2024年8月18日日曜日

ユーラシア大陸思索行 色川大吉

旅行記が好きだ。新刊本屋でも古本屋でも、かならず旅行記の棚を眺めている。我輩の世代に膾炙したのは、なんといっても開高健。

標記は1971年7月から11月まで、色川大吉さんが若手といっしょにフォルクスワーゲンのバスでポルトガルのリスボンからインドのコルカタまで陸上の旅をした記録。東京経済大学の教授という肩書きと、三笠宮崇仁親王と友達であるという以外に箔もスポンサーも紹介状もない旅だったという。

そのへんが開高健と違う。開高健がベトナムに行ったのは朝日新聞の記者として、アメリカ軍の従軍記者としてだった。「オーパ!」は集英社の月刊プレイボーイ、「もっと広く」「もっと遠く」は朝日新聞。開高健は旅先のあちこちで在外公館にやさしく応対されるが、色川大吉さんはあちこちで冷たくあしらわれる。在イラン日本公館の弁務官が色川さん一行に「普通に」応対したのは、三笠宮崇仁親王の紹介状があったからだった。

ゆえに記述は客観的になる。現地の商社マンがイランについて「この国を支配しているのは国王と1000家族で、あとの2500万人はドンキーだと、彼ら自身が認めていますよ。」という発言をそのまんま新聞に寄稿して大きな問題になる。開高健の旅行記も面白いが、色川さんの本はさらにスリリングだ。

色川大吉さんは我輩の死んだオヤジと同じ1925年生まれ。開高健は1930年生まれで、我輩の母親とほぼ同世代。親の世代となると、ものの見方や価値観がかなり違う。色川さんの記述にも違和感をおぼえるところがある。

ひとつはアフガンにおけるモンゴル軍の残虐さについて。杉山正明さんの労作で、欧州人がいうほどモンゴルは残虐ではなかったことが明らかにされた。欧州人がいうほど残虐ではなかったけれど、抵抗する人たちには徹底的に残虐だった。アフガンの人たちはたぶん抵抗したので、モンゴル人も徹底的に殺し、破壊したのだろう。アフガン人が抵抗したから残虐に対応したのか、色川さんが当時定説だった欧州人の見方しかしなかったのか。そのへんがわからない。

もうひとつは、祖国日本に対する肯定感の違い。
「ここ(アフガニスタン)にいて、日本をはるかに考えてみると、私には日本がとても嫌悪すべき国のように見えてくる。びっしりと生い茂った湿性の植物群と流行歌の節まわしがまず浮かんでくる。日本人の大半が溺愛しているあの甘いメロディとお涙頂戴の精神風土のことが浮かんでくる。あの小さな島国、奇妙な天皇島での人間と人間との甘え、人間と自然とのなれなれしい内縁関係」云々。

我輩が1985年に7ヶ月を過ごしたバグダッド。ぱりぱりに乾燥した空気の中、ドミトリーのベッドに寝っころがって想うのは、水木しげるが右手だけで丹念に描いた背景の、しっとりした樹木のこと。そんな湿潤の風土だから、麹という黴を利用して、旨い味噌醤油日本酒を産みだした。演歌のなかでも「与作」のようにパキスタン人まで受ける要素をもった歌や、「北国の春」のように東アジア全般で支持される歌がある。それほど忌み嫌うことはないんじゃないか。

世代の違い、と言ってしまえばそれまでだが、それにもかかわらず、この本はとても刺激的だ。



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