2024年7月20日土曜日

十字軍物語 (2) 塩野七生 新潮文庫

気になってしかたがない。だからここに書く。

読みはじめてすぐに「のであった」「のである」「のだ」が気になる。派生形として「なのである」「なのだ」も同様に、気になる。なくても意味が変わらないし、ないほうが全体の分量が少なくなる。分量が少ないと、早く読める。[検索と置き換え]でぜんぶ消してしまおう。だめか?そうか。これは紙の本だった。

日本人が翻訳した英語を読んでいると、the が気になる。日本語を英語に翻訳するくらいの人は、英語に堪能な人だ。堪能な人の盲点は、話すように書いてしまう。英語を話すときは、「えっと」「あの」「それはね」みたいな間として、the を入れる。意味はほとんどない。話すように書いた英語を読むと、the が多すぎる。600ページほどの印刷機械のマニュアル英語版から the を抽出したら4000くらいあった。ほんとうに必要な the は1%くらいだった。

意味がないけど癖で使う。これがすぎると、ほんとうに強調したいところが埋没する。

塩野七生さんは大作家なので、我輩の蚤の声が届くわけはない。自分だけでも気をつけて、文章も表現も人生もシンプルにしたいと、これは自戒。人生はエンドが決まっているので、無駄をはぶくと中身が濃くなると期待している。

文体はともかく。閑話休題。

+++++
キリスト教徒は、苦悩する他者を見るのが、ミもフタもない言い方をするならば、大好きなのである。なぜなら、自分に代わって苦悩してくれている、と思えるからだ。(文庫版109ページ)
+++++

・・・ジーザスは「借金を返すな」という過激な教えのせいでユダヤ人共同体に殺された。頭にトゲトゲをかぶらされて十字架を背負って坂道を登らされ、磔にされてプスプス刺されて殺された。その苦しむ様子が、後世こんなにウケるとは思わなかっただろう。いや、そんなことを考える余裕はない。殺されるのがイヤだったにちがいない。

・・・「なんで師匠は殺されたんでっか?」このシンプルな問いに、ジョンだかポールだか知らないが後継者が苦しまぎれに「お師匠はんはなぁ、人類に代わって苦悩を引き受けてくれはったんや」と答えた。その苦しまぎれが後世こんなに広まって、西欧のひとつのカルチャーというか、ビヘイビアとなるなんて、答えた後継者は思わなかっただろう。

イタリア生活が長い塩野七生さんの炯眼。さすがだ。たんに「大好き」というより、痩せこけた髭の人とか、ハンガーストライキで苦しんでいる人とか、そういう人を見て、西欧のキリスト教徒はめっちゃ盛り上がるんだろうな。

キリスト教徒のばあい、開祖の殺されかたがあんなふうだったので、苦行している人を見て盛り上がる(自分らはワインを飲んで偲ぶ)というカルチャーができあがった。それが宗教心かといえば、あくまでカルチャーとかビヘイビアであって、宗教心とはあんまり関係ない。

ウクライナ戦争がはじまってから、戦争終結を祈願して、毎日イマジンを歌い、それを配信している友人がいる。はたでときどき見ている我輩は、しんどくないのか?と思う。キリスト教徒だったら盛り上がるのかな。

戦場の人たちが受けている苦しみに共感する力。それはすばらしいが、共感力は宗教心とイコールではない。「あんた共感力がおまへんな」と言われたら、ちょっと悔しいから3回くらいはやってみるかもしれない。でも我輩なら自信を持って言える。ぜったい続かない。だから最初からやらないし、近寄らない。

何かが成就するまで続けるというのは、お百度参りだ。百回お参りして効果がなかったら?また次のシーケンスをはじめる。ネットフリックスのドラマか。

受けたストレスを「回数」とか「数量」で解消するタイプの人たちがいる。お釈迦さんは苦行をやめて、沐浴して、スジャータのくれたミルク粥すすって、瞑想して悟り開いた。苦行のリピート回数というのは、仏教と関係がない。宗教的に見えるかもしれないが、宗教そのものともあんまり関係ないと思う。


0 件のコメント:

コメントを投稿