去年2022年の11月に同学会があった。その2ヶ月くらい前、八木同学から「神戸の県庁近くに上海料理を出す店がある」と聞き、「在酒楼上の真似ごとしよう。茴香豆あるかなぁ?」みたいなメールを送った。「在酒楼上」というのは、魯迅の「酒楼にて」のことだ。原文は読んだことがなかったのだが、きっとどこかで日本語訳を読んだ記憶があって、唯一印象に残っていたのが、主人公が酒のつまみにした茴香豆だった。八木同学は碩学なのでもちろん「在酒楼上」を読んでいた。我輩は読んだことがなかったので、ネットで原文を入手した。読んでみてとてもいい文章だと思った。簡素なのに情報量が多い。ふつう漢字というのは情報量が多いのだが、それなのにシンプル。こんな文章を書けたらいいだろうなあと思った。暗記したらいいんじゃないかと思い、通勤電車の中で暗記をはじめた。同学会で「近頃こんなことやっててな」と言いたいがために・・。
我輩が読んだはずの日本語訳は確か竹内好さんの翻訳だったと思う。竹内好さんの訳した魯迅は、空気感みたいなものを上手に伝えていて、とてもいい。その新訳が出たというので、取り寄せてみたのが標記の本。
訳者の藤井省三さんは東大の博士。とても偉い人である。魯迅と村上春樹の比較で文学博士号を取った、とどっかで読んだ。
村上春樹というのは、我輩にとってレイモンド・チャンドラーが日本に生まれて、チャンドラーみたいな文体で、でも日本語で、ちょっと不思議な小説を書いてくれているという立ち位置だ。村上春樹がチャンドラーを翻訳したと知った時、じつに自然な流れだと思った。チャンドラーの古い翻訳は、東大出の大家の爺さまが派手な誤訳をかましていたこともあり、しかしあまりに地位が高く、あまりに爺なので出版社が泥を被るしかなかったようだ。
チャンドラーと村上春樹の共通点は、文体だけではない。両者ともに、読み終わったら内容をすっかり忘れてしまい、「これ読んだことないよね」と手にとって読みはじめたら、「おや?これいつか読んだよね」となること。また、同じような設定を長編、中編、短編で使いまわしているので、「これ確か読んだことあるよね」と思っても、全然別の本だったりする。
我輩は「酒楼にて」を読んだ時、その空気感がチャンドラーに似ていると思った。魯迅とチャンドラーは、10歳くらい違うとはいえ、ほぼ同年代だ。10歳くらい違うとはいえ、チャンドラーの奥さんはチャンドラーより10歳くらい年上なので、乱暴に同世代と括ってしまっていいとしよう。洋の東西は違うけれど、似かよった時代背景ということを言いたい。
さて標記の本である。付属情報が多いので、とても参考になる。「酒楼にて」では、主人公と友人が結局5斤の酒を飲むのだが、5斤は3リットルなので大酒である、と指摘したのはこの藤井省三さんであった。「非攻」では、主人公が携帯する弁当がとうもろこしの蒸し饅頭なのだが、その時代にとうもろこしは中国に入っていないことが指摘されている。同様に、「奔月」で女性が食べる炸醤麺に必要な唐辛子も、その時代には中国に入っていないと指摘している。
指摘は食べ物と飲み物だけじゃないけど。しかし食べ物と酒はわかりやすい。
さて「酒楼にて」の訳文である。藤井さんは、竹内好さんの訳文に難癖をつけて、「一つのセンテンスを幾つにも分割して、文意を損ねている」みたいに批判し、「句読点は原則的に原文に忠実に訳した」なんて言っているが、そこはあくまで原則。原文を(まだ全部じゃないけど)暗誦した我輩からすれば、あれれ?というところもある。ならば、竹内好さんをそんなに批判することないやん。そもそもめっちゃ情報量の多い漢字でできている中国語を、薄めの日本語にするのだから。さらに、主人公の一人称が「僕」なので、魯迅というより村上春樹を読んでいるような気分になってしまう。結論として、竹内好さんの翻訳のほうが、魯迅の時代の空気感をよりよく伝えていると思う。
ほんのちょっとしたことで生じた違和感が最後まで後を引くことがある。それが、揚げ豆腐の調味料の唐辛子醤油を「辛子醤油」と訳しているところ。日本語で辛子醤油といえば、崎陽軒の焼売を食べる時につける定番のアレではござらんか。唐辛子醤油を辛子醤油とは言わないね。
それから、「実のところ旅先でのしばしの暇つぶしであって、大いに飲もうというつもりではなかった」という訳文。原文は「其实也无非想姑且逃避客中的无聊,并不专为买醉。」「じつのところ旅の退屈しのぎであって、特に酔いたいためではなかった。」という感じだと思っていたので、ここでも「あれれ?」と思った次第。
とはいえ付帯情報は参考になるし、「非攻」他の翻訳もついてくるので、お買い得だ。
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