2024年8月22日木曜日

アフガニスタン紀行 岩村忍 現代教養文庫

やっと手に入れた。嬉しいので、まだ読んでないけれど感動を書いておく。昭和でいうと29年、西暦でいえば1949年の調査旅行記録である。出版されたのが翌年。長らく絶版になっていたのが文庫に収録された。それが昭和でいうと52年、西暦でいえば1977年。その文庫版を手に入れた。最後の一文がすばらしい。

「明日からは汽車も電燈も飛行機もある普通の旅行になる。こんなあたりまえの旅はもう私にとっては、ちっとも旅行らしい気がしなくなってしまった。」

岩村忍さんは1905年生まれ。トロント大学の大学院を出てから、共同通信社。あるとき突然、西北研究所に出現したようなイメージがある。西北研究所は、満州を足がかりにモンゴルに進出しようとしていた日本帝国の出先機関のうち、高級な研究機関。

日本帝国の出先機関としては、官民連連携したかたちで、いろんなレベルがあった。中国でいちばん有名なのは東亜同文書院。その遺産は愛知大学が引き継いでいる。ハルピンではハルピン学院。ロシア語人材育成機関である。モンゴル方面でいちばん高級なのは西北研究所。我が恩師の長田夏樹さんもちょっとだけ関係していた。木村肥佐生さんがいた蒙古善隣協会は、いまでいえば青年海外協力隊みたいな感じの、現場レベル。その木村さんや、西川一三さんがいた興亜義塾は民間組織ながら、15歳くらいから満州に送り込んで辮髪を結わせ、現場で青少年を育成したらしい。

スパイ育成といってしまえばそれまでだが、ジェームズ・ボンドみたいに現場でひとりで(あるいは美女とふたりで)なんもかんもやってしまうというのではなく、高級なのは学術研究から、最前線では半グレまとめて根性入れるみたいな民間塾も含めて、総体として組織で動いている。

西北研究所の人脈は、のちに京都大学人文科学研究所にそっくりそのまんまというイメージで移植される。岩村さんもそこの教授になる。

ちょっとしか読んでいないけれど、いまとまるで一緒やん、ぜんぜん変わってないやん、というイメージである。アフガニスタン。すごいぞ。

2024年8月18日日曜日

ユーラシア大陸思索行 色川大吉

旅行記が好きだ。新刊本屋でも古本屋でも、かならず旅行記の棚を眺めている。我輩の世代に膾炙したのは、なんといっても開高健。

標記は1971年7月から11月まで、色川大吉さんが若手といっしょにフォルクスワーゲンのバスでポルトガルのリスボンからインドのコルカタまで陸上の旅をした記録。東京経済大学の教授という肩書きと、三笠宮崇仁親王と友達であるという以外に箔もスポンサーも紹介状もない旅だったという。

そのへんが開高健と違う。開高健がベトナムに行ったのは朝日新聞の記者として、アメリカ軍の従軍記者としてだった。「オーパ!」は集英社の月刊プレイボーイ、「もっと広く」「もっと遠く」は朝日新聞。開高健は旅先のあちこちで在外公館にやさしく応対されるが、色川大吉さんはあちこちで冷たくあしらわれる。在イラン日本公館の弁務官が色川さん一行に「普通に」応対したのは、三笠宮崇仁親王の紹介状があったからだった。

ゆえに記述は客観的になる。現地の商社マンがイランについて「この国を支配しているのは国王と1000家族で、あとの2500万人はドンキーだと、彼ら自身が認めていますよ。」という発言をそのまんま新聞に寄稿して大きな問題になる。開高健の旅行記も面白いが、色川さんの本はさらにスリリングだ。

色川大吉さんは我輩の死んだオヤジと同じ1925年生まれ。開高健は1930年生まれで、我輩の母親とほぼ同世代。親の世代となると、ものの見方や価値観がかなり違う。色川さんの記述にも違和感をおぼえるところがある。

ひとつはアフガンにおけるモンゴル軍の残虐さについて。杉山正明さんの労作で、欧州人がいうほどモンゴルは残虐ではなかったことが明らかにされた。欧州人がいうほど残虐ではなかったけれど、抵抗する人たちには徹底的に残虐だった。アフガンの人たちはたぶん抵抗したので、モンゴル人も徹底的に殺し、破壊したのだろう。アフガン人が抵抗したから残虐に対応したのか、色川さんが当時定説だった欧州人の見方しかしなかったのか。そのへんがわからない。

もうひとつは、祖国日本に対する肯定感の違い。
「ここ(アフガニスタン)にいて、日本をはるかに考えてみると、私には日本がとても嫌悪すべき国のように見えてくる。びっしりと生い茂った湿性の植物群と流行歌の節まわしがまず浮かんでくる。日本人の大半が溺愛しているあの甘いメロディとお涙頂戴の精神風土のことが浮かんでくる。あの小さな島国、奇妙な天皇島での人間と人間との甘え、人間と自然とのなれなれしい内縁関係」云々。

我輩が1985年に7ヶ月を過ごしたバグダッド。ぱりぱりに乾燥した空気の中、ドミトリーのベッドに寝っころがって想うのは、水木しげるが右手だけで丹念に描いた背景の、しっとりした樹木のこと。そんな湿潤の風土だから、麹という黴を利用して、旨い味噌醤油日本酒を産みだした。演歌のなかでも「与作」のようにパキスタン人まで受ける要素をもった歌や、「北国の春」のように東アジア全般で支持される歌がある。それほど忌み嫌うことはないんじゃないか。

世代の違い、と言ってしまえばそれまでだが、それにもかかわらず、この本はとても刺激的だ。



ムニール・バシール マカマート

https://www.youtube.com/watch?v=Y-1VVtZnO_0

ムニール・バシールはウードの演奏家。バグダッド流派の巨匠と言われています。世界にとってラッキーだったのは、30代でハンガリーに移住したこと。ドイツとかヨーロッパのあちこちでいい録音を残してくれました。1997年没。

アートをBGMにするのは失礼だけれど、入門コースとしてはそれしかない。何度も聴いていると、曲の違いや、そのうちにスケールの違いが聞き取れるようになる・・かな?

ウードは音域が低いので、聴いていて耳障りになりません。逆にウードなど環地中海音楽から西欧音楽に切り替えると、うわっ、なんとキーの高いこと。刺激的すぎて疲れてしまいます。

諏訪郡原村の別荘地に、チューニングキーの低いピアノがあります。お邪魔して演奏を聴いたり、ピアノに触らせてもらったことがあります。オーナーによると、西欧音楽ではキーがだんだん高くなった歴史があって、ついに現在のA=440Hzになってしまったそうな。

ピアノが誕生したのは1709年。赤穂浪士討ち入りの5年後。日本ではちょんまげ時代。そのころはA=415Hzだったと言われています。低いチューニングで演奏していたので、いわゆるクラシック音楽はいま聴くよりまったりしていたんじゃないか・・・というような話を原村で聞きました。おそらくナカムラクニコさんがきた時だったか。

フェースブックにFans of A=432Hz Modern Pianoというのがあります。うむ。かなりスピリチュアルな世界の人だ。

チューニングを上げることができたのは、がっしりした鉄枠に高張力鋼線を何十本も張るというテクノロジーがあってこそ。逆にもっとチューニングを下げれば、ピアノはもう少し軽く、ヤマハのCP88くらいになるのかな。あるいはフェンダーローズとか。A=440Hzを432Hzにすると、張力が30%弛むそうです。

https://ameblo.jp/otokobopiano/entry-12588129752.html

ピッチを変えるという面倒なことをするより、キーを変えたらええんじゃないかと思うのだが、クラシックの世界でキーを変えるというのはタブーみたいです。曲名が変わっちゃうから?

ピアノはともかく、音域が低いまま現代に至り、音楽の最前線で活躍しているウード。ウードに西洋人がフレットをつけたリュートは「古楽器」になってしまったのに、ウードはばりばりの現役です。それに伴い、トルコなんかのボーカルの音域も低めです。「ホテル・カリフォルニア」とか「ダンシング・オールナイト」みたいに、普通の人が歌えないような音域の曲はあんまりない。

バンドをしていた人なら、ボーカルがモゴモゴゆってて前に出てこないじゃん、というかもしれない。ま、音楽の楽しみかたは人それぞれ。

佐久の5月の音楽祭で、たっちゃんがギターで参加したバンドのボーカルは80歳近いおばあちゃん。ソウルフルでファンキーなボーカルを聞かせてくれました。本人によると、年々キーが下がってきたそうな。もうジャニス・ジョプリンは歌わないそうです。

「キー下げたらジャニスじゃなくなっちゃうよね。」

2024年8月15日木曜日

ベルナルド・サセッティ アセント

https://www.youtube.com/watch?v=j9Gftb6AGGQ

イタリア人と思っていたら、ポルトガル人だそうな。ジャズの人だと思っていたら、映画音楽とかコマーシャルフィルムでも有名だそうな。うん。ジャズというより、上手なコントラバスやドラムや、ときにはヴィオラ(チェロかもしれない)がきっちり絡みあい、彼独自の世界を作り上げている。いい意味でとてもヘンだ。

台風が近づくという夕方、うたた寝しながら聴くと、ヘンな世界に没入できる。我輩の場合、黄色の背景にモノクロームのミッキーマウスの怒り顔や呆れ顔が散らばったレコードジャケットが脳内に出現した。

2024年8月12日月曜日

千曲川ワインバレー 新しい農業への視点 玉村豊男 集英社新書

良書である。山本博さんの「日本ワインをつくる人々」でよく理解できなかったところなどを、この本で説得力豊かに展開され、理解できるようになった。

例えば、欧州で主流のワインぶどう種を、なぜ日本で栽培すべきなのか、という点など。

玉村さんの書く本は、彼がワイナリーを始める前から読んでいた。ワイン作りを始めてからも、時々読んでいる。はじめは留学帰りのおフランスかぶれと思って読んでいたし、実際にそういう面もあったと思う。しかし日本でワイン農園を始めたあたりから、日本人としての見方が確固たるものになったようだ。

グルジアで農家の土間に甕が埋められ、その中でブドウが熟成しているのを見て、ワインはブドウの漬物だったと玉村さんは気づく。

原産地がどこであれ、ブドウは植えられたテロワールに順応して育ち、そこで育まれた食事と調和する。それはフランスであってもいいし、グルジアでも長野県でもいい。

11年前の本。ほどよい時間が経った。自分の感動を伝え、人を感動させる本の内容が、まったりとした時間のなかで展開している。それを眼前にするのは素晴らしい。


2024年7月25日木曜日

マイケル・ハドソン先生の「政治と経済の激震」抜粋

https://manhaslanded.blogspot.com/2024/07/blog-post_182.html

マイケル・ハドソン:SCO諸国は、欧米のNGOがいわゆる民主化運動を展開するのを積極的に阻止したい。彼らがすでにヨーロッパに対して行ったように、アジアを植民地化するのを阻止するという点で、ほぼ一致している。

ニマ・ロスタミ・アルホルシド:今回のSCOサミットの直後、ペペ・エスコバルの記事がありました。彼はプログラムについて、2015年にプーンが提案したより大きなユーラシア・パートナーシップのコンセプトから始まったと語っていました。この計画のイデオロギーは、2018年にロシアの歴史家セルゲイ・カラガノフによって練られたようです。

マイケル・ハドソン:実に興味深い。カラガノフは最近、戦略の全容を明らかにした。カラガノフが行ったのは、NATOとユーラシア大陸の間で現在見られる文明間の闘争を長期的な視野でとらえることです。

彼はそれを1000年前の十字軍にまでさかのぼらせた。12世紀から13世紀にかけての十字軍は、ローマがキリスト教を支配し、逆転させようとする試みだった。

11世紀には5つの総主教座[ペンターキー]があり、ローマは総主教座の最底辺だった。ローマ教皇庁は、イタリアの地元一族によって支配されていたため、「娼婦の教皇庁」と呼ばれていた。

正教会はローマ帝国時代から存続し、コンスタンティノープルにあったが、アンティオキア、アレクサンドリア、エルサレムにもあった。これがキリスト教の中心だった。

1075年だったと思うが、ローマはすべてのキリスト教を支配しようと考えた。文明においてまったく前例のないことを始めるつもりだった。過去3000年間、多くの帝国が存在した。ペルシャ帝国、アジアのさまざまな帝国、イスラム帝国があったが、共通項があった。それらはすべて宗教的に寛容だった。聖書の中で、ペルシアのキュロス王がユダヤ教を崇拝することを許可したことは皆さんもご存じの通りです。バビロニアに捕らえられ、バビロニアに連れ戻されたユダヤ人たちがユダヤに帰ることを祝福した。

他にも、例えばエルサレムではイスラムが寛容だった。コンスタンチノープルにつながる主要なキリスト教総主教座のひとつは、イスラムの支配下にあった。そこでは両教会とも寛容だった。

十字軍の後のオスマン帝国は、非常に寛容だった。そこにはユダヤ教、イスラム教、キリスト教、その他あらゆる宗教があった。ローマ帝国は、基本的に自分たちだけしか存在してはいけないと言った。西欧は他の全世界と戦争をすることになった。

それが何世紀にもわたって続いた。カトリック間の戦争でヨーロッパは引き裂かれた。ついに北欧のプロテスタントが分裂した。

ひとつの考え方しか認めない倫理観、西洋の社会組織の行動に対する不寛容さ、宗教に対する不寛容さは、イギリス、オランダ、フランス、その他の国々に対する帝国主義や搾取と相まって、世界にとってまったく新しいものだった。

すでにご存知のように、私はシュメールやバビロニアの歴史を長い間扱ってきた。すでに4千年紀には、シュメールの都市ウルクが原材料を手に入れるための試みが行われていた。青銅は銅とスズから作られる。第4千年紀には、いくつかの都市、要塞都市が建設された。その後、要塞はすべて姿を消した。

「ちょっと待てよ。本質的に他国と戦って平和的な関係を築けるわけがない。貿易を行なえば、原料をくれるし、手工芸品や織物、絨毯など、私たちが作っている製品をあげればいい。」その発想が舞台を整えた。

クブライ・ハーンはそうやってロシア全土に帝国を築いた。カラガノフは、ロシア独立の創始者であるアレクサンドル・ネフスキーが中国に行き、モンゴルに行き、クブライ・ハーンに会ったことを指摘している。ロシアはこのユーラシア全体の開かれた相互発展の一部だった。彼は、ロシア、ひいてはアジアの他の国々の意識全体を、この文化的、さらには宗教的文脈、とりわけ宗教的文脈の中に置いた。

だからこそ、プーチン大統領は最近の多くの演説で言う。ウクライナ人がまず最初にやっていることは、我々は西洋人だから、あなたたちの教会を閉鎖し、破壊する。これが西洋人のメンタリティだ。

プロテスタントとカトリックの戦争でフランスが引き裂かれたのと同じように、破壊的な戦争をウクライナは私たちに押し付けようとしている。

カラガノフは、これは経済的な断絶、ドルからの脱ドルだけでなく、宗教の対立だけでなく、文明と文明のルール、まっとうな世界秩序とは何かということについての対立だと指摘した。

[中略]

西洋は常に軍事征服によって行動した。上海協力機構は対テロ軍事組織であり、軍事的な防衛なくして明確な経済や社会、宗教を持つことはできない。

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「12世紀から13世紀にかけての十字軍は、ローマがキリスト教を支配し、逆転させようとする試みだった。11世紀には5つの総主教座[ペンターキー]があり、ローマは総主教座の最底辺だった。ローマ教皇庁は、イタリアの地元一族によって支配されていたため、「娼婦の教皇庁」と呼ばれていた。正教会はローマ帝国時代から存続し、コンスタンティノープルにあったが、アンティオキア、アレクサンドリア、エルサレムにもあった。これがキリスト教の中心だった。1075年だったと思うが、ローマはすべてのキリスト教を支配しようと考えた。」

塩野七生さんの十字軍物語をはじめから終わりまで読んだつもりだが、上記引用の指摘はなかった。塩野さんはイタリアで暮らしていたから、自分のいるところを相対化するのは難しい。

政治的動機なのか宗教的動機なのか知らないが、なんでそこまで自分らのやり方で征服しようとしたのか。別に宗教とか、イエルサレムのことだけじゃない。音楽では12音階を徹底して広め、アラビアの音階(マカーム)を駆逐した。西洋のことだから、マカームとかウードにこだわるミュージシャンを、おそらく弾圧したんだろう。トレドの翻訳事業でお世話になったユダヤ人も、なんだかんだ言って追放してしまった。「改宗したら追放しない」と言って改宗させておきながら、同化させなかった。人種差別ですな。

簡単に言えば、西欧人が(ローマ法皇と)神の名のもとに、ぜんぶナチになった。ナチが特殊なんじゃなくて、西欧人はもともとナチ的であり、ナチスはそれが表層化した一部にすぎない。「すべての西洋人の心の中に小さなアドルフ・ヒトラーがいる」と喝破したのは我輩だが、アドルフ・ヒトラーはみんなが言いたくて言えなかったことを言い、やりたくてできないことをやっただけだ。麻生太郎とか森喜朗みたいなもんか。「あんたの心の中に小さな麻生太郎がいる」と誰かに言われたら、絶対否定するし、「お前に言われたないわ。」て言うと思う。

キリスト教が緑の森の欧州に入って行こうとしたとき、森を拝む人たちがいた。その人たちが森を拝めなくなるように、キリスト教の宣教師たちは木をぜんぶ切ってしまった。どっかで読んだ話だ。切ったのは木だけじゃなくて、キリスト教に帰依しない人たちの首も切ったんじゃないか。あるいは魔女扱いして森に追放したり。

「欧州は秦の始皇帝の出なかった中国である」と喝破した我輩であるが、ちょっと考え直した。欧州における秦の始皇帝はローマ法王である。ローマ法王は秦の始皇帝ほどの力がなかったので、あちこちの世俗の王を使わなければならなかった。だから地方のわがままが残された。

西欧の秦の始皇帝は、世界征服の野望を捨てない。だから中国が羨ましく、妬ましくてしかたがない。自分たちがやりたくてできない一党独裁を75年間もやっている。欧州は自分たちが言い出した環境配慮とか脱二酸化炭素とかコンプライアンスとかポリコレとかに絡めとられて苦労しているが、中国はばんばん製造して商売して儲けている。ああ妬ましい。

飛び道具と火器と騎馬の機動力はモンゴル人から学んだ。エッセンスを抽出して理論化して敷衍するのは得意だ。

2024年7月20日土曜日

十字軍物語 (2) 塩野七生 新潮文庫

気になってしかたがない。だからここに書く。

読みはじめてすぐに「のであった」「のである」「のだ」が気になる。派生形として「なのである」「なのだ」も同様に、気になる。なくても意味が変わらないし、ないほうが全体の分量が少なくなる。分量が少ないと、早く読める。[検索と置き換え]でぜんぶ消してしまおう。だめか?そうか。これは紙の本だった。

日本人が翻訳した英語を読んでいると、the が気になる。日本語を英語に翻訳するくらいの人は、英語に堪能な人だ。堪能な人の盲点は、話すように書いてしまう。英語を話すときは、「えっと」「あの」「それはね」みたいな間として、the を入れる。意味はほとんどない。話すように書いた英語を読むと、the が多すぎる。600ページほどの印刷機械のマニュアル英語版から the を抽出したら4000くらいあった。ほんとうに必要な the は1%くらいだった。

意味がないけど癖で使う。これがすぎると、ほんとうに強調したいところが埋没する。

塩野七生さんは大作家なので、我輩の蚤の声が届くわけはない。自分だけでも気をつけて、文章も表現も人生もシンプルにしたいと、これは自戒。人生はエンドが決まっているので、無駄をはぶくと中身が濃くなると期待している。

文体はともかく。閑話休題。

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キリスト教徒は、苦悩する他者を見るのが、ミもフタもない言い方をするならば、大好きなのである。なぜなら、自分に代わって苦悩してくれている、と思えるからだ。(文庫版109ページ)
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・・・ジーザスは「借金を返すな」という過激な教えのせいでユダヤ人共同体に殺された。頭にトゲトゲをかぶらされて十字架を背負って坂道を登らされ、磔にされてプスプス刺されて殺された。その苦しむ様子が、後世こんなにウケるとは思わなかっただろう。いや、そんなことを考える余裕はない。殺されるのがイヤだったにちがいない。

・・・「なんで師匠は殺されたんでっか?」このシンプルな問いに、ジョンだかポールだか知らないが後継者が苦しまぎれに「お師匠はんはなぁ、人類に代わって苦悩を引き受けてくれはったんや」と答えた。その苦しまぎれが後世こんなに広まって、西欧のひとつのカルチャーというか、ビヘイビアとなるなんて、答えた後継者は思わなかっただろう。

イタリア生活が長い塩野七生さんの炯眼。さすがだ。たんに「大好き」というより、痩せこけた髭の人とか、ハンガーストライキで苦しんでいる人とか、そういう人を見て、西欧のキリスト教徒はめっちゃ盛り上がるんだろうな。

キリスト教徒のばあい、開祖の殺されかたがあんなふうだったので、苦行している人を見て盛り上がる(自分らはワインを飲んで偲ぶ)というカルチャーができあがった。それが宗教心かといえば、あくまでカルチャーとかビヘイビアであって、宗教心とはあんまり関係ない。

ウクライナ戦争がはじまってから、戦争終結を祈願して、毎日イマジンを歌い、それを配信している友人がいる。はたでときどき見ている我輩は、しんどくないのか?と思う。キリスト教徒だったら盛り上がるのかな。

戦場の人たちが受けている苦しみに共感する力。それはすばらしいが、共感力は宗教心とイコールではない。「あんた共感力がおまへんな」と言われたら、ちょっと悔しいから3回くらいはやってみるかもしれない。でも我輩なら自信を持って言える。ぜったい続かない。だから最初からやらないし、近寄らない。

何かが成就するまで続けるというのは、お百度参りだ。百回お参りして効果がなかったら?また次のシーケンスをはじめる。ネットフリックスのドラマか。

受けたストレスを「回数」とか「数量」で解消するタイプの人たちがいる。お釈迦さんは苦行をやめて、沐浴して、スジャータのくれたミルク粥すすって、瞑想して悟り開いた。苦行のリピート回数というのは、仏教と関係がない。宗教的に見えるかもしれないが、宗教そのものともあんまり関係ないと思う。


2024年7月15日月曜日

兵站 福山隆 扶桑社

10日ほど前、著者の福山隆氏から我輩の顔面本(フェースブック)に友達申請が来た。「誰かいな?」と思って調べると、自衛隊OBである。自衛隊つながりといえば、パキスタン時代に日本人会でご一緒したA大佐くらいしか存じあげない。福山氏の顔面本を拝見すると、トモダチが5000人くらいいらっしゃるので、拙者のようなこの世界の片隅の住人など回答しなくても良かろうと放置している。でもご著作は気になったので、ブッコフオンラインで探した。

宣伝文句には、聖書時代のジェリコの戦いの兵站のことから起草しているみたいに書いてあった。期待したのだが、宣伝文句は嘘。イントロに書いてあるのは、エジプトのバビロン捕囚からカナンの地に帰ったモーゼとユダヤ人の一行の話である。しかも兵站には何の関係もない。食うものがなくて困り、杖をひと振りしたらウズラの大群がやってきてそれを食った。水が苦くて飲めないので杖をひと振りしたら甘くなり、それを飲んだ。眼前の紅海と背後に迫るエジプト軍に挟まれて困り、杖をひと振りしたら紅海がぱっくり割れて渡れました。めでたしめでたし、というのは兵站ではない。ただの神話の、ただのデタラメである。

イントロのところで読み進める気をなくしてしまった我輩だが、古本ながら850円も払ったので、我慢して読み進めた。

この本は、日清戦争からイラク戦争に至るまで、兵站の観点から素人にもわかりやすく解説した良書である。(イントロ以外は。)しかも石光真清はじめインテリジェンスのために挺身した英雄たちの列伝にも、かなりの部分を割いている。素晴らしい。我輩は石光真清の大ファンだし、この本には出てないけれど木村肥佐生さんの大ファンである。

あくまで素人のための兵站入門書なので、これを以てなんかわかったようなことをウェブとかブログに書くのは差し控えたほうが宜しかろう。プロにはプロの世界があるので、我々素人はマスメディアの偽情報を乗り越えつつ、プロの仕事をじっと観察するのが素人の筋である。

インパール作戦で何万人も餓死させた牟田口みたいな魯鈍を意思決定者にしないため、そして牟田口みたいな魯鈍を意思決定者にさせないような組織にさせるため、我々素人がメディアの情報操作を乗り越えるのが大事だし、素人ながら兵站の重要性を認識するのも大事なことだ。

筆者はプロOBとして、朝鮮戦争の章の249ページですごくいいことを指摘している:

筆者として指摘したいのは、「策源地(兵站の源)のソ連と中国が顕在する(無傷でいる)限り、米国は朝鮮半島をすべてを自己の影響下に置くこと(占領)はできなかった」ということだ。

そして同じ主張が、次章のベトナム戦争の冒頭で繰り返される。

現在進行中のウクライナ戦争でも同じことが繰り返されている。アメリカはベトナムの敗戦以来、何も学んでいない。学ぶには肥大化しすぎ、老化しすぎた組織体だ。彼らがいま読むべきなのは、「失敗の本質」だ。

いろんなことを考え、思い出させてくれる。兵站の入門書として、全国民必読の書である。


2024年7月14日日曜日

十字軍物語(4) 塩野七生 新潮文庫

- 他の地方では異民族と共生できるユダヤ人も、イェルサレムに住むや頭に血がのぼる

このくだりを読んで感心した。そのとおりのことがいまガザで進行中だ。もう少し文脈がわかる程度に引用すると:(文庫版の86ページ)
ローマ帝国に対するユダヤ人の最後の本格的な反乱を鎮圧した皇帝ハドリアヌスは、イェルサレム市内からユダヤ教徒を追放する。帝国のどこに住んでもかまわないが、イェルサレムにだけは、訪れるのは認めても住み続けるのは禁止した。その理由を平俗に言い直せば、他の地方では異民族と共生できるユダヤ人も、イェルサレムに住むや頭に血がのぼる、であった。

それから1000年後の1229年、スルタン・アル・カミールが神聖ローマ帝国皇帝のフリードリッヒと調停し、イェルサレムの領有権を放棄する。塩野さんは、不思議な調停の理由をこう推察する。一国の統治者として考えるなら、
「イェルサレムがイスラムの支配下にあるかぎり、ヨーロッパのキリスト教徒の頭はカッカとしつづけ、十字軍を組織しては侵攻してくるのをやめない、と。」

もうひとつ、ロシアに贈りたいと思った言葉。
「現実主義者が誤りを犯すのは、相手も自分と同じように現実的に考えて愚かな行動には出ないだろう、と思いこんだときである。」

もう少し文脈がわかる程度に引用すると:(文庫版の210ページ)
肌や髪の色も、信ずる宗教も、各人が身にまとう衣服も、ぞれぞれが話す言語も、何から何までちがう者同士が、混然ではあっても共存していたのが、この時期のアッコンであった。このアッコンでは、誰もが、それぞれのしかたで利益を得ていた。損をしている者はいなかった。少なくとも、このアッコンを破壊してやろうと思うほど、損をしていた者はいなかった。
しかし、マキアヴェッリだったかグイッチャルディーニだったか忘れたが、この時期より200年後に生きるルネサンス時代のイタリア人は言っている。
「現実主義者が誤りを犯すのは、相手も自分と同じように現実的に考えて愚かな行動には出ないだろう、と思いこんだときである。」

頭に血がのぼったとしか思えない欧州人たちが、合理性とか利益を放棄して、ロシアを煽っている。

我が国も80年ほどまえ、合理性とか利益を放棄して破滅にむかって突っ走ったことがある。昭和天皇は、沖縄で20万人が殺されても、広島長崎で15万人が殺されても戦争をやめなかった。彼の頭を冷ましたのは、ソヴィエトへの恐怖だった。昭和天皇はソヴィエトが参戦した翌日に降伏した。
いま我輩がアメリカとかヨーロッパの意思決定者たちに読んで欲しいのは、「失敗の本質」である。退屈な本だが、合理的であるはずの軍隊ですら、組織内部の人間関係であるとか、伝統であるとか、対外的なメンツであるとか、指揮命令系統であるとか、そんなこんな理由で全体として不条理なデッドエンドに向かって走るのをやめられなかった。それが、詳細に分析されている。

ロシアはいま、欧米というキ○ガイを相手にしていると考えるべきだ。





2024年7月11日木曜日

十字軍物語(3) 獅子心王リチャード

 この巻は、獅子心王リチャードとサラディンの物語。とても面白い。

人は誰でもいつか死ぬんだな、と思う。

2024年7月4日木曜日

十字軍物語をネタにして言いたいことを言う その3

マイケル・ハドソン先生によると、ジーザス・クライストは過激だった。借りた金を返さないでいいという運動をはじめた。ユダヤ人でありながらユダヤ社会の慣習に叛逆したので、ついに殺された。

弟子といわれるジョン(ヨハネ)とかポール(パウロ)になって、そのへんがマイルドになったんじゃないか。西暦313年にキリスト教がローマ帝国の国教になった。つまり、借金返さなくていいという過激な教えを捨てて、愛の宗教なんていう訳のわからない教えに変身しちゃった。

ある西洋人がどっかで言ってたこと。「仏教っていうのは宗教っていうより哲学なんだよね」と云々。それを見たとき、西欧人との宗教観の違いみたいなもんを感じた。

生まれたときからイスラム教徒とかキリスト教徒とか、しかもその教えが「神があんたを作ったんだよ」とか「マリアさんバージンでした」とか「死んだ人がよみがえることもあるんだよね」みたいな非科学的不条理満載なのを信じろと強制されて育ったなんて、そんな特殊な環境の人が言うことはそもそもわからん。

そんな人たちが、「仏教って宗教っていうより哲学だよね」というとき、いったいどんな文脈で何を言うとるねん?というのを想像するのすら面倒臭い。

だいたい西欧は面倒くさい。理屈たらルールたら原理原則たら、面倒くさい。そうじゃありませんか?挙げ句の果てに、自分らが負けそうになったら、負ける前にルールを変えてしまう。おいおい。

哲学と宗教の違いというのは、誰も見たことのない絶対神が人間はじめ猿とか猪とか蛙とかカメムシを作ったという不条理は別にして、世俗権力との関わりがどうだったかということじゃないかと思う。

法華経だけ眺めてみても、ある時は「このお経を信じたら、今世は安穏で来世はいい暮らしができる」と説いているところもあれば、「このお経を末法の世で広めようとしたら、必ず大変な目に遭いまっせ」と説いているところもある。矛盾してるやん。どっちやねん?と思いませんか?

それはね、我輩は考えた。それはね、法華経みたいなそもそも論を説きはじめると、必ず世俗権力との衝突が生じる。とくに信じる人の人数が多くなると、世俗権力は絶対ほっておかない。だから大変な目に遭う。しかしそれがなければ、宗教として、組織として成立しない。ある程度の人数が集まって組織として成立しないと、「ある人いわく」みたいな哲学レベルのまんまで、衆生を救うことができない。そういうことじゃないか。

キリスト教はある時点で、世俗権力に迎合して、いい暮らしをするために根幹の教義を変えてしまった。だからローマ帝国の国教になれたし、ローマ帝国が滅んだ後もカトリックという中世の欧州最大の地主として存続できた。とても特殊な宗教だ。

イスラム教も、最大派閥のスンニ派について言えば、戦争に勝ってイスラム帝国が地中海周辺に広まった。そもそもの成り立ちから、宗教的権威と世俗権力が一体化していた。

だから面白いのはイランのシーアなんだ。歴代イマームをスンニがつぎつぎと毒殺、幽閉、暗殺した。13人めは(イランの13イマーム派によると)ついに暗殺を逃れて隠れてしまった。いつか世に出るぞ、と。世俗権力との対立こそが宗教の宗教たる所以だ。

そういう西のほうの特殊な宗教でなくて、東のほうの普通の宗教観でいうと、法華経の言うように世俗権力との衝突がいつかやってきて、大変な目に遭うぞ、と。

2024年7月3日水曜日

十字軍物語 塩野七生 新潮文庫のつづき

標記の本で、トレドのレコンキスタについてはたったの1ページしかない。我輩が知りたい12音階の政治的動機について、トレドはかなり大きな地位を占める。500年くらいのあいだ、ここで発見されたアラビア語文献をユダヤ人に読ませ、ユダヤ人はそれをラテン語の音声に翻訳し、スペイン人がラテン語に書き留めた。そんな地味な苦労を重ねて、欧州人はギリシアとローマの科学哲学占星術化学を学んだという。

そんな経緯を塩尻和子先生がわかりやすい冊子にしてくれた。

https://www.shinshu-islam.com/sislamcivil.pdf

13ページめに興味深い記述がある。西欧の文化史では、4世紀から14世紀までの1000年間が空白になっているという。そのあいだギリシア・ローマの文化はイスラム世界で温存されていたのだが、西欧ではそれを隠して、自分らがギリシア・ローマの直系みたいに宣伝した。はじめのうちは本当のことを全部言うわけではござらん、みたいなノリでそれが周知のことだったのに、そのうち自分らで言いはじめたウソを自分らで信じるようになったみたいだ。

自分らが言い出したウソを自分らが信じるようになるのに、1年くらいあればじゅうぶん。それはウクライナ戦争に関するG7メディアを見ればわかる。

塩野七生さんの本は、人物がよく描かれていて、面白くて読み続けるうちに、年表的な事柄の繋がり、因果関係みたいなもんをすっかり忘れてしまう。それはそれで素晴らしいが、あとで「あれどこに書いてあったかいな?」と探すのが大変。

ユダヤ人についてはまた別の機会に。


十字軍物語 塩野七生 新潮文庫

あっち読みこっち読みした記憶がある。このたび兄貴がどーんとひとそろえ送ってくれたので、はじめから読みだした。

前々から西地中海の文化史をレビューしたいと思っていた。我輩なりにいくつかの主軸があって、ひとつはユダヤ人と西欧人の関わり。もうひとつは12音階。

「12音階」にいろんなキーワードをくっつけてググっても、欲しい情報が出てこない。ほとんどはピタゴラスがどーのこーのという理屈の話。音楽史の世界はそもそも12音階が出発点で、せいぜい純正律と平均律の違いとか。みんなそんなもんだと思っていて、誰も深く考えていない。

物理的な理屈から考えても、おかしいやん。弦を弾くと、真ん中が振動しないポイントになる場合もあれば、振動しないポイントが2つできる場合もある。オクターブを2分割して、それを2分割して、それを3分割したら12音階のできあがり。じゃあ、2分割して2分割して2分割したら、8分割。はじめっから3分割して、それを3分割したら・・・9分割。12音階と8音階と9音階を混在させて、気持ちいいスケールにしたら、地中海沿岸のセタールとかタンブールのフレット構成になる。

理屈上でいろんな可能性があって、じっさいに地中海の西とか南でそういう楽器があったのに、西欧ではなんで12音階が選ばれたのか。それのみならず、ウードにフレットをつけてリュートにしたり、かなり強引に12音階をおしつけてきた。平均律なんて、きれいに響かない和音が多いのに。かろうじて追放されなかったのはバイオリン属だけで、なんでバイオリン属だけがフレットレス楽器として西欧で生き残ったのかは、わからん。

我輩の仮説は、12音階を推進する政治的意図があったから。西欧全体でそれを推進できる力をもっていたのは、カトリック教会しかなかろうて。

2024年6月30日日曜日

日本ワインをつくる人々(1) 北海道のワイン

このシリーズは北海道から始まる。北海道のワインを作り上げた人々があんまりユニークなので、その人物に焦点をあてたワイン本を書こうとしたところ、「ワイン王国」の編集長から注文がついて、他の地域のことも書くのなら出版しましょう、ということだったらしい。

だからこの本が第1巻。長野県で暮らし、働いている我輩は(2)の長野県から読みはじめ、すぐ隣の山梨県を苦心して読み終わり、ついに北海道にやってきた。

いや、ほんとうに面白い。北海道、いいなあ。余市ワインと十勝ワインを飲もう。北海道に行くのはもう少し先のことになりそうだから、とりあえずワインを買って飲もう。

いちばん興味をそそられたのが蘭越町の松原農園。ここに行くか、通販でしか買えない。そんなに値段は高くない。箱買いすれば1本1600円くらい。(10年前の値段だけど。)


日本ワインをつくる人々(3) 山梨県のワイン

情報量がめっちゃ多いので読むのに時間と根気が必要。削るまえはこの1.5倍のボリュームだったらしい。情報量が多いのは、ワイナリーが多いから。ワイナリーが多いのは、歴史が長いから。

著者の山本浩さんは山梨のワイナリーとの付き合いが長く、知り合いも多く、光のあたる部分も影の部分もよく知っているという。それだけに知っていて書きにくいことや書けないことも多く、この本ではあえて光のあたるところを書いた、と後書きにある。

ここに紹介されているなかで、韮崎の山のほうに位置するワイナリーがある。そこに行ってみたくなった。ワインを飲みたくなる本です。

2024年6月10日月曜日

日本ワインをつくる人々(2) 長野県のワイン 山本博

 松本市の東の郊外。聖徳太子が創建したという兎川寺を過ぎたあたりが山辺の里。そこに山辺ワイナリーがある。そこのギフトショップ。片隅に発送伝票を書くための小さなデスクがあって、その小さなデスクの片隅にブックエンドのように置かれていた5冊本ボックス。それが「日本ワインをつくる人々」

そんな本があることを初めて知った。値段を見てびっくり。1冊1800円もするやん。

帰宅してブッコフオンラインで調べたら、やっぱり出てました。長野県の巻が1000円くらいになっていたので購入。届いたら案の定、贈呈の新本。ブッコフが出版社の在庫をただ同然で買いとって売るというビジネスモデルですな。

それはともかく、内容はめっちゃ濃い。つくる人に焦点が当てられているだけでなく、地勢、気候条件、品種、仕立てかた、施肥の内容、仕込みの概要など、ある程度の技術情報も書かれている。我輩が手に入れたのは2007年の初版なので、17年も経過している。状況はかなり変わったかもしれないが、なんでこの地域でこの品種が栽培されているのかという由来などが詳しく書かれていて、興味が尽きない。長野県のことなので、あのへんの話だなと推測できるところがあり、訪れたことのあるワイナリーなども出てくる。嬉しい。

長野県の巻をぼちぼち読んでいるうちに、北海道の巻と山梨県の巻も届いた。そして、著者の山本博さんが今年1月に逝去されたことも知った。ワイン本のみならず、日本労働弁護士団名誉会長。

偉人である。



2024年4月28日日曜日

やし酒飲み エイモス・チュツオーラ 岩波文庫

ぶっとんだ話だ。アフリカはぶっとんでいる。

作者はチュツオーラと表記されているが、トゥトゥオーラというほうが近いんではないかと思う。そのほうがアフリカっぽい。

ぶっとんだ話を1970年に、日本語に訳した人もぶっとんでいる。巻末の解説を読むとそう感じる。さらに巻末に解説、というよりそれ自体が単独の作品のような文章を書いた多和田葉子さんも、相当ぶっとんでいる。日本語で整合しない内容もあるけれど、トゥトゥオーラを読んだ後では、多少の不整合なんかどおでもよくなる。

多和田葉子さんは、いまのいままで知らなかったが、ノーベル文学賞といえば名前が出てくる人だそうな。村上春樹みたいに。

インドネシアのスラウェシ島のトラジャは死者と生者が共存していることで有名だ。この話を読むと、トラジャはどうやらアフリカの比ではない。トラジャほどでないとはいえ、近代化して発展したインドネシアやマレーシアでも、魔術師や祈祷師、いわゆるドゥクンとかボモが棲息する余地がたっぷりある。「へーぇ、黒魔術とか白魔術とかまじめに信じてるんだ。」と思ったことが何度もある。カリマンタンやボルネオの森には先住民の祖先の精霊が住んでいる。

アフリカでは、余地とか、信じているとか、そういうレベルではない。死者は生者と同じくらいにうろうろしており、神も精霊も悪霊も、魔術師も祈祷師も、ふつうの職業のようにそこらへんにある。やし酒飲みもそのひとつだ。おもしろい。

下諏訪には、ときどきそういう人がいる。
「毒澤鉱泉に行ってきました。」
「よかったですね。神に選ばれたんですね。」
毒澤鉱泉というのは、神に選ばれないと、たどり着けないらしい。
毒澤鉱泉に入った帰り道、魂がふわふわしていた。毒澤鉱泉が異界だったのか、毎日ふつうに通勤している下諏訪が異界なのか、わからなくなる。

我輩はアフリカを知らない。チュニジアは行ったことがあるが、サブサハラはぜんぜん知らない。行く機会がなかったし、行きたいとも思わなかった。でもこの本を読むと、いっかい見てもいいかな、という気になる。ふわふわして帰ってこれるかどうか、自信がないけれど。


2024年4月15日月曜日

大阪不案内 森まゆみ ちくま文庫 その2

標題の本の感想の続き。

前半を読んでいた頃はあんまり気にならなかった。後半になると、この人の蘊蓄の量と濃厚さに圧倒される。最後の堺の章になると、歴史と文人と建物の蘊蓄が1行に5つぐらい出てきて、ああ疲れた。飛行機に乗ったら前の座席の背後のポケットに入ってる機内誌。そこに載ってるエッセイなら、ひとつのネタで書けて原稿料をもらえる。それで家族を養える。そんなネタが、1行に5つ出てきたら、ほんま疲れまっせ。文体もなんも印象に残らへん。

ピアノでいえばオスカー・ピーターソンか。

パワフルな女性にときどき出会う。魔女みたいな人。5000年くらい生きてて、森羅万象ことごとく知らないものはない。「頼むから黙っててくれ。」と言っても、「私は大丈夫。」と、朝まで寝かしてくれない人。いや、森まゆみさんがそういう人かどうか知らんけど、その魔女を思い出した。時差ぼけ知らずの魔女。

2024年4月14日日曜日

大阪不案内 森まゆみ ちくま文庫

富士見の古書店で購入。富士見書店が消滅して、跡地にダイソーが入った。カルチャー的焼け野原の富士見だ。富士見町立図書館を除いて。と思いこんでいたら、このところカフェとかレコード店(CDじゃなくてレコード)とかオープンしている。まるでプチ上田みたいになってる。(贔屓目というやつ。)

さてこの本。半分がた読んで、我輩はあらためて大阪のことをなんも知らんと思った。

そもそも我輩は、大阪のことをなんも知らん。生まれ育ったのは、梅田から電車で20分くらいの兵庫県西宮市今津だ。なんでそんな近所のことを知らんのや?

神戸のことはわかる。全部が全部知ってるなんて言えるわけはないが、だいたいのところはわかる。なんでかというと、座標軸の原点が元町か御影くらいしかないから。ひるがえって大阪は、座標軸の原点が多すぎる。梅田。西梅田。旭屋書店。阪神百貨店のデパ地下。難波。鶴橋。通天閣。浜寺公園。エミおばちゃんが住んでた港晴。いずもや。喜楽別館。泉の広場。みみう。一心寺。じゃりんこチエ。社会人駆け出しのころ通ってた本町。

学生時代に伊藤武司に「おれ城東区なんや。わかるやろ?」と言われて、ぜんぜんわからんかった。城東区で知ってるのは、ヨネおっさんのアパートだけ。ワイの大阪知識はピンポイントすぎて、あとはぜんぜんわからんのや。地下鉄の乗りかたくらいやったら知ってるで。

そんな大阪ストレンジャーの我輩に、この本は新鮮やった。東京人の目から見た大阪入門。もちろんこの本を読んで理解でけへんかったこともいっぱいある。けど少なくとも、大阪についてなんか語ったらあかんということはわかった。

2024年4月8日月曜日

落第社長のロシア貿易奮戦記 岩佐毅 展望社

著者の岩佐さんは大学の大先輩で、フェースブック友達でもあります。学科が違うし、年齢も15歳ちがうけれど。

我輩の出た大学は、1学年に320人くらい、つまり4学年で1500人足らずという小さい学校。だけれども、それぞれが学科のなかにひきこもっていて、他の学科のことはほとんど知らない。サークル活動でもなければ他の学科の人たちと知り会うことはない。中国研究会みたいなところに所属して語劇なんかで忙しくしていると、いよいよ引きこもりになる。上3年、下3年くらいの先輩後輩の関係の中で濃密に付きあうことになる。

ロシア学科の大先輩である岩佐さんとどんなふうにフェースブックで知り合ったのか、経緯を忘れてしまった。岩佐さんはパワフルなので、どっかで彼のネットワークに引っかかったのだろう。そんな彼に勧められて手に入れたのが標題の本。

我輩みたいな低燃費ライフスタイルで暮らしていると、岩佐さんのバイタリティーに圧倒されっぱなし。おそらく我輩の20倍くらい、いやそれ以上に濃厚に生きてはります。

組織に馴染めなかったり、自分がやりたいことと違うことをやっているなと思っていたり。そんな人たちがこの本を読んだら、きっと吹っ切れると思う。

いろんな形で。

2024年4月5日金曜日

中国生業図譜 相田洋 集広社

定価3500円。アマゾンではプレミアがついて5000円くらいになっていた。ヤフオクで2800円。ブックオフオンラインで見つけてもらい、1500円くらいで購入。届いたので開封したら新品。

穿った見方をすれば、売れそうにない出版社在庫をブッコフが引き取り、アマゾンに高値をつけて出し、しばらくしてからブッコフオンラインでディスカウントで出す。出版業界で革命が進行中のようだ。

さて、内容。裏表紙にいきなり、子供売りのオバはんの写真が載っている。これでまず頭をゆわされてしまう。脳袋壊了。このオバはんの職業は、子供に特化した人身売買である。

それのみならず、こんなん職業か?というのが出てくる。

著者は1941年張家口生まれの学者先生。退職してアカデミックな世界が対象にしなかった内容を本にしてくれている。相田先生曰く、その時代の中国では他人の職業に干渉しなかったと考えられる。他人の食い扶持だから。

相当変わった先生にちがいない。



2024年3月25日月曜日

信州の鉄道物語(上) 信濃毎日新聞社

1987年に刊行され、その後に絶版となった本が2014年に再刊された。上巻は「消え去った鉄道編」である。

茅野市北山芹ヶ沢の師匠のところで農業を学んでいたころ。師匠曰く、北山には鉄鉱山があって、鉄鉱石を運ぶ貨物船路が茅野駅まで敷かれていたと云々。大東亜戦争の頃の話であり、白人捕虜がこき使われたらしい。「この地域の気性が荒いのはそのせいもある。」と、師匠は語った。その跡地はいま、風光明媚な自動車道路になっている。

この本の存在を知ったとき、その線路の歴史を知りたいと思った。手に入れて読みはじめると、あちこちに鉄道が敷かれていたことを知った。千曲川流域では現役の上電、長電だけでなく、丸子電鉄もあったという。丸子は何度も通過したことがある。そういえば、鉄道の駅があっても不思議ではない街の佇まいだ。上田と諏訪を結ぶ大門街道にも鉄道敷設の計画があったらしい。計画倒れになったり、廃止された路線のあとには、どこにも素晴らしい道路ができている。

長野県飯田市と岐阜県中津川市を結ぶ中津川線が計画され、一部着工していたという。恵那山の下に神坂(みさか)トンネルを掘る、ということは、いまの中央道の恵那トンネルに並行したルートだ。もしこの中津川線が開通していたら、塩尻から名古屋に至る鉄路は、いまの中央西線に比べて格段に楽な地形を通ることになる。ということは、のちのリニア計画にも大きな影響を及ぼしたかもしれない。

鉄道が廃止されたり計画倒れになったのは、要すればモータリゼーションに負けたということ。資源や環境やらで時代の風向きが変われば、鉄道に有利な風が吹くかもしれない。何十年か経ったら、電車に乗りながら、「ここは昔、道路しか通ってなかったらしい。」なんて語る時代が来る可能性もある。

2024年3月16日土曜日

ナゴヤ全書 中日新聞連載「この国のみそ」 中日新聞社

にわか名古屋ファンになった我輩である。

大東亜戦争のときの名古屋空襲が特筆されていて、なんでそんなボコボコにされたかといつと、航空機をはじめ軍需産業が集中していたから。その歴史が記述され、それが戦後の復興とものづくりで再生し、トヨタがいかに大きな存在になったか、と一連の流れが解説される。

いまパレスチナで進行中の空爆もあって、空襲のあたりは読んでいて辛いものがあった。でも空襲に負けないで復活した名古屋の製造業はすごいと思う。

それと伊奈製陶は長野県の伊那とはなんも関係がなくて、常滑の伊奈家のファミリービジネスが発祥だと知った。常滑はこないだ訪問したばかりなのでこころやすい。「ワテ常滑知ってまんねん」って言えるし。

東亜同文書院と愛知大学の関係もきっちり書かれている。敗戦して東亜同文書院の蔵書や文書がなんで愛知大学だったのかというのが謎だった。しかしこの本で、東亜同文書院の前身だった日清貿易研究所をつくった荒井精が名古屋出身。尾張藩士の家に生まれて中国に渡った軍人と言うのを初めて知った。

ちなみに荒井精という名前をググっても何も出てこない。紙に印刷された本でしか知り得ない知識というのがあるんだ。ネットに載っているのがすべてというわけではなく、すべての知識がネットに載せられてい流わけではない・・・と言うのは意外と意外だ。

いままで、日本における名古屋は中国における上海みたいなもんじゃないか、冠婚に見栄を張る文化は上海よりだよね・・・としか考えてなかった名古屋。その名古屋がこんなに魅力的な土地柄だった。それを知らされただけでも、この本の存在は大きい。


2024年3月13日水曜日

陸軍参謀 エリート教育の功罪 三根生久大 文春文庫

この本の著者は1926年生まれ。陸軍士官学校在校中に大東亜戦争の敗戦を迎えた。内容は、なんで日本は大東亜戦争に負けたのかという命題について、日本帝国陸軍という組織の観点から論じている。特に組織の中で指導的役割であったのが陸軍参謀である。

ざっくりまとめると、明治以来の日本で、政治の世界は東大出身者が実権を握っていた。陸軍では陸軍大学校(陸大)出身者、海軍では海軍大学校出身者が実権を持っていた。東大も陸大も海大も皆おなじくらい優秀だった。陸軍が垣根を超えて暴走したのは、東大出の政治家たちが何もわかっていないと考えたから。実際に政治家で軍事のことをわかっているのは誰もいなかった。また陸軍で国際政治のことをよくわかっている人材は、いたかもしれないけれど何も言わなかった。政治と軍事というふたつの世界が隔絶していて、その隔絶はそもそもエリート人材養成コース(東大と陸大)から隔絶していた。

陸軍で、声の大きい人や好戦的な態度の人が重用されたという人事面での背景にも触れられている。慎重な人が失敗すると閑職に追いやられるけれど、好戦的な人が失敗しても閑職は一過性で、すぐに日の当たる場所に戻される。海軍の人事制度はそうではなく、公平だったらしい。エリートを蛸壺で養成する教育制度と、人事方針の歪みが日本を戦争に導いた。

これは遠い昔の日本のことでありながら、それにはとどまらない。ウクライナの負けがほぼ確定的な今、それにもかかわらずフランスのマクロンやドイツの国防大臣、そしてドイツの絵本作家が勇ましいことを声高に言っている。ドイツ軍の最高幹部がロシアをいかに攻めるかという議論をやっている。政治エリートは軍事のことも戦場のこともわかっていない。軍人は文民統制を無視している。西欧人は今こそ、日本が惨敗した歴史から学ぶべきである。

著者はこの本の中で、チャーチルを評価している。チャーチルは軍人よりも軍事のことをよく理解していた政治家で、卓越した指導者だったという。我輩はチャーチルのことをただのビッグ・マザーファッカーだと思っていた。いろんな意見があるものだ。

チャーチルはボーア戦争に従軍して負傷したはずだ。負傷して、どうしたら負けないか考えたのだろう。ボーア戦争というのは、今の南アフリカ共和国とザンビアを舞台にした、オランダとイギリスの植民地争奪戦である。じつに勝手な戦争である。

著者はこの本の中で、瀬島龍三のことも評価している。瀬島龍三はシベリア抑留で辛酸を舐めたというが、陸軍参謀だった瀬島龍三はソ連側から特別扱いされていたという話もある。我輩が学校を出て駆け出しのサラリーマンだった頃、伊藤忠商事の大阪本社ビルで働いていた。上司が「越後さんが来ててな」とか「瀬島龍三が来ててな」みたいな話をしていて、「なんや君、瀬島龍三のこと知らんのか?」みたいに話を振られたこともある。そんな経緯もあって、瀬島龍三の評伝を買ったけど、読まないまま売ってしまった。でもこの著者の評価は、今まで読んだなかでいちばん客観的な感じがするし、説得力がある。

シベリア抑留については、よくわからない。抑留体験者だったなんたらが描いた小説「暁に祈る」は純粋なフィクションだったという。そもそもソ連と日本の関わりあいについても、よくわからない。いろんな話があって、全体像がさっぱり掴めない。3年前に逝去した義理の父は北海道出身で、ロシア人のことを露助と呼び、「敗戦の1日前に宣戦布告しやがった」と言っていた。義父はリベラルな人で、昭和天皇のことを「天ちゃん」と呼び、「死ぬまで沖縄に行けなかったんだ。そりゃ行けねえよな。」と客観的に評価していた。

以前は我輩に知識がなかったので、敗戦前日の参戦について、「そうなんですか」としか言いようがなかった。実際のところ、ソ連が参戦した翌日に昭和天皇が降伏した。沖縄で20万人が殺され、広島で14万人が即座に殺され、長崎で10万人が即座に殺され、東京大空襲で10万人が殺され、それでも降参しなかった昭和天皇は、ソ連参戦の翌日に降参した。ソ連がそれほど怖かったんだ。ソ連が参戦しなかったら、いつまで殺され続けたことやら。

【参考記事】

https://toyokeizai.net/articles/-/444666?page=2

「いまさらやめられない」が生んだ350万人の悲劇

日本は負けを承知でなぜあの戦争を続けたのか

丹羽 宇一郎 : 日本中国友好協会会長

抜粋:

拙著『戦争の大問題』で、元自民党幹事長・元日本遺族会会長の古賀誠氏は次のように述べている。

「マリアナ沖海戦の後に200万人の日本人が犠牲になった。政府はこの段階で戦争をやめるべきだった。このとき戦争をやめていれば、東京大空襲はなかった。沖縄戦もなかった。広島、長崎の原爆もなかった。戦争をやめなかった政府の罪は重い。」

+++++

戦前、海軍兵棋演習ではマリアナ諸島が取られたらそこで演習終了。つまりマリアナ諸島を取られたら負けなのだ。対米戦の敗北は筋書きどおりとなり、戦争をやめようとしない仏の顔をした鬼によって、負け戦をずるずると延ばし、いたずらに人命を損なっていったのが、1944年6月から1945年8月15日までの日本である。

なぜ負けが明白な戦争をやめることができなかったのか。この問いは、なぜ戦争を始めたのかよりも重い意味がある。

戦前の外交評論家、清沢洌が戦時下の国内事情をつづった『暗黒日記』にこんな記述がある。

「昭和18年8月26日(木) 米英が休戦条件として『戦争責任者を引渡せ』と対イタリー条件と同じことを言ってきたとしたら、東條首相その他はどうするか?」

「昭和20年2月19日(月) 蠟山君の話に、議会で、安藤正純君が『戦争責任』の所在を質問した。小磯の答弁は政務ならば総理が負う。作戦ならば統帥部が負う。しかし戦争そのものについてはお答えしたくなしといったという」

(いずれも『暗黒日記』)

清沢は小磯総理の答弁を記した後に、「戦争の責任もなき国である」と付記した。清沢の日記中には、今日とまったく変わらない日本人の姿がある。

責任と権限のあいまいなまま戦争が始まり、最後まで明瞭になることなく、天皇の御聖断によって戦争は終わった。戦争を推し進めた指導者は、だれも責任を負って戦争をやめようとはしなかった。

戦争責任はあいまいなまま日本の戦後が始まってしまった。

戦争を始めた責任者が不在でも、戦争をやめる責任を負うことはできる。責任を負うことは国であれ企業であれ、組織のトップに就いた者の務めである。責任を負わないトップは誰がどう言おうとトップの資格はない。

いまさらやめられないと考えた指導者たちも、本気で対米戦に勝てるとは思っていなかったはずだ。

「昭和15年『内閣総力研究所』が発足した。日米戦の研究機関である。陸海軍および各省、それに民間から選ばれた30代の若手エリート達が日本の兵力、経済力、国際関係など、あらゆる観点から日米戦を分析した。その結果、出した答えが『日本必敗』である」

(『戦争の大問題』)

この報告を聞いた東條陸相は、「これはあくまでも机上の演習であり、実際の戦争というものは君たちが考えているようなものではない」と握りつぶした。つまり口が裂けても言えないが、内心日本が負けることはわかっていた。

市井の人である清沢はこの事実を知る由もないが、彼の批評眼は事実を鋭く突いていた。

「昭和19年9月12日(火) いろいろ計画することが、『戦争に勝つ』という前提の下に進めている。しかも、だれもそうした指導者階級は『勝たない』ことを知っているのである」

(『暗黒日記』)

2021年8月15日、終戦から76年を経て戦争は人々の記憶から、歴史の記録へと変わりつつある。だが350万人の悲劇をけっして記憶から消してはならない。この悲劇とともに、今もなお、おろかで動物の血を宿しているわれわれの危うさを肝に銘じておくべきだ。

2024年3月12日火曜日

ライル・メイズ:語られなかったこと

https://www.lylemays.com/something-left-unsaid

ライル・メイズの音楽的考察

ジョセフ・ベラ(2020年11月)

ライル・メイズと出会ったのは1992年、彼が『Premonition』というアルバムのためにポール・マッキャンドレスとツアーをしていたときだった。ショーの後、たまたまバーでライルが一人で座っているのを見かけたので、行って自己紹介した。彼はすぐに座って話をしようと誘ってくれた。彼は私が今まで会った中で最も親切で魅力的な人物の一人だった。私たちは音楽について楽しく幅広い会話をした。ジャズやパット・メセニー・グループのファンならなおさらだ。 

1994年、私がパット・メセニー・グループの最初の公式ウェブサイトを作ったとき、私たちは再び交わることになった。20年以上もの間、私はPMGと仕事をし、そしてパットのソロ・キャリアが拡大するにつれてパットとも仕事をした。ライルとの友情も深まった。2009年、私は幸運にも、パットとライルの代表作『As Falls Wichita, So Falls Wichita Falls』のポッドキャスト・シリーズをプロデュースする機会に恵まれた。ライルとのインタビューの後、彼と私の間に新たな豊かな対話が生まれ、別のポッドキャスト(Jazz Online Interview: Lyle Mays)、ハフィントン・ポストへの寄稿(Jazz, Math, Tech & Lyle Mays)、私がプロデュースしているニューヨーク大学ジャズ・ポッドキャストでのインタビュー特集を通して、彼の音楽的キャリアが記録された。この交流は、彼の早すぎる死まで続いた、継続的で活発な電子メール・チェーンにつながった。

私はPMGの内部の人間ではあったが、パットやグループとの在籍期間中のライルの個人的な見解については知らなかった。私は、パットとの初期の日々やレコーディング、PMGの進化、作曲、シンセサイザー、そしてジャズ界で最も記憶に残り、愛されたバンドのひとつである彼の30年にわたるキャリアから得たものについて、彼にインタビューを始めた。

以下に紹介するのは、ライルの個人的な回想と、パット・メセニー・グループでのキャリア、そして現代ジャズ史の重要な一部についての詳細な記述である。

ジョセフ・ヴェラ(JV):この2週間、何年も聴いていなかったこの作品をもう一度聴き始めたんだ。あの録音には本当にたくさんのディテールがある。聴くたびに新しい発見がある。パット・メセニー・グループのグランド・フィナーレのようなものだったのか?

ライル・メイズ(LM):パットと私が『The Way Up』の曲を書くために集まった頃、ラジオは『Are You Going With Meh』でさえ2分ほどでフェードアウトしてしまうほど衰退していた。私たちにとって、市場は死んでいた。レコード店は潰れ、ジャズ・ラジオ局でさえ、私たちの最短カットすら流すことを許されなかった。パットと私は「市場」を考慮に入れる理由がなかったので、オールドスクール方式にした。伝統的なジャズのオールドスクールではなく、クラシック・シンフォニーのようなオールドスクールだ。私がやったのはそれなんだけどね。パットには何も言われなかったど。 

私は、『ウェイ・アップ』は現代的な用語よりも古典的な用語の方が分析しやすいと思う。メディアとして問題になるのは、古典的な交響曲の和声や動機付けに精通している現代音楽評論家がどこにいるかということだ。こう考えると、問題はさらに大きくなる。20世紀後半のジャズを理解すると同時に、19世紀の交響曲の発展を理解する批評家が現れたとしよう。その言葉はどこで発表されるのか?また、その言葉の読者はどこにいるのか?その読者とは、ドイツにいる私と数少ないペンフレンドだったのかもしれない。私が『ザ・ウェイ・アップ』を世に送り出したのは、彼らがそれを求めていたからではなく、逆に彼らが正反対のものを求めているように思えたからcz。それが私を怒らせた。 

パットと私が『The Way Up』を書く前の月に、着メロの売り上げがシングルの売り上げを上回った。それは私にとって歴史的な出来事であり、人類全体のアテンション・スパンの衰退を示していた。悲しかった。私の答えは、私たちの作品の中で最も緻密で、最もクラシカルなコンセプトの作品をデザインすることだった。私はパットのために大規模なギター・パートを書いたが、彼はその機会に立ち上がり、『ウェイ・アップ』をサウンドやスタイルにおいて交響曲の範囲外に置きながら、ハーモニー、対位法、形式においては完全に交響曲の中にとどまるギター・オーケストラを作り上げた。

『ザ・ウェイ・アップ』は私にとって個人的な勝利だったが、そんなことは気にも留めない世界に放たれた。私は、私たちがそれを成し遂げ、それを成し遂げる馬を得たことをとてもうれしく思っている。スティーブ・ロドビーやアントニオ・サンチェスのような精通した選手がいなければ、決して成し遂げることはできなかったし、パットが歴史の正しい側に自然にいなければ、プロジェクト全体が軌道に乗ることさえなかっただろう。 

結局のところ、『ザ・ウェイ・アップ』はジャズ・シンフォニーであり、私が死んだ後もずっとそう思われ続けるだろう。

Q:『Watercolors』でのパットとの最初のレコーディング・セッションについて教えてください。

『Watercolors』が私にとって興味深いのは、その経験をほとんど覚えていないからだ。若かったこと(そして経験が浅かったこと)、時差ボケに慣れていなかったこと、マンフレッド・アイヒャーに威圧感を感じたことがその理由だ。私に会って最初に彼が言ったのは、キース・ジャレットをレコーディングしたばかりで、その経験がいかに素晴らしかったかということだった。まるで私がまだ十分に怖がっていなかったかのように。

当時はパットのことをよく知らなかった。それまではクラブでのギグも数えるほどしかやったことがなかった。とにかく、私はギグに感謝していたし、新しい状況にいる若い怖がりな人たちにありがちなことだけど、失敗しないように自分のことしか考えられなかった。だから、ほとんど何も覚えていない。ひとつだけ覚えているのは、長くてルバートな「海の歌」を録音した後、マンフレッドがピアノのマイクの位置を変えたいとか、技術的なことを言い出した。パットは、演奏は完璧だと断った。二人は口論になった。最終的にマンフレッドは、自分の技術的な基準とか何とか言って踵を返した。どういうわけか、私がピアノのパートを "単に "もう一度弾くというアイデアが決まった。私のレコードではないし、私の音楽でもないし、私が発言する場所でもなかったからだ。今となっては、長いルバートで即興のグループ曲で、私たち全員がお互いを見ていて、頭のうなずきやその他のボディランゲージの合図にその場で反応するような状況で、ピアノパートだけを置き換えるという考えは、率直に言って正気の沙汰ではないし、普通ならあり得ないことだ。パットは私に謝り、マンフレッドは私に対して完全に不公平で理不尽なことを言っていると思ったとか、そういう趣旨のことを言った。 

私は自分の中のチャック・イェーガーか何かを呼び起こして、やると言った。彼らが気づかなかったのは、その数年前、『Lab 75』の『What Wash』のレコーディングで、私はもっと難しいことをやってのけたことだ。私の即興フリーソロは規格外だったので、もう一度やり直さなければならないと決めていた。ビッグバンドのレコーディングでピアノのトラックの一部を消去しなければならず、私は新しいピアノ・ソロを即興で演奏し、長い時間の後、ビッグバンドをテンポよく戻さなければならなかった。当時のエンジニアたちは私のことをクレイジーだと思ったようで、私がそのようなスタントをやってのけたことに驚いていた。

私の若いキャリアで2度目、ほとんど不可能な状況でピアノ・パートを置き換えた。マンフレッドは喜び、パットはショックを受け、私はただほっとした。私がピアノ・パートをすべてオーバーダビングしたことを知って、もう一度『Sea Song』を聴いてみてください。大変だった。

パットの作曲、私の演奏、グループのダイナミズムなど、この出来事全体に対する私の判断は、まあまあのアコースティック・ジャズ・レコーディングで、私が本当に興味を持っていたものではなかった。ECMの奇妙な洗礼だった。

カーター大統領の時代は国全体にとって幸福な時代ではなく、楽観主義が不足していたことも忘れてはならない。当時、私が給料をもらえるだけでもラッキーだと感じていたように、パットもマンフレッドとレコード契約を結べるだけでもラッキーだと感じていた。当時、私たちはどちらも力強さや自信を感じていたわけではなかったし、そのような経済情勢下で大胆な行動が報われることを示す外的証拠はほとんどなかった。

パットがゲイリー・バートンを辞め、私をスカウトし、バンドを結成して独立するという決断をしたことは、驚くべきことだった。1970年代の終わりには、住宅ローンの金利が20%に近づいていた。ロナルド・レーガンとパット・メセニーを除いては、誰も将来に賭けていなかった。 

『Watercolors』は極めて重要な瞬間に生まれた。70年代のコンボはできるけど、それだけじゃ物足りない。私たち2人は、それ以上のものを求めていた。『Watercolors』のようなアルバムの野心のなさが、私たちそれぞれに違った意味で、小さく考えることへの拒絶につながったのだと思う『。Watercolors』は、私たちそれぞれが、おそらく理由は違えど、もう二度とあんなことはしないと誓ったという意味で、重要な一歩だったのかもしれない。そういうことだった。

Q:パットとの初期の頃について教えてほあいい。また、あなた方の芸術的パートナーシップに関する最大の誤解は何だろう?

1977年、私はニューヨークの無名の無収入アーティスト時代から抜け出し、R&Bシンガーのマレーナ・ショウと高収入のギグを持ち、マイクやランディ・ブレッカー、ウィル・リー、スティーヴ・ジョーダン等と時々ギグをしていた。やっとお金を稼げるようになった頃、パットがグループを結成してバンで全国をツアーすべきだと言ったんだ。私は彼にクレイジーだと言って断った。 

私たちはすでにケンブリッジのクラブで何度か一緒にライブをやったことがあったので、相性がいいことはお互いにわかっていた。パットは頑固な男だ。いや、それ以上に強烈だった。マレーナ・ショウのギタリストが辞めたとき、パットはワウワウペダルを買ってギグを引き受けた。それはとても魅力的だった。あんなに熱心に私に言い寄ってきた人はいなかった。彼は本気で、ゲイリー・バートンを離れてもいいと思っていて、私が彼の計画のカギを握っていると私に信じ込ませた。彼のビジョンに対する信念があまりにも強かったので、私はついに降参した。彼は、私がラボ1975のためにすべてのチャートを書いたことを知っていた。彼はクリエイティブな作曲をバンドの中心に据えたがっていて、それは私にとって猫じゃらしのようなものだった。

それから早数ヵ月後。私はダニー・ゴットリーブと馬車小屋を借りていて、新しいバンドはリビングルームで準備していた。パットは借金をしてダッジのバンを買い、グランドピアノを借りた。僕は借金してオバーハイムの4ボイスを買ったんだけど、これはパットのアイデアだったんだ。当時、シンセを使うにはシンセプログラマーになる必要があったからだ。パットと私は、最初の2、3週間で「サン・ロレンゾ」と「フェーズ・ダンス」を一緒に書いた。 

私たちのパートナーシップについて多くの人が抱く最大の誤解は、私たちそれぞれがどれだけ作曲したかということだ。ジョージ・マーティンのように聞こえるものはすべて私が書いた。フォアグラウンド・パートもたくさん書いた。私はしばしば、私たちが演奏していたものの形そのものをアレンジし、作曲した。長年にわたってPMG内のサウンドのクオリティを高く保つことは、私の個人的な責任だと考えていた。クオン・ヴーは興味深い話をしてくれた。彼は加入してすぐに、リハーサルが中断すると、パットを含むバンド全員が私の方を向いていることに気づいたんだ。クオンは、私が指揮者、マエストロとしても機能していることに気づいた。いつも最初に話すのは私だった。パットは無限の知恵でその権力を私に譲ったのだ。私はグループの中で最高のマエストロであり、いつも彼とグループを素晴らしいサウンドにしてきた。典型的なウィンウィンのシナリオだった。私はグループを素晴らしいサウンドにするために懸命に働いた。私は偉大な才能と共演するマエストロになりたかった。

Q:あなたたちがECMでレコーディングしていた頃、マンフレッド・アイヒャーとの仕事はどのようなものでしたか? 

マンフレッドと私は、まるで2頭の発情期のエルクのようにぶつかり合った。私たちは喧嘩した。彼はPMGを、ヴェルナー・ヘルツォークのように指揮ができるフリーフォームのジャズを演奏するさまざまなゲストアーティストを迎えたヨーロッパのアンサンブルにしたかった。私はPMGを、皮肉なことにまったく異なるゲルマンの伝統に根ざした、高度に構成された楽曲を特徴とするアメリカのアンサンブルにしたかった。私は、構造、組織、深い合理的思考、哲学的厳密さ、秩序のチャンピオンだ。一方、現代のドイツ人は、自由な形式表現のゆるやかなアイデアを主張する。私は、バッハ、トーマス・マン、クルト・ゲーデルを指し示す、部屋の中の年寄り、保守派だった。本当に異様だった。私の人生の中で、このような戦いに備えるものは何もなかったが、20代前半の子供だった私は勝った。パットはECMを去り、私たちはアメリカン・ガレージを皮切りにアメリカのバンドになった。その時点から、すべてを自分たちでやらなければならなかった。PMGにはプロデュースは必要なかった。私たちはアイデアにあふれていた。私たちには自由が必要だった。私たちはとても有能で、とても真面目で、とても勤勉だった。

Q:初期のECM時代、あなたとパットはまるで起業家のように自らのビジネスを創造し、進化させ、既存の境界線を押し広げながら、その過程で自分たち自身にも挑戦していた。パイオニアとして活動しているときは、いろいろなことが起こった。

ハハハ。まあ、僕らがECMを変えるか、僕らが去るしかなかった。ECMが僕らを変えるつもりはなかったから。2つの巨大なエゴが対抗した。パットも同じように強い決意を持っていた。パットには当時、たくさんのアイデアがあった。当時の私とパットとの関係は、あなたが何に興味があり、私がどう貢献できるかというようなものだった。私は相乗的に働く方法をたくさん見つけた。マンフレッド・アイヒャーは非常に独裁的だった。この2人は、その面だけで対立する運命にあった。私は組織、秩序、作曲、そして非常に伝統的な音楽的価値観を大切にしていた。マンフレッドとの対立も、プロジェクトが自由であればあるほど、そこに自分を介入させたいという彼の願望を考えれば、予想できたことだった。私は彼の価値観や侵食が大嫌いだった。

ECMは多くのジャズ・マンに良い影響を与えていた。私たちは子供だった。マンフレッドはパットに最初のレコード契約を与えた。ゲイリー・バートンやマンフレッド・アイヒャーに逆らうには大きな度胸が必要だ。年長者を敬うという道徳的な教育を受けてきた。当時、私は容赦なく噛みつくことを主張したが、おそらくその意味するところは何もわかっていなかった。というのも、何年も前に大学のジャズ学科を実質的に引き継ぎ、グラミー賞にノミネートされたアルバムをプロデュースしたのだから、<とにかくやってみよう>というのが必勝法だと思っていた。

パットには、私たちが互いの自信を高め合い、他人を傍観者に追いやりながら、より共通した大義を見出し、より快適な労働条件を見出したことに気づいてほしいと思う。私の記憶では、2人ともマンフレッドの指導や指示は必要ないと感じていた。私たちは一緒に新しいクールな場所へと向かっていた。

パットと私は、マンフレッドが理解することも言葉にすることもできなかった未来を見ていた。公正を期すために言えば、パットと私はどちらもできなかったかもしれないが、少なくとも私たちはラボで時間を費やしてそれを発明していた。マンフレッドは、そのようなラボの存在すら知らなかった。

Q:ある意味、あなたとパットは、スティーブ・ジョブズとスティーブ・ウォズニアックがガレージで最初のアップル・コンピュータを作ったのと似ている。彼らは非常に進歩的で素晴らしい才能の持ち主で、意欲と決断力、ビジョン、情熱、反抗的な態度、そしてめちゃくちゃ素晴らしいエネルギーを持っていた。あとは歴史が示している。

私たちがリリースした最初のアルバム、多くの人がそう呼ぶ『ホワイト・アルバム』の最初の音は、オルタネイト・チューニングのエレクトリック12弦で、その後に巨大なオートハープのコードが続いた。それに続く最初のメロディーは、フレットレス・ベースと左手のピアノの二重奏だった。数秒のうちに、私たちはある種の室内アンサンブルのように音楽をオーケストレーションすることを示した。フュージョンやナロー・タイ・レトロ・ジャズの絶頂期、私たちは他の誰にも似ていない。私たちは曲ではなく曲を演奏した。中西部の真摯さとクラシックの原則を含む、ある種の魔法のようなスイートスポットがあった。よくわからないが、私はそのワイルドな乗り物に乗っているようで、とてもわくわくしていた。 

パットと私は、マサチューセッツ州ケンブリッジの裏手にある馬車の家を借りて、その前室でグループを結成したんだ。パットはギターの新しいチューニングやデジタル・ディレイの新しいセッティングを発明し、私はオーバーハイム4ボイスでサウンドをプログラミングし、オートハープの新しい使い方を見つけた。ダイナミクス、オーケストレーション、フォーム、テンポ、ドラマ、プレゼンテーション...すべてにおいて、高いコンセプトのディスカッションがあった。ジャムセッションとは正反対だった。私たちはグループをデザインした。設計し、構築した。

最初のアルバムのレコーディングに行ったとき、すでにマンフレッドは必要なかった。そのレコードのすべての要素をすでにデザインしていたから。エンジニアのヤン・エリック・コングスハウグとはとても仲が良かった。マンフレッドはやることがなくて退屈だったと思う。その関係は何年も続いた。

素晴らしい話だが、私はその場にいたので、もちろん客観的に近いことは言えない。私たちはジャズ界のレノンとマッカートニーと呼ばれているが、ジョブズとウォズについてのあなたの見解の方がより鋭く、おそらくぴったりだ。レノンとマッカートニーにはジョージ・マーティンが必要だった。私たち自身がPMGのジョージ・マーティンだった。すべて社内でやった。スティーブ・ロドビーがすべてのロジスティクスや編集を担当し、私がすべてのオーケストレーションと作曲を担当し、パットがヴィジョンを担当した。あるときはパットがCEO兼スポークスパーソンとして機能し、またあるときはパットと私が離れて次の作品を作り、またあるときはスティーブ・ロドビー、パット、私の3人が取締役会として採用や解雇の決定、レコーディングの現場での決定を下すなど、PMGは非常に流動的な会社のように機能していた。複雑なことだが、ほとんどうまくいっていたし、30年間もうまくいっていた。 

私たちはクリエイティブなバンドとして、また成功した会社として機能した。1978年から2008年までは非常に激動の時代だったが、私たちはその間ずっと安定していた。

Q:クリエイティブなバンドとして、また成功した企業として機能することについて、もう少し詳しく教えてください。

スティーブ・ロドビー、パット、そして私の知性を合わせると、さらに深くなる。私たちはみな頭がよく、才能だけでは満足せず、常に本を読み、学び、強くなっていた。物事について議論するとき、会話は高まり、私たちは他の人たちが知っていることから学んだ。パットと私は、スティーブがスタジオをうまくこなしているのを見て、すぐにベストプラクティスの見本として彼のスタイルを採用した。スピーディーで摩擦がなかった。

スティーブと私は熱心に読書をした。私たちはそのことで意気投合した。私がリーダーシップについて読んだ本の中で興味深かったのは、一番頭のいい男がリーダーに選ばれることはめったにないということだ。一番頭のいい男はその役割に馴染めないだろうし、おそらく求められる他の資質も欠けている。部屋の中で最も賢い男にとって最も幸せな場所は、リーダーの右手にいることであり、そこでリーダーのビジョンを支える見事な議論をすることができる。これはシナジー101であり、私はそれを完璧に実践した。スティーブと私は、パットが生まれながらのリーダーであることを認識していたが、2人ともそれに挑戦しようという気はさらさらなかった。それどころか、私たちは彼のビジョンを実現する最善の方法について話し合った。私たちは皆、意欲と野心を持っていたが、バンドをバラバラにするような、ありがちな内紛はほとんどなかった。 

私たちは実際に、企業全体の最大限の成功のために、それぞれの才能をどのように活かすのがベストなのかを話し合った。それは驚くべきことだった。私たちは才能に溢れていたが、同時に本当に賢く、何よりも一貫して効果的だった。PMGは驚くほど内省的で、オープンで、柔軟で、適応力があり、機敏で、明瞭で、双方向的で、相乗効果があった。

全盛期のベル研究所の巨大頭脳を管理すべきは誰か?最も偉大な理論物理学者?偉大な応用科学者?  いや、マーヴィン・ケリーという男が必要だった。彼はたまたま非常に優秀だったが、実際にはその仕事をするのではなく、その仕事を管理することに満足していた。これは重要な違いだ。パットは、スティーブが素晴らしいマネージャーであり、それを喜んでやり、それが得意であることを知っていた。彼と私がしばらくの間研究科学者になりたかったり、私がアプリケーションを探している間スティーブが研究したかったり、あるいはその逆であることに気づいた時、パットは嬉々としてスティーブに物事を管理する権限を与えた。スティーブは素晴らしいマネージャーであり、それを喜んでやり、優秀であることを理解していた。これはいくら強調しても足りない。私たちは自分たちがやっていることを自覚し、自分たちの役割について話し合い、PMGは音楽的な探求の練習と同じくらい応用的な思考の練習だった。ベル研究所やトーマス・エジソンにインスパイアされたバンドがどれだけあるだろうか? 

物語は、あなたが思っている以上に深い。大きく考えることをお勧めする。私たちは確かにそうした。私たちはメンローパークとマレーヒルから学び、ジョブズやウォズがコンピューティングの探求に同じ伝統を持ち込んだように、ジャズの探求にその伝統を持ち込んだ。あなたの例えは、見れば見るほど深くなる。

Q:あなた方がいかに真剣に音楽と自分たちの限界に挑戦してきたか、語ってくれたことが興味深かった。。あなたたちは伝統的なジャズ・パーソナリティではなく、より思想家であり、革新的なプレイヤーであり、作曲家であり、即興演奏家だ。ジャズ・ミュージシャンと呼べるのであれば、ある意味、モダンで進化した新しいタイプのジャズ・ミュージシャンだ。さっきあなたが言ったように、PMGは単にジャズ・バンドと呼ぶ狭い定義よりも大きな存在だった。書いた曲、自分たちの音楽言語をどのように創り上げていたかという点で、時代を先取りしていた。

急成長と急激な変化。当時、ECMのディストリビューションを担当していたワーナー・ブラザーズは、私たちにライブEPのレコーディングを急がせた。あまりうまくはいかなかったけど、いい勉強になった。そのおかげで、あるいは、いずれにせよその方向に向かっていたのかもしれないが、私たちは物事を引き締めることができた。当時の多くのジャズ・バンドは、即興演奏そのものがいいことだと勘違いしていたと思う。即興で始まり、即興で終わり、即興でセットリストを作り、即興でステージを盛り上げ、即興で演出する。パットと私は、演出やプレゼンテーションの詳細について何度も話し合った。あなたの言う通り、私たちはほとんど最初からジャズ・バンド以上の存在になっていた。私たちは二人とも熱心で有能なインプロヴァイザーであり、入念な計画と準備を最優先した。ジャズはスタイルであり、インプロヴィゼーションはテクニックであって、両者がリンクしていなければならないという宇宙の法則は存在しない。私たちは、「マイ・ガール」や「ルイ・ルイ」などで自然発生的な即興演奏をする一方で、古典的なレベルの暗譜とアンサンブルを必要とする高度に構成された曲も演奏していた。まるで、自分たちのスタイルを定義できないものにしようとしているかのようだった。私たちはふたりとも、スタイルとは音楽について考える最も浅はかな方法だと考えていた。私たちは音楽哲学者であり思想家であり、ロッカーのように見えて、無知なタワーレコードの店員が私たちの商品をどこに置けばいいかわかるようにジャズバンドのふりをしていた。自分たちをジャズ・バンドだと思ったことはない。権力者たちが私たちをどう評価していいかわからなかったから、そのように売り込んだだけだ。

ジャズ・グラミー賞を受賞し、ロック・インストゥルメンタル・グラミー賞を受賞し、ポップ・インストゥルメンタル・グラミー賞に同じアルバムでノミネートされた史上唯一のグループだ。音楽について語るのに、スタイルは最も浅はかな方法だ。私たちは素晴らしい音楽を作った。世界はそれを理解しようと奮闘したが、彼らの道具が鈍すぎ、楽器が鈍すぎ、感性が粗すぎたために失敗した。私たちは新しい時代の製品を開発する企業としても機能していた。 

世の中には、PMGを表現する比喩が欠けていた。20代の若者たちは、年金制度や出版権・演奏権の所有権によって経済的に成功することはもちろん、知的でエンターテイナーであることも期待されていなかった。私たちが多くの分野で成功したのは、それぞれの分野で考えていたからだ。私たちは型にはまらなかった。

PMGは、グラミー賞やゴールド・レコードを生み出し、コンサートを完売させ、今日まで話題を提供する会社となった。私たちはバンド以上の存在だった。しばらくの間、私たちはマテリアルだった。

Q:初めてシンセサイザーに触れたのは?  シンセサイザーを音楽で使う際のコンセプトやアプローチについて教えてほしい。

私は科学や技術関係の出版物を熱心に読んでいて、初めてシンセを買う前から音楽合成の原理を理解していた。1976年にマイクロムーグを買う前に、私はすでにローズ、クラビネット、いくつかのEFXボックスを持っていた。私がシンセを探求したのは、それがサウンド・テクノロジーの探求の自然な延長だと考えたからだ。私は高校1年生のときから、マルチトラックでサウンド・レコーディングをしていた。私はテクノロジーの新しいステップの一つひとつを、習得しなければならないものと考えていた。私は自分の時代に生きていて、警戒していたし、それぞれの新しい機会を最大限に活用したかった。私はシンセのプログラミングを、コンピュータのプログラミングを独学で学んだように、本を読んだり、主に実験したりしながら独学で学んだ。当時はほとんどそうするしかなかった。初期には市販のソフトウェア・ライブラリはなかった。当時、シンセを所有していれば、好むと好まざるとにかかわらず、プログラマーにならざるを得なかった。私の科学的頭脳はそれが大好きで、かなり得意だった。 

当初から私は、シンセがサウンドのパレットを広げ、フレンチホルンやクラリネット、弦楽器セクションなど、若い苦労人のバンドには買えないようなエキゾチックな楽器のように機能することを思い描いていた。私はシンセを、個人的な演奏の願望を表現する方法としてではなく、オーケストラのヴィジョンを表現する方法として捉えていた。その点で、シンセを個人的な表現の道具として使おうとして、ほとんど失敗した同僚たちとは違っていたと思う。私は、シンセはそのような使い方をするには原始的すぎると思っていたし、シンセでソロを弾くことにも興味がなかった。シンセをアンサンブルにどのように取り入れるかということに重点を置いていたので、シンセを使って自分をアピールするのではなく、クラシックの原理を使って音楽をより豊かで深いものにすることで、センスのいいシンセ奏者としての自分のニッチを切り開いたと思う。自分のシンセの音がアンサンブルの中に消えていくようにしたかった。成功するかどうかは溶け込むかどうかにかかっていて、目立つとクビになるような、第3楽章のセカンド・ヴァイオリン奏者のようにね。

私は、クラシックの指揮者が子供たちのアンサンブルを十分に響かせようとするようにシンセに臨み、大人たちの邪魔にならないように、それぞれのパートを十分に演奏することだけを求めた。これは重要なポイントで、PMGのアレンジはどんな厚みがあっても、ソリストであるパットと私の個性が常に発揮され、バック・パートは常に背景だった。これは偶然ではない。これはすべて高度に哲学的で、徹底的に計画され、慎重に実行された。クラシックの原則に基づいてデザインされ、考え抜かれたものだった。

Q:初期のレコーディングをより外科的に見直して顕著なのは、あなたがまだ若かったにもかかわらず、あなたのサウンドと演奏がかなり発展していた。『Watercolors』に収められているあなたのソロのいくつかを聴き、『White Album』を聴いて、そのことに気づきました。『San Lorenzoh』だけでも、あなたのサウンドが表現されている。PMGのデビュー・アルバムの1曲目に、あなたのソロがフィーチャーされているのも興味深い。

初期の作品が成熟しているというのはお世辞かもしれないが、私の経験は正反対だった。パットは1978年までにはすでに(デジタル・ディレイを使って)彼独自のサウンドを開発し、いくつかの特徴的なリリックを演奏していた。私の美学によって、音楽に合いそうな音(アコースティック、エレクトリック・ピアノ、オルガン、シンセなど)は何でも採用した。同様に、書いた音であれ即興の音であれ、演奏している特定の音楽に最も適していると思われるものを選んだ。当時は、自分には個性的なサウンドもスタイルもないと思っていた。

今、私はずいぶん違った見方をしている。当時は、すべての曲を同じ音で演奏したり、すべてのソロを "自分のリックで満たしたりしていないから、自分には際立った個性がないと考えていた。私の未熟な脳が、個性的なスタイルというものをそう考えていた。

私は、ひとつの特徴的なサウンドを探すことをあきらめ、(簡単に識別でき、コピーできる)特徴的なリックのコレクションを探すこともあきらめて、ツアーのオフステージやステージの上で、リアルタイムで作曲を続けた。

そのスタイルは、深さ、広さ、知性、そして簡単に特定されたりコピーされたりすることのないものすべてに基づいていた。今、人々は、私には特徴的なシンセの音、特徴的なピアノの音、そしてユニークなアプローチの両方があると言う。皮肉なものだ!私は、スタイルを追求することを否定し、その代わりに深く掘り下げることによって、自分の「スタイル」を見つけた。人々が聴いて反応するのは深みであり、それには時間がかかる。

当時、私の最初のレコードは酷評され、2枚目のレコードも酷評された。今、人々はこの2枚についてまったく違った形で語っている。時間の恩恵を受けた歴史家たちによって、私はまったく違った形で記憶されることになる。

パットはホワイト・アルバムのオープニングを「サン・ロレンソ」ではなく「フェイズ・ダンス」にする予定だった。マンフレッド・アイヒャーは、「サン・ロレンソ」の方がダイナミック・レンジが広かったので、LPでは最初に演奏しなければならないと主張した。世界は偶然にも私のソロを最初に聴くことになった。 

Q:クリエイティブな面では、あのような大きな特徴的な曲をいきなり書くというのは、さぞ興奮した。いろいろな意味で、これらの曲はあなたの成功の基盤であり、パットとのパートナーシップであり、独自の音楽言語でした。それが歴史に残る。

『サン・ロレンゾ』と『フェーズ・ダンス』は、とても幸先のいいスタートだった。あの2曲はそれ以上のものだった。ドラマがあり、テンポがあり、形の使い方が面白く、メロディ、ハーモニー、リズム以外の部分に創造的な思考が注がれた曲だ。例えば、私は『Phase Dance』のイントロを書いたが、これはオーケストレーションと作曲のドラマのちょっとしたレッスンだ。

ほとんどの人は細かいディテールにまで注意を払わない。パットはしばしば私の天才ぶりを称賛したが、まさにそのディテールこそがマジックを生み出した。普通の人は自分の好きな映画の脚本家や撮影監督の名前も知らないだろう。監督も知らないかもしれない。ほとんどの人はスターを見ることができない。

私がパットに全力を捧げたのは、それが私に栄光をもたらすからではなく、芸術のためであり、正しいことだったからだ。PMGは非常にプロフェッショナルで洗練されたプレゼンテーションだったが、骨にたくさんの肉がついていた。それを読み解くには、音楽用語と音楽の歴史を理解する必要がある。

Q:『Offramp』は、パットがシンクラヴィアとローランド・ギターのシンセサイザーを演奏するようになったという意味で興味深いアルバムだが、あなたのシンセサイザー演奏は、音楽の中でかなり目立っている。グループ全体のサウンドも進化している。この時点(1981/82年)で、あなたたちは明らかに新しいゾーンに入った。スティーヴ・ロドビーをベースに加えたことで、グループに何が起こっていたのか? あなたとパットが意図的にグループのサウンドを進化させたのか、それともウィチタ以降に自然に進化したのか、そしてそのレコーディングで学んだことは何だったのか?

『Offramp』が私たちのサウンドに大きな広がりをもたらしたのは、テクノロジーは変わったけれど、原則は残っていたからだと思う。私たちは、クラシックの伝統に根ざした作曲をしながらも、(オーケストラの伝統に根ざした)新しいアンサンブル・サウンドを作り出し、ジャズをこれまでにない場所へと導いた。これはスティーブ・ロドビーの加入によってさらに知的になり、注意深く考え、知的な議論を重ねながら行われた。

「アー・ユー・ゴーイング・ウィズ・ミー」は、ラヴェルの「ボレロ」なしには存在し得なかった。ドビュッシーがなければ「オー・レイト」は存在し得なかった。私たちはモダンジャズファンに、企業欲の時代にフランス印象派について考えてもらおうとした。私たちはそれを説教することなく成し遂げた。私たちは、ほしくなるようなほどクールな製品を作ることで、それを実現した。資本主義の道具を使って、教育し、啓蒙した。私たちのファンは楽しませてもらっていると思っていたが、それ以上のものを得た。今でもマッドウィザードのような笑いがこみ上げてくるよ。あれはすごいトリックだった。 

『ウィチタ』のレコーディングから『オフランプ』のレコーディングまでの期間をスキップすることはできない。公式に記録された変貌の例はないが、私たちはクラブで演奏することより、コンサートホールで演奏するバンドになった。その過程で、私たちはより映画的でオーケストラ的になった。音響や照明のスタッフも雇った。これらは大きな変化だった。私たちはまだジャズバンドと呼ばれていたが、トラックやバスを使ってロックバンドのように振る舞い、ライブをやる代わりにショーを開催した。ステージには4人から5人になったが、変化はそれよりもはるかに深かった。私たちは大きくスケールアップした。クルーが大きくなり、ビジョンが大きくなり、考え方が大きくなった。ウィチタとオフランプの間が、現代のPMGが生まれた時期だ。 

ステージ上のアーティストが2人から4人になったことで、組み合わせ数学が示唆するように可能性が爆発的に広がった。スティーブ・ロドビーとナナ・ヴァスコンセロスがバンドに加わったことで、私たちの可能性が広がり、パットと私はついていくのがやっとだった。私たちは作曲を続け、5人目のメンバー、歌い、パーカッションを演奏できる人が、初期のPMGに欠けていたミッシング・リンクだとわかった。それに加えて、テクノロジーへの相互の探究心が、成熟したPMG、つまりFirst Circleで生まれたバージョンを作り上げた。

Q:シーケンスに関して、作曲とライブ・パフォーマンスという点で、あなた方にとってどのような効果がありましたか?  ライブ・パフォーマンスでシーケンスを使用する際の本当の難しさとは何か?また、ライブやレコーディングでシーケンスを使いすぎたことはありますか? 

ウィチタからシンクラヴィア時代への移行について考えてみると、最も重要な新要素はデジタル・シンセシスではなく、シーケンサーだった。私たちが初めてシーケンサーに取り組んだのは、『ウィチタ』で使われた原始的なドラムマシンでした。「Are You Going with Me」はレコーディング前にライヴで演奏され、バンドが最初から最後までシーケンスに合わせて演奏したのはこれが初めてだった。パットや私、ダニー・ゴットリーブにとっては真新しいことだったので、ライブでどうやるかを学ばなければならなかった。スティーブ・ロドビーにとっては、スタジオで何度もオーバーダブをやっていたので、古くからあるやり方だった。スティーブにとっては簡単なことだったが、他のメンバーにとってはそうではなかった。私たちは、録音済みのトラックを使って演奏する方法と、ライブ・パフォーマンスに合うようにシーケンス・トラックを作曲して録音する方法の両方を学ばなければならなかった。 

プリシーケンスされた素材を使うべきかどうかという大きな疑問は、すぐに取り払われたと思う。パットも私も、できるんだからやるんだ、本当の問題はそれをどれだけ芸術的にできるかということだと感じていた。他のバンドはこのトピックについて政治的な立場をとり、シーケンサーは邪悪だとか説教をした。パットと私はシーケンサーというアイデアを受け入れ、シーケンサーをいかに芸術的に使うことができるかというような、正しい質問をしたんだ。テクノロジーは常に物事を変化させる。その変化と戦うことは失敗する運命にある。その変化に影響を与えようとすることは、当時も、そして今も、より賢明な道であり、常に賢明な選択であると私には思える。これは最近ではあまり議論されない話題だが、当時は非常に重要なことだった。ジャズ界の大半は、私が神学的推論と呼ぶものを用いてシーケンサーに反対していた。パット、スティーブ、そして私は無神論者で、誰も何も崇拝していなかったし、どんなテクノロジーを探求することにも何のためらいも感じていなかった。 

私が言いたいのは、PMGはジャズの神学的な制約に縛られることなく(真のジャズというものは存在しないし、存在し得ないと考えていた)、賢く、素早く、テクノロジーが出現するとすぐに把握し、すべての疑問を "これでどうやってアートを作るのか?"という大きな問いに折り返したということだ。それは常にアーティストの問いであるべきだと思う。これはとても興味深いテーマだ!

Q:あなた方が全盛期だった頃、ジャズ愛好家たちから、あなた方がシーケンスすればするほど、音楽がソウルフルでなくなったり、不毛になったりするという不平を聞いたことを覚えています。あなたはその批判を信じますか?あるいは、そう感じている人たちに何と言いますか?

最初に断っておくが、PMGは初日から、原理主義的なジャズ批評家や "唯一無二の音楽 "を信奉する人たちのことなど気にも留めていなかった。宗教や政治における原理主義は危険で邪悪なものだ。芸術の分野では、利害関係は低いかもしれないが、誤った考え方は同じだ。芸術の全歴史は、(専門家による実行と結びついた)革新が常に勝利することを指し示している。それは常に攻撃され、たいていはそれを最も理解せず、最も失うものが多い人々によって攻撃される。

PMGが革新的だったのは、シーケンサーを基本的なベースやドラムの機能の代わりに使うのではなく(当時も今日も、ほとんどのエレクトロニック・ミュージックがそうであるように)、ジャズ・アルバムのオーバーダブのように、人間が重要なパートをすべて演奏し、シーケンサーが甘さだけを加えるという、ライブ・インターフェイスの方法を見つけ出すことだった。チャーリー・パーカーがストリングス入りのアルバムを出したとき、誰も文句を言わなかった。私たちは、ストリングスやその他のオーバーダブを生演奏で追加する方法を考え出しただけで、肝心な部分は生演奏者に任せて、シーケンスで演奏するオーケストラやその他のエフェクトのために他のパートを追加したのだ。

これは簡単なことではなかったが、私が言いたいのは、オーケストラ、ビッグバンド、サンバ・スクール、あるいは私たちが夢見るあらゆるものの伴奏で演奏する、生のバーニング・カルテットの本質を私たちは保っていたということだ。私たちを攻撃した人たちは、実はエレクトロニック・ミュージックの貧しい実践者たちを攻撃していたのであり、生のリズムセクションを合成リズムに置き換えた人たちを攻撃していたのだ。私たちはそんなことはしていない。私たちは、主要なものはすべて生演奏で演奏した。この点については、攻撃者たちは決して気づかなかったようだが、私たちのサウンドをより大きく、より広く、よりきらびやかに、より珍しく、よりモダンに、そして最終的には(私の意見では)より面白くするためにテクノロジーを使ったのだ。要するに、私たちはテクノロジーを使って、路上ライブでオーバーダブを演奏させる方法を考え出したのだ。これは単純な文章だが、ビジョンと実行は別の問題だ。私たちは、ライブの即興バンドのパフォーマンスと、スタジオのあらゆるマジックを、他の誰も思いつかなかった方法で統合することに成功した。私たちは何か新しいことを、違うことを、スタイルと創造性と専門性をもってやっていた。私たちは、ほとんどの人が自分たちがルールだと思っていることにさえ気づかないようなルールを、自分たちが破るまで破っていた。 

最初、私たち(バンド)はシーケンスをどう考えたらいいのかよくわからなかった。キーボード・リグの延長なのか?そのため、シーケンスの開始と停止を担当する別のテクニシャンが割り当てられた。その結果、シーケンサーのテクニックを担当するミュージシャンが必要だということがわかった。それは進化であり、新しい仕事内容、新しいリハーサル方法、シーケンス自体のさらなる改良につながった。すべてが他のすべてに影響を与えた。最終的に、ライブ・パフォーマンスはレコーディング・バージョンに非常に近かったが、それぞれに到達する方法はまったく異なっていた。これはPMGにとって非常に重要な時期であり、音楽技術の発展においても重要な時期だったと思う。

以前から取り上げたいと思っていたことだが、シンクラヴィアのシーケンサー(およびその他のもの)が、パットと私の作曲プロセスを徐々に変えていった。当時は、素材だけでなく、バンド・サウンドやコンセプトを開発していたので、それは理にかなっていた。私たちは、成長し変化していくアンサンブルのために、どのように作曲すればいいのかわからなかった。ナナの時期が安定し、スティーヴの能力が統合されると、パットと私は自分たちが持っているものを理解しているという自信を深め、当初から作曲をより詳細にデザインするようになった。ファースト・サークルに来る頃には、最初からあらゆるものをデザインできるようになっていた。各プレイヤーができること、テクノロジーができること、そしてその結果がどのようなサウンドになるかを熟知していたので、ビッグバンドのチャートを書いているような気分だった。ファースト・サークル』は、リハーサルでも、最初のライブでも、その後何年経っても完璧に聴こえた。修正する必要はなかった。生まれながらにして、このサウンドだったのだ。

これはいろいろな意味で驚くべきことだ。これまでは、路上でしばらく演奏し、実験し、スタジオでレコーディングし、オーバーダビングして、それをライブでどうやるかを考えていた。シンクラヴィアのおかげで)初めて、ライブで演奏する前に、リハーサル・スタジオでオーバーダブも含めてアルバムの完成形を聴くことができた。これはとてもエキサイティングで、さらなる野心と複雑さにつながったと思う。

Q:レコーディングの前にアイデアやテーマについて話し合ったのですか?  例えば、『Still Life(Talking)』については、ブラジリアン・テイストを考えています。

プロジェクトの前にはいつも会話があったけれど、パットと私が一緒に座って書いてみて初めて方向性がはっきりしたんだ。Still Life』(Talking)の前に、"もっとあからさまなブラジリアン・サウンドを追求したいかい?"というようなやりとりがあったかもしれない。「そうだね。

パットも私もブラジルとブラジル音楽が大好きだったから、そういうプロジェクトは必然だった。『Offramp』と『First Circle』の成功を受けて、パットはマリンバとバイブのセットを買うために資金を投じ、マサチューセッツ州ウォルサムにあるエアロスミスの古いリハーサル倉庫を借りた。それでしばらくの間、私たちはまるで研究科学者のように、材料の特性を探求するために毎日出勤していた。パットは『ミヌアーノ』の口笛の部分をすでに書いていたが、それは6/8の16小節で、アルバムにするつもりだった。私はそれが気に入っていたが、それだけでは不十分だったので、自分の部屋に引きこもって、ペドロの後任として雇った2人の新しいボーカリストのためのフィーチャリングとして想像しながら、スルメのようなイントロを書いた。パットが気に入ってくれたので、続けてパットが買ったばかりのマリンバのために何か書いた。そのパッセージは、新しい楽器をフィーチャーするために書いたんだ。パットはその楽器で何をしたいのか、明確なアイデアを持っていなかった。私は単純にその楽器のために作曲を始めた。パットもそれを気に入ってくれて、それに続くエネルギッシュな間奏曲を提案してくれた。そこで私は、金管セクションの対位法を作曲して再録音に戻し、エンディングを書いた。こうして16小節のメセニーが9分のPMGになったんだ。

だから、あなたの質問に直接答えるなら、事前の話し合いはほとんど意味がなかった。私たちが仕事を始めると、事前に議論していたことよりも、新たな結果が今後の仕事を形作ることになった。理論的というより科学的だった。 

PMGで私たちの多くが興奮したのは、音楽の限界を押し広げることだった。あなたたちは、当時の他のジャズ・グループとは違って、私たちに耳を開くことを要求した。あなたはどう思いますか?

PMGは、ジャズの領域外から多くの要素をミックスに取り入れたので、私たちの時代にジャズと考えられていたものの境界を常に押し広げていた。多くのルバート・パッセージはクラシックの伝統から来ている。私たちの多くのグルーヴは、ブラジルのサンバからテネシーのロカビリーまで、民族的な伝統から生まれたものだ。全体的に、パットはテーマを発展させたり、変化させたり、組み合わせたりすることで、あらゆるものにヨーロッパ的な感覚を持たせてくれた。要するに、PMGには巨大なデータベースと超高速のプロセッサーがあり、今までのものに合わせるのではなく、新しいものを作りたいという願望があった。私たちに課せられた使命は、新しく、かつ奥深いものであることでした。

外見的には、私たちのコンサートがハプニングとして評判になったことで、まったく新しい観客を呼び込むことができた。ジャズとロックだけでなく、エレクトリックとアコースティック、音楽とテクノロジー、クラシックの形式と現代的な即興、スペクタクルと実質を融合させた、新しいタイプのフュージョンだった。私たちが当時のハミルトンだったのは、過去と現在を融合させ、それをピンク・フロイド流の言葉で再構築し、そのどれもがとても上手だったからだ。大衆は常に、卓越し、総合することのできる賢い人々に反応すると思う。

最後に、PMGを作り上げた重要な点は、パットと私が2人ともスポットライトを浴びることのできる質の高いソリストでありながら、2人ともライターだったということだと思う。その証拠に、私は『Imaginary Day』を提供している。あのアルバムは、私が思いつくどのアルバムよりも多くの領域をカバーしている。

Q:一言で言えば、なぜPMGはあれほど成功したと思いますか?

成功者は、自分の成功は自分自身の決断、行動、洞察力によるものだと思い込む傾向がある。本当の姿はもっと複雑で、分析が難しいと思う。PMGの場合、ラジオ局の独立系プログラマー(および独立系ラジオ局)、ある程度知識のあるスタッフがいる実店舗のレコード店、全国にある数多くの小さなジャズクラブ、娯楽の選択肢の中でより大きな割合を占める音楽産業(ケーブルテレビ、インターネット、ストリーミング、スマートフォンが登場する以前)、巨大企業の影響力がほとんどなく、その結果、選択肢がどんどん少なく圧縮されていった時代に、私たちが登場できたのは非常に幸運だったと感じている。PMGの成功を完全に説明することはおそらく不可能だが、私たちが完全にコントロールできなかったそれらの要因は認めなければならない。そうしたことを無視するのは思い上がりだ。 

2024年2月12日月曜日

深夜特急 沢木耕太郎

「えっ!読んだことないの?」と内儀。「深夜特急」といえば沢木耕太郎というのはもちろん知っていたし、どっかでちょっとづつ読んだ記憶がある。「手元に置いて、ちょっとづつ読みたい」と内儀が言う。いいんじゃないか、と考えて、セットで買った。

読みはじめていきなり辛くなった。インド人のバジャイ運転手を信用するくだりである。そんなんあかんに決まってるやん。ドツボ決定。トランプ賭博でカス札ばっかりつかまされるやつ。愛すべきやつだけど、近くにいるとこっちまで巻き込まれる。

第1巻のおしまいで、山口文憲さんと沢木耕太郎が対談している。それでわかった。おふたりとも1948年生まれ。我輩よりきっちり10年歳上の、団塊の世代である。

我輩に近すぎる。物故した小田嶋隆が言ったように、団塊の世代のあとは焼け野原で、何も残っていない。個性が濃く、主張が強く、声が大きい人たちが、音楽であれ小説であれビジネスであれ、あらゆるところに指紋をべたべたつけている。世界のどこに行っても、必ず団塊の世代がいて、語りに語る。彼ら彼女らの語りを聞くのは、我輩の世代である。

1983年に仕事でバグダッドに行った。当時イラクはイランと戦争をしていて、灯火管制された真っ暗なバグダッド空港に降り立った。真夜中である。成田からイラキ航空の中古ジャンボジェットに乗り、バンコク、ムンバイ、クエート経由で10何時間もかけてやってきた地の果て。そこで7ヶ月過ごした。

そこにも濃い先輩がいた。ある海運会社の人で、酒を飲んだとき彼が語った。エジプトのどこかの場末の売春宿の話である。「モスレムの女は首から下をぜんぶ脱毛するんだ。」「超デブのでっかい女が、暗い場所で、幼女みたいな股をひらいてカモン!ミスターって誘うんだ。」「それでどうなさったんすか?」「もちろん逃げて帰った。」

もちろん逃げて帰るような先輩ではない、と思いつつ、世界に秘境はないと思った。世界の果ての秘境に行っても、団塊の世代が道端で焼きそばを食べていたり、パブで尾根胃酸と踊っていたりするんだ。開拓すべき世界、発見すべき未知のものごと。団塊の世代のあとにそんなもんは残されていない。

開高健みたいに30年くらい離れていたら、ぜんぜん違う世界のこととして読める。20年くらい離れててもいいんだが、そのへんに生まれた人たちはめっちゃ内向してるようで、あんまり知らない。団塊の世代は我輩にとって近すぎる。読んでいて辛くなる。

内儀と沢木耕太郎は18年くらい離れているから、平気で読めるんだな。

2024年1月8日月曜日

うまくてダメな写真とヘタだけどいい写真 幡野広志 ポプラ社

ヨシタケシンスケのイラストに惹かれて手に取った。ちょっと読んだら内容がとてもいいので買った。松本のイーオンの未来屋書店。新刊本を買うなんてじつに久しぶり。富士見の書店が撤退して以来なかったことだ。その未来屋書店もセルフレジ。

25年前、1999年に死んだオヤジが写真好きだった。芦屋フォトクラブに属していて、ヘタでダメな写真ばっかり残した。子供(つまり我輩と兄貴)の写真以外はぜんぜんダメだった。

兄貴はグラフィックアートの才能があって、西宮市展で一等賞を取ったりした。賞を狙ったわけでもないのに。きっと、カメラとか機材が身近にあったからだろう我。輩はグラフィックの才能はあんまりない。カメラとか機材が身近にあったのに。

ちかごろ我輩は、キャノンのivis mini Xという機材を持ち歩いて、踏切とか川とか橋とか隧道とか暗渠の写真を撮っている。とても楽しい。フェースブックの「トンネル 橋 ダムのある風景」というグループに投稿していたりする。評価はあってもなくても、農道を歩いたり水路を遡ったりするのが楽しいから、いい。

ivis mini Xはほんらい、音楽をやる人たちが狭いスタジオで記録できるように作られた。画角はほぼ魚眼の超広角と普通っぽい広角の2種類しかない。動画も撮影できる。音はすごくいいらしい。RAWモードはない。

その機材で、楽しくうろついて楽しく撮影している。そんな我輩を元気づけてくれる本。そして何よりも、力の抜けた感じの文体で語られる内容がとてもいい。