オリエンタリズムというのはアレである。石油欲しさに中東を制圧し、原材料と労働力欲しさにインドを植民地にしたイギリス、インドネシアから350年間も搾取して自国だけ発展させたオランダ、北アフリカを植民地にしたフランスが、学術界で手前勝手なスタンダードなるものを確立した。そして、正しいけれど自分達に都合の悪い論文に対し、特にそれが東方に関することであれば、「それっていわばオリエンタリズムだよね。」とケチをつけるときに使う用語である。
もうひとつ、西欧でもエキセントリックなやつが東方研究にはまり込み、イーデス・ハンソンの関西弁ほどやないけど、ムンバイをボンベイと言わないくらいのレベルとか、ちょっと漢字かけますくらいになってる人らがおった。本人らは一所懸命やねんけど、明らかに西欧白人系である視点から東方を眺めている態度、おんなじことを有色人種の研究者が言っても取り上げられないレベルの内容やのに、白人であるからこそジャーナルに掲載される文章を「オリエンタリズムやんけ」と小馬鹿にするのに使われる。
なんで小馬鹿にするかというと、白人はアジアに来ると目立つ。目立つし、金持ちやと思われるから、有利な場合もあるけれど、調査という作業では不利な点もある。不利な点は、どこまでいっても特別扱いされるところ。
ここからは我輩の自慢と思い出し話、つまり閑話。
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1984年にニューヨークに送り込まれ、マンハッタンのチャイナタウンで北京語を使ったら、犬以下の扱いを受けた。犬以下の扱いだったけど、野菜とか肉をまけてくれた。華人は同胞(に見える人たち)を犬以下に扱うんだな、と思った。でも、まけてくれたよな。
1999年、クアラルンプールに送り込まれた。ケダ州のどっかで、華人系と思われてマレー人から不公平な扱いを受けた。日本人であることが相手にわかったら、地位が急上昇した。その時の高速エレベーター感は忘れがたい。
2009年ごろのある朝、寧波の路上飯屋でタイ人の同僚と一緒に不味いワンタンを食っていた。我輩はタイ語がほとんどできないので英語で話していた。気がつくと、周囲に人だかりができていた。「おたくら、なんで英語喋ってんだ?」と聞かれたので、「いやこの人タイ人だから中国語できないんだ。」と説明すると、「ああそおなんだ。」と納得して人だかりが消滅した。誰も我輩に「じゃあんたは何人なんだ?」と尋ねなかったので、誰かに自慢したくなった。
同じ朝の同じ場所で、白人がやってきてカウンターの中のおっさんに「何ができるかい?」と、とても流暢な北京語で尋ねた。カウンターのおっさんは面倒臭そうに、「壁(のメニュー)見な。」といった。白人は困った顔をして、「俺、漢字読めねえんだよな。」と英語でぶつぶつ言った。助けてやろうかと思ったが、不味い店だし、不味いって言ったのが聞こえたら面倒なので、助けるのはやめておいた。
あとで考えると、英語訛りのまったくない完璧な北京語を話すまで、たいそうな努力をした白人である。たいした努力もせず、漢字が読める我々の助けなど、おせっかいに違いない。
高速バスで浙江省を移動した。乗客の中に旅慣れない女性がいて、バスの中で嘔吐し、悪臭がバス内に立ち込めた。窓際の人たちは窓を開け、周囲の人たちがありあわせの新聞を集めて、吐瀉物を拭き取った。丸めた新聞紙を運転手に渡した人がいた。運転手は窓を開け、走行中に外に捨てた。罵り言葉を呟いたのはその運転手だけで、それ以外の誰もが無言で連携して作業を進めた。一番端っこの窓際に座っていた我輩は、窓を開けただけで、あとは静かに感動していた。周囲の人たちは、女性と顔見知りとか、そういうのではなさそうだ。誰にでもありがちなことに対する寛容さ。お互いさま精神。
高速鉄道で移動していたとき、同僚のタイ人と離れた席になった。列車が動きはじめてから、そのタイ人が困った顔をしてやってきた。「俺の席に他のやつが座っているんだ。」我輩はアドバイスした。「タイ語で文句を言ってみな。」中国人じゃないとわかったら、ちゃんと席をどいてくれたらしい。外国人には一定の敬意を払うようだ。寧波は古い港町だからだろう。
2012年、パキスタンのイスラマバードに送り込まれた。近所のモールのシーアの店に民族服を着て行ったら、店の若い人に「ブラザー」みたいに言われた。シーアの同胞ということなのだろう。その時、これでペルシア語ができたら楽しいだろうなと思った。
在パキスタン日本国大使館から「一部の日本人で民族服を着ると、アフガニスタンのハザールというモンゴル系のシーア派にしか見えない人がいる。タリバンはハザールを殺すので、該当する人は民族服を着ないように周知あられたい。」云々の通達が出された。あれは我輩のことだった。
我輩の密かな愉悦が発覚したのは、金曜日だった。職場のオフィスでは金曜日が民族服の日で、ある金曜日の夕刻に日本人学校のPTA会があった。娘の同級生の親が外交官で、情報収集インテリジェンス系のプロである。最初は「なんでパキの使用人が会場に座っとるんやろ?」と思ったらしい。会合が終わって、娘が我輩をパパと呼んだので、日本人とバレた。
近所のモールには、オフィス帰りに立ち寄る八百屋がある。いつも洋装だし、たいてい家内と一緒なので、「ハロー、サヒーブ(旦那ぁ)!」と認識してくれる。ある日、民族服で一人で立ち寄ると、全然認識してくれない。「ハロー!」と手を振っても無視である。その八百屋には、近在のお屋敷から差し向けられた民族服のピックアップボーイが何人もたむろしている。その一人だと認識されたようだ。我輩の容貌が、パキスタンまで通用するとは思わなかった。
それがおもしろかったので、民族服のおっさんらの隣、歩道の縁石に座っていた。その時に思った。我輩は、これが楽しいんだ。ふつうの人らにまぎれ、同じ目線で風景を眺め、同じ風に吹かれている。ときに犬以下に扱われるかもしれないが、そんなことは、この楽しさに比べたらどうでもいい。
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完全に第三者視点なら、文化人類学をやったらいい。社会学とか、ふつうの人たちが何を考えているかを知りたいなら、溶け込む容貌でないとまずい。ときに犬以下に扱われても。異人には、やっぱり限界がある。にもかかわらず、あたかも限界なぞ存在しないかのように、西欧白人の観点から見て悦に入っておる。オリエンタリズム。
学術業界ではあまりに長く西欧がスタンダードとなってきたので、極東の我々は、西欧スタンダードというだけで平伏する奴隷根性の持ち主たちと、一方でその臭いがしただけで「むかっ」とくる者の極端な2グループに分かれた。中村さんはもちろん後者です。
我輩なぞ「むかっ」と来るほうだ。イギリスはスコッチとギネスとフェイクのブリティッシュ訛りの英語、フランスはチーズとワインとフェイクのフランス語訛り、オランダはゴータチーズとポテトフライとビールのグローシュくらいを贔屓にしておいて、あとはあんまり立ち入らない、関わらないで生きてきた。そんなけ知っておけば、その国の出身で万が一いいやつに出会ったとき、それなりに話題を持たせることができる。
中村さんは全然違って、学術界で真正面から勝負を挑んだ。勇者である。
そんな中村さんが、63歳で去ったのは、残念としか言いようがない。
本の内容についての感想はまたの続きで。
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