明治時代以来の海外情報収集がなんで民間主導だったか。それはおそらく、政府にお金がなかったからでしょう。たとえば世界で一番きびしく、かつ伝統文化を破壊する不条理な酒税法が制定されたのは明治13年つまり1880年。それ以来、厳しくされることはあっても、緩和されたり見直されたりしたことは基本的にありません。国家の面子というのはほんま不条理です。国家の面子といえば、我輩が働いている下諏訪には首塚が残されています。
そのストーリー。相楽総三はじめ8人の赤報隊が官軍の広報部隊として、「新政府になったら年貢半額(とか免除)」と宣伝するため京都を出発し、中山道を下諏訪までやってきた。その頃には官軍が優勢になったので、赤報隊が官軍にとって都合が悪くなった。相楽たちはニセ官軍とされて、1868年に処刑された。相楽たちの名誉が回復されたのは1928年。
60年のあいだ国家は事実を認めなかった。
バイデン政権はいまやアホの塊なので、ロシアのエネルギープロジェクトへの制裁をはじめた。日本が官民あげて出資するプロジェクトです。これはもうG7への踏み絵。ロシアの天然ガス買うか、それとも俺んとこの天然ガス買うか?俺んとこは値段数倍やけどな。・・・。誰も踏まなかったら、帝国の没落が加速するだけやん。踏み絵を踏んだら、G7で民主主義が没落する。帝国って、自由と民主主義が旗印やなかったんか?
あれれ?また既視感。コンテナには自由と民主主義のラベルが貼ってはるけど、中に入ったら自由も民主主義もない。
創価学会というコンテナには、栄光勝利平和の三色旗が貼ってあって、「日本を前に」とか「小さな声を聞く力」とか自由とか民主主義みたいなことも書いてある。でも中に入ると、自由も民主主義もない。どっちかというと、それを捨てたい人たちが入ってくる。公明党が与党でいるのに、非正規労働者の声は無視され、日本はどんどん後退する。
日本政府が自由と民主主義を捨てたいから、自由と民主主義を旗印にしているG7に入ってる。そうと仮定したら、いまいちど真剣にエーリッヒ・フロム先生の「自由からの逃走」を読むべき時代なのかもしれない。
バイデン政権はいまやアホの塊なので、ロシアのエネルギープロジェクトへの制裁をはじめた。日本が官民あげて出資するプロジェクトです。これはもうG7への踏み絵。ロシアの天然ガス買うか、それとも俺んとこの天然ガス買うか?俺んとこは値段数倍やけどな。・・・。誰も踏まなかったら、帝国の没落が加速するだけやん。踏み絵を踏んだら、G7で民主主義が没落する。帝国って、自由と民主主義が旗印やなかったんか?
あれれ?また既視感。コンテナには自由と民主主義のラベルが貼ってはるけど、中に入ったら自由も民主主義もない。
創価学会というコンテナには、栄光勝利平和の三色旗が貼ってあって、「日本を前に」とか「小さな声を聞く力」とか自由とか民主主義みたいなことも書いてある。でも中に入ると、自由も民主主義もない。どっちかというと、それを捨てたい人たちが入ってくる。公明党が与党でいるのに、非正規労働者の声は無視され、日本はどんどん後退する。
日本政府が自由と民主主義を捨てたいから、自由と民主主義を旗印にしているG7に入ってる。そうと仮定したら、いまいちど真剣にエーリッヒ・フロム先生の「自由からの逃走」を読むべき時代なのかもしれない。
今津で創価学会に入っていたのは、おもに主婦層と、半端な男性たち。何年か家族と離れていて帰ってきたけれど、夏でも半袖を着ないおじさんとか。そのおじさんはとても心優しい人で親しくしていましたが、あるとき地域の会合で、「池田先生のなにかあったら俺は・・・俺は・・・。」と思い詰めたように語りました。「また塀の中に行くということなのかな?」と思いましたが、それは言えません。いささか極端な例ながら、そんな人もふつうに受け入れられたコミュニティーでした。
シーアのモスクで胸叩き儀式に参加しても違和感を感じない。パキスタンで民族服を着てサンダルを履いて市場に歩いて行き、大衆に紛れてしまう。チャイナタウンで北京語を話して大陸移民と思われ、犬以下の扱いを受ける。それでぜんぜん平気なのはおそらく、今津で創価学会だった経験があったからでしょう。
ニューヨークでは別の経験をしました。ニューヨークの創価学会には、F武書店(いまのベネッセ)の現地法人副社長や、当時は総領事館勤務の外交官で、のちに参議院議員になるE藤O彦さんなどエリートがいました。もっともE藤さんは地元の会合にはぜったい出ません。幹部がE藤さん宅に伺って指導を受けるくらいなので、普通の会員は知る由もない。
ブラスバンドにはジャコ・パストリアスやマルカス・ミラーとやっていたケンウッド・デナードがいたし、他にも大野俊三さんとか有名なミュージシャンやアーチストがいた。住んでいた地域にはキャブ・キャロウェイの娘のクリス・キャロウェイがいたりして、今津とはぜんぜん違う世界でした。
創価学会をやめて日本に帰ったばかりの頃、妙言寺の住職と話していてこんなことを言われました。創価学会臭が抜けるのに10年はかかる、と。「これから創価学会はどうなるのか?」てな話をしていて、こう言われました。「日蓮正宗の700年余の歴史で生まれた異流儀は、万単位で数えられる。時の流れのなかで、創価学会もまた本尊を持たない単なる異流儀として歴史に埋没するだろう。」
それから30年以上が過ぎました。多少は臭みが抜けたかな。そんな時、同級生の訃報が届きました。
彼は朝鮮高級中学の生徒たちにボコボコにしばかれた経験もありましたが、それでも少数者のことをよく理解していました。学生だった当時、我輩が創価学会の中の人だったというのも知っていて、「創価学会でも思想信条の自由があるから共産党に投票してもええわいな」みたいな話をしていました。創価学会にも在日がおるで、っちゅう話になって、彼曰く、「あいつら学会と総連と民団、二股三股かけとぉで。ふつうやで。」と言いました。総連というのは朝鮮総連、北系です。民団というのは大韓民国居留民団、南系です。我輩にとっては目から鱗が落ちるようなコメントでしたが、異国で生きるための知恵、いざというときのセーフティネットという意味でも、見識です。我輩もおかんも、そんなダイナミックな考えかたを知ってたらよかったなと思います。ちなみに彼の亡くなったオヤジさんはバリバリの共産党、彼も共産党支持でした。
もうひとり、同学で我輩と同じ立場の中の人、つまり親が創価学会だったので自動的に創価学会員にされてしまった親友がいました。彼は我輩よりずっと真面目でした。行田道雄先生のもとでマルクスやヘーゲルなどを真剣に学び、いま読んでもとても難しい卒論を書きました。こないだ35 年ぶりに連絡を取ると、創価学会に完全に洗脳されていました。よくあることとは言え、寂しい限りです。
洗脳された親友の手紙にはこうありました。「私は創価学会の信心を続けていきます。」・・・我輩はこれに強烈な違和感がありました。創価学会の信心とな。創価学会員がやっているのは、第1に自分が献金し、他人にも献金させること。第2に公明党の票を集めること。第3に会員を辞めさせないこと。なんでそれを信心と言えるのか?そもそも宗教とか信仰、教義も本尊も、1991年に破門されるまで日蓮正宗におんぶに抱っこ状態。法華講(信徒団体)のひとつみたいな立ち位置だったのが、破門されてただの政治的な団体になりました。宗教法人としての要件を満たしているかどうかも疑問です。公明党の政治力がなければ、解散請求されても仕方がないと我輩は思います。
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