2024年7月4日木曜日

十字軍物語をネタにして言いたいことを言う その3

マイケル・ハドソン先生によると、ジーザス・クライストは過激だった。借りた金を返さないでいいという運動をはじめた。ユダヤ人でありながらユダヤ社会の慣習に叛逆したので、ついに殺された。

弟子といわれるジョン(ヨハネ)とかポール(パウロ)になって、そのへんがマイルドになったんじゃないか。西暦313年にキリスト教がローマ帝国の国教になった。つまり、借金返さなくていいという過激な教えを捨てて、愛の宗教なんていう訳のわからない教えに変身しちゃった。

ある西洋人がどっかで言ってたこと。「仏教っていうのは宗教っていうより哲学なんだよね」と云々。それを見たとき、西欧人との宗教観の違いみたいなもんを感じた。

生まれたときからイスラム教徒とかキリスト教徒とか、しかもその教えが「神があんたを作ったんだよ」とか「マリアさんバージンでした」とか「死んだ人がよみがえることもあるんだよね」みたいな非科学的不条理満載なのを信じろと強制されて育ったなんて、そんな特殊な環境の人が言うことはそもそもわからん。

そんな人たちが、「仏教って宗教っていうより哲学だよね」というとき、いったいどんな文脈で何を言うとるねん?というのを想像するのすら面倒臭い。

だいたい西欧は面倒くさい。理屈たらルールたら原理原則たら、面倒くさい。そうじゃありませんか?挙げ句の果てに、自分らが負けそうになったら、負ける前にルールを変えてしまう。おいおい。

哲学と宗教の違いというのは、誰も見たことのない絶対神が人間はじめ猿とか猪とか蛙とかカメムシを作ったという不条理は別にして、世俗権力との関わりがどうだったかということじゃないかと思う。

法華経だけ眺めてみても、ある時は「このお経を信じたら、今世は安穏で来世はいい暮らしができる」と説いているところもあれば、「このお経を末法の世で広めようとしたら、必ず大変な目に遭いまっせ」と説いているところもある。矛盾してるやん。どっちやねん?と思いませんか?

それはね、我輩は考えた。それはね、法華経みたいなそもそも論を説きはじめると、必ず世俗権力との衝突が生じる。とくに信じる人の人数が多くなると、世俗権力は絶対ほっておかない。だから大変な目に遭う。しかしそれがなければ、宗教として、組織として成立しない。ある程度の人数が集まって組織として成立しないと、「ある人いわく」みたいな哲学レベルのまんまで、衆生を救うことができない。そういうことじゃないか。

キリスト教はある時点で、世俗権力に迎合して、いい暮らしをするために根幹の教義を変えてしまった。だからローマ帝国の国教になれたし、ローマ帝国が滅んだ後もカトリックという中世の欧州最大の地主として存続できた。とても特殊な宗教だ。

イスラム教も、最大派閥のスンニ派について言えば、戦争に勝ってイスラム帝国が地中海周辺に広まった。そもそもの成り立ちから、宗教的権威と世俗権力が一体化していた。

だから面白いのはイランのシーアなんだ。歴代イマームをスンニがつぎつぎと毒殺、幽閉、暗殺した。13人めは(イランの13イマーム派によると)ついに暗殺を逃れて隠れてしまった。いつか世に出るぞ、と。世俗権力との対立こそが宗教の宗教たる所以だ。

そういう西のほうの特殊な宗教でなくて、東のほうの普通の宗教観でいうと、法華経の言うように世俗権力との衝突がいつかやってきて、大変な目に遭うぞ、と。

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