2024年3月13日水曜日

陸軍参謀 エリート教育の功罪 三根生久大 文春文庫

この本の著者は1926年生まれ。陸軍士官学校在校中に大東亜戦争の敗戦を迎えた。内容は、なんで日本は大東亜戦争に負けたのかという命題について、日本帝国陸軍という組織の観点から論じている。特に組織の中で指導的役割であったのが陸軍参謀である。

ざっくりまとめると、明治以来の日本で、政治の世界は東大出身者が実権を握っていた。陸軍では陸軍大学校(陸大)出身者、海軍では海軍大学校出身者が実権を持っていた。東大も陸大も海大も皆おなじくらい優秀だった。陸軍が垣根を超えて暴走したのは、東大出の政治家たちが何もわかっていないと考えたから。実際に政治家で軍事のことをわかっているのは誰もいなかった。また陸軍で国際政治のことをよくわかっている人材は、いたかもしれないけれど何も言わなかった。政治と軍事というふたつの世界が隔絶していて、その隔絶はそもそもエリート人材養成コース(東大と陸大)から隔絶していた。

陸軍で、声の大きい人や好戦的な態度の人が重用されたという人事面での背景にも触れられている。慎重な人が失敗すると閑職に追いやられるけれど、好戦的な人が失敗しても閑職は一過性で、すぐに日の当たる場所に戻される。海軍の人事制度はそうではなく、公平だったらしい。エリートを蛸壺で養成する教育制度と、人事方針の歪みが日本を戦争に導いた。

これは遠い昔の日本のことでありながら、それにはとどまらない。ウクライナの負けがほぼ確定的な今、それにもかかわらずフランスのマクロンやドイツの国防大臣、そしてドイツの絵本作家が勇ましいことを声高に言っている。ドイツ軍の最高幹部がロシアをいかに攻めるかという議論をやっている。政治エリートは軍事のことも戦場のこともわかっていない。軍人は文民統制を無視している。西欧人は今こそ、日本が惨敗した歴史から学ぶべきである。

著者はこの本の中で、チャーチルを評価している。チャーチルは軍人よりも軍事のことをよく理解していた政治家で、卓越した指導者だったという。我輩はチャーチルのことをただのビッグ・マザーファッカーだと思っていた。いろんな意見があるものだ。

チャーチルはボーア戦争に従軍して負傷したはずだ。負傷して、どうしたら負けないか考えたのだろう。ボーア戦争というのは、今の南アフリカ共和国とザンビアを舞台にした、オランダとイギリスの植民地争奪戦である。じつに勝手な戦争である。

著者はこの本の中で、瀬島龍三のことも評価している。瀬島龍三はシベリア抑留で辛酸を舐めたというが、陸軍参謀だった瀬島龍三はソ連側から特別扱いされていたという話もある。我輩が学校を出て駆け出しのサラリーマンだった頃、伊藤忠商事の大阪本社ビルで働いていた。上司が「越後さんが来ててな」とか「瀬島龍三が来ててな」みたいな話をしていて、「なんや君、瀬島龍三のこと知らんのか?」みたいに話を振られたこともある。そんな経緯もあって、瀬島龍三の評伝を買ったけど、読まないまま売ってしまった。でもこの著者の評価は、今まで読んだなかでいちばん客観的な感じがするし、説得力がある。

シベリア抑留については、よくわからない。抑留体験者だったなんたらが描いた小説「暁に祈る」は純粋なフィクションだったという。そもそもソ連と日本の関わりあいについても、よくわからない。いろんな話があって、全体像がさっぱり掴めない。3年前に逝去した義理の父は北海道出身で、ロシア人のことを露助と呼び、「敗戦の1日前に宣戦布告しやがった」と言っていた。義父はリベラルな人で、昭和天皇のことを「天ちゃん」と呼び、「死ぬまで沖縄に行けなかったんだ。そりゃ行けねえよな。」と客観的に評価していた。

以前は我輩に知識がなかったので、敗戦前日の参戦について、「そうなんですか」としか言いようがなかった。実際のところ、ソ連が参戦した翌日に昭和天皇が降伏した。沖縄で20万人が殺され、広島で14万人が即座に殺され、長崎で10万人が即座に殺され、東京大空襲で10万人が殺され、それでも降参しなかった昭和天皇は、ソ連参戦の翌日に降参した。ソ連がそれほど怖かったんだ。ソ連が参戦しなかったら、いつまで殺され続けたことやら。

【参考記事】

https://toyokeizai.net/articles/-/444666?page=2

「いまさらやめられない」が生んだ350万人の悲劇

日本は負けを承知でなぜあの戦争を続けたのか

丹羽 宇一郎 : 日本中国友好協会会長

抜粋:

拙著『戦争の大問題』で、元自民党幹事長・元日本遺族会会長の古賀誠氏は次のように述べている。

「マリアナ沖海戦の後に200万人の日本人が犠牲になった。政府はこの段階で戦争をやめるべきだった。このとき戦争をやめていれば、東京大空襲はなかった。沖縄戦もなかった。広島、長崎の原爆もなかった。戦争をやめなかった政府の罪は重い。」

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戦前、海軍兵棋演習ではマリアナ諸島が取られたらそこで演習終了。つまりマリアナ諸島を取られたら負けなのだ。対米戦の敗北は筋書きどおりとなり、戦争をやめようとしない仏の顔をした鬼によって、負け戦をずるずると延ばし、いたずらに人命を損なっていったのが、1944年6月から1945年8月15日までの日本である。

なぜ負けが明白な戦争をやめることができなかったのか。この問いは、なぜ戦争を始めたのかよりも重い意味がある。

戦前の外交評論家、清沢洌が戦時下の国内事情をつづった『暗黒日記』にこんな記述がある。

「昭和18年8月26日(木) 米英が休戦条件として『戦争責任者を引渡せ』と対イタリー条件と同じことを言ってきたとしたら、東條首相その他はどうするか?」

「昭和20年2月19日(月) 蠟山君の話に、議会で、安藤正純君が『戦争責任』の所在を質問した。小磯の答弁は政務ならば総理が負う。作戦ならば統帥部が負う。しかし戦争そのものについてはお答えしたくなしといったという」

(いずれも『暗黒日記』)

清沢は小磯総理の答弁を記した後に、「戦争の責任もなき国である」と付記した。清沢の日記中には、今日とまったく変わらない日本人の姿がある。

責任と権限のあいまいなまま戦争が始まり、最後まで明瞭になることなく、天皇の御聖断によって戦争は終わった。戦争を推し進めた指導者は、だれも責任を負って戦争をやめようとはしなかった。

戦争責任はあいまいなまま日本の戦後が始まってしまった。

戦争を始めた責任者が不在でも、戦争をやめる責任を負うことはできる。責任を負うことは国であれ企業であれ、組織のトップに就いた者の務めである。責任を負わないトップは誰がどう言おうとトップの資格はない。

いまさらやめられないと考えた指導者たちも、本気で対米戦に勝てるとは思っていなかったはずだ。

「昭和15年『内閣総力研究所』が発足した。日米戦の研究機関である。陸海軍および各省、それに民間から選ばれた30代の若手エリート達が日本の兵力、経済力、国際関係など、あらゆる観点から日米戦を分析した。その結果、出した答えが『日本必敗』である」

(『戦争の大問題』)

この報告を聞いた東條陸相は、「これはあくまでも机上の演習であり、実際の戦争というものは君たちが考えているようなものではない」と握りつぶした。つまり口が裂けても言えないが、内心日本が負けることはわかっていた。

市井の人である清沢はこの事実を知る由もないが、彼の批評眼は事実を鋭く突いていた。

「昭和19年9月12日(火) いろいろ計画することが、『戦争に勝つ』という前提の下に進めている。しかも、だれもそうした指導者階級は『勝たない』ことを知っているのである」

(『暗黒日記』)

2021年8月15日、終戦から76年を経て戦争は人々の記憶から、歴史の記録へと変わりつつある。だが350万人の悲劇をけっして記憶から消してはならない。この悲劇とともに、今もなお、おろかで動物の血を宿しているわれわれの危うさを肝に銘じておくべきだ。

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