠いところの戦争で、死ぬのはウクライナ人とロシア人、ふふん、と高みの見物をしているアメリカもじつは危ない。ユダヤ系は国家意識がないから。

迫害されてきたユダヤ人が、イスラエルを建国したとたんパレスチナ人を迫害するようになった。不思議だと思っていたが、ディアスポラでつねに暴力に晒されてきたユダヤ人ゆえ、暴力への耐性、というより鈍感さは、国家意識のなさと同じくらい根深いものがあると我輩は思う。

欧州は秦の始皇帝がいなかった中国である、というのも我輩の考えである。中国では始皇帝がローカル性にこだわる人たち、ちょっとした差異にこだわる人たちを生きたまま穴に埋め、ローカルな文字や書体を記載した本を燃やしたので、中華という共通アイデンティティーが確立された。欧州では始皇帝がいなかったので、皆それぞれローカルな伝統にこだわり、ちょっとした差異をより際立たせた。そのローカルたちのせめぎ合いが競争心をうみ、それが科学技術の発展を促した。しかしちょっと油断したら隣人にプスリと刺されてしまうという環境で、みんなでユダヤ人をいじめて辛うじて均衡を保ってきたのが欧州の歴史だと思う。ユダヤ人がイスラエルを建国してしまったので、いじめる対象がなくなった。虐める対象がいなくなったら、さっそく内輪揉めだ。さもなくば、新しい対象を探すしかない。そうだ、ロシア人だ。ほぼロシア人であるウクライナ人を使って、ロシアと喧嘩させよう。それを支援しよう。隣人に刺されるより、アメリカの誘いに乗ってロシア人をいじめたほうがええんじゃないか、と。

さて本書に戻る。馬渕さんは日本人の特質として神道と祖先崇拝を挙げている。これはちょっと違うんじゃないか。諏訪のあたりの御柱祭を観察して感じるのは、カリマンタン・ボルネオの先住民にいまだに濃厚なアニミズム、要するに森林に棲む祖先の聖霊崇拝に共通するものだ。また甲斐国あたりの神社の古い石碑などを観察して感じるのは、仏教が伝来するまでぜんぜん体系化されることのなかった神道の祖先崇拝の形だ。古い石碑などを見ると、仏教に対抗するため神道が(おそらく本居宣長くらいの新しい時代に)拙速に体系化しようとした痕跡である。筆者が主張するように、仏教が祖先崇拝を認めたのでローカライズしたのではない。神道は明治時代に国家宗教として拙速に体系化されるまで、それぞれの地域のバラバラのアニミズムだったにすぎない。それが日本人の宗教観だ。

もうひとつ、馬渕さんはこれをどうお考えかな?と尋ねたい課題があったのだが、失念した。思い出したら記述するぞ。


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