2023年11月4日土曜日

中村則弘 脱オリエンタリズムと日本における内発的発展

オリエンタリズムというのはアレである。石油欲しさに中東を制圧し、原材料と労働力欲しさにインドを植民地にしたイギリス、インドネシアから350年間も搾取して自国だけ発展させたオランダ、北アフリカを植民地にしたフランスが、学術界で手前勝手なスタンダードなるものを確立した。そして、正しいけれど自分達に都合の悪い論文に対し、特にそれが東方に関することであれば、「それっていわばオリエンタリズムだよね。」とケチをつけるときに使う用語である。

もうひとつ、西欧でもエキセントリックなやつが東方研究にはまり込み、イーデス・ハンソンの関西弁ほどやないけど、ムンバイをボンベイと言わないくらいのレベルとか、ちょっと漢字かけますくらいになってる人らがおった。本人らは一所懸命やねんけど、明らかに西欧白人系である視点から東方を眺めている態度、おんなじことを有色人種の研究者が言っても取り上げられないレベルの内容やのに、白人であるからこそジャーナルに掲載される文章を「オリエンタリズムやんけ」と小馬鹿にするのに使われる。

なんで小馬鹿にするかというと、白人はアジアに来ると目立つ。目立つし、金持ちやと思われるから、有利な場合もあるけれど、調査という作業では不利な点もある。不利な点は、どこまでいっても特別扱いされるところ。

ここからは我輩の自慢と思い出し話、つまり閑話。

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1984年にニューヨークに送り込まれ、マンハッタンのチャイナタウンで北京語を使ったら、犬以下の扱いを受けた。犬以下の扱いだったけど、野菜とか肉をまけてくれた。華人は同胞(に見える人たち)を犬以下に扱うんだな、と思った。でも、まけてくれたよな。

1999年、クアラルンプールに送り込まれた。ケダ州のどっかで、華人系と思われてマレー人から不公平な扱いを受けた。日本人であることが相手にわかったら、地位が急上昇した。その時の高速エレベーター感は忘れがたい。

2009年ごろのある朝、寧波の路上飯屋でタイ人の同僚と一緒に不味いワンタンを食っていた。我輩はタイ語がほとんどできないので英語で話していた。気がつくと、周囲に人だかりができていた。「おたくら、なんで英語喋ってんだ?」と聞かれたので、「いやこの人タイ人だから中国語できないんだ。」と説明すると、「ああそおなんだ。」と納得して人だかりが消滅した。誰も我輩に「じゃあんたは何人なんだ?」と尋ねなかったので、誰かに自慢したくなった。

同じ朝の同じ場所で、白人がやってきてカウンターの中のおっさんに「何ができるかい?」と、とても流暢な北京語で尋ねた。カウンターのおっさんは面倒臭そうに、「壁(のメニュー)見な。」といった。白人は困った顔をして、「俺、漢字読めねえんだよな。」と英語でぶつぶつ言った。助けてやろうかと思ったが、不味い店だし、不味いって言ったのが聞こえたら面倒なので、助けるのはやめておいた。

あとで考えると、英語訛りのまったくない完璧な北京語を話すまで、たいそうな努力をした白人である。たいした努力もせず、漢字が読める我々の助けなど、おせっかいに違いない。

高速バスで浙江省を移動した。乗客の中に旅慣れない女性がいて、バスの中で嘔吐し、悪臭がバス内に立ち込めた。窓際の人たちは窓を開け、周囲の人たちがありあわせの新聞を集めて、吐瀉物を拭き取った。丸めた新聞紙を運転手に渡した人がいた。運転手は窓を開け、走行中に外に捨てた。罵り言葉を呟いたのはその運転手だけで、それ以外の誰もが無言で連携して作業を進めた。一番端っこの窓際に座っていた我輩は、窓を開けただけで、あとは静かに感動していた。周囲の人たちは、女性と顔見知りとか、そういうのではなさそうだ。誰にでもありがちなことに対する寛容さ。お互いさま精神。

高速鉄道で移動していたとき、同僚のタイ人と離れた席になった。列車が動きはじめてから、そのタイ人が困った顔をしてやってきた。「俺の席に他のやつが座っているんだ。」我輩はアドバイスした。「タイ語で文句を言ってみな。」中国人じゃないとわかったら、ちゃんと席をどいてくれたらしい。外国人には一定の敬意を払うようだ。寧波は古い港町だからだろう。

2012年、パキスタンのイスラマバードに送り込まれた。近所のモールのシーアの店に民族服を着て行ったら、店の若い人に「ブラザー」みたいに言われた。シーアの同胞ということなのだろう。その時、これでペルシア語ができたら楽しいだろうなと思った。

在パキスタン日本国大使館から「一部の日本人で民族服を着ると、アフガニスタンのハザールというモンゴル系のシーア派にしか見えない人がいる。タリバンはハザールを殺すので、該当する人は民族服を着ないように周知あられたい。」云々の通達が出された。あれは我輩のことだった。

我輩の密かな愉悦が発覚したのは、金曜日だった。職場のオフィスでは金曜日が民族服の日で、ある金曜日の夕刻に日本人学校のPTA会があった。娘の同級生の親が外交官で、情報収集インテリジェンス系のプロである。最初は「なんでパキの使用人が会場に座っとるんやろ?」と思ったらしい。会合が終わって、娘が我輩をパパと呼んだので、日本人とバレた。

近所のモールには、オフィス帰りに立ち寄る八百屋がある。いつも洋装だし、たいてい家内と一緒なので、「ハロー、サヒーブ(旦那ぁ)!」と認識してくれる。ある日、民族服で一人で立ち寄ると、全然認識してくれない。「ハロー!」と手を振っても無視である。その八百屋には、近在のお屋敷から差し向けられた民族服のピックアップボーイが何人もたむろしている。その一人だと認識されたようだ。我輩の容貌が、パキスタンまで通用するとは思わなかった。

それがおもしろかったので、民族服のおっさんらの隣、歩道の縁石に座っていた。その時に思った。我輩は、これが楽しいんだ。ふつうの人らにまぎれ、同じ目線で風景を眺め、同じ風に吹かれている。ときに犬以下に扱われるかもしれないが、そんなことは、この楽しさに比べたらどうでもいい。

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完全に第三者視点なら、文化人類学をやったらいい。社会学とか、ふつうの人たちが何を考えているかを知りたいなら、溶け込む容貌でないとまずい。ときに犬以下に扱われても。異人には、やっぱり限界がある。にもかかわらず、あたかも限界なぞ存在しないかのように、西欧白人の観点から見て悦に入っておる。オリエンタリズム。

学術業界ではあまりに長く西欧がスタンダードとなってきたので、極東の我々は、西欧スタンダードというだけで平伏する奴隷根性の持ち主たちと、一方でその臭いがしただけで「むかっ」とくる者の極端な2グループに分かれた。中村さんはもちろん後者です。

我輩なぞ「むかっ」と来るほうだ。イギリスはスコッチとギネスとフェイクのブリティッシュ訛りの英語、フランスはチーズとワインとフェイクのフランス語訛り、オランダはゴータチーズとポテトフライとビールのグローシュくらいを贔屓にしておいて、あとはあんまり立ち入らない、関わらないで生きてきた。そんなけ知っておけば、その国の出身で万が一いいやつに出会ったとき、それなりに話題を持たせることができる。

中村さんは全然違って、学術界で真正面から勝負を挑んだ。勇者である。

そんな中村さんが、63歳で去ったのは、残念としか言いようがない。

本の内容についての感想はまたの続きで。

2023年10月1日日曜日

開高健と開高健ノンフィクション賞を受賞した中村安希のこと

開高健の作品は双極性障害みたいなところがある。ベトナム戦争シリーズのように緻密な文体があるかと思えば、エロジョークや食べ物や酒をテーマにした気楽なエッセイがある。一連の文体の中でも、ゴーゴリの翻訳文体みたいな長文もあれば、ただ「眠い。」という短文もある。エロジョークをテーマにした気楽なエッセイは、ポリコレ的に許されないような表現が多いので、読んでいて辛くなる。だからあんまり読まなくなった。

緻密な長文のほうは、開高健が若いころ傾倒していたというゴーゴリの日本語訳を読んで、悟った気になった。長時間のフライトを伴う旅をしていた頃、開高健のベトナムシリーズのどれかをカバンに入れていった。ゴーゴリを知ってから、長旅にはゴーゴリの「ディカーニカ近郊夜話」の日本語訳を持っていくことにした。長旅=開高健ではなくなったけれど、長時間のフライトに乗ることもなくなった。

ベトナム戦記シリーズは、関連エッセイも含めて名作だと思うが、時代の限界が見えることも多い。開高健がベトナムに行ったのは、ベトコン側ではなくアメリカ軍の従軍記者としてだった。否応なしに、アメリカ人から見たベトナムという限界がつきまとう。

アフガニスタンのアメリカ軍は、中村哲さんいわく、ふだんは基地に引きこもっていて、ときどき飛行機で出かけて行って爆撃する。ときどき出かけて爆撃するだけなので、大勢を変えることはできない。しかしアメリカ軍ができるのは、それくらいしかない。

オバマ政権になってからアメリカ兵が殺されるのを極端に嫌がったので、ドローンを飛ばし、テロリストとして登録された携帯電話の電波を受信したら、そこに向けて超音速ミサイルを発射してピンポイントで殺した。多数の一般人を殺害したけれど、「コラテラルダメージ」=巻き添えという言葉で黙殺した。大勢を覆すことができなかっただけでなく、アフガン人の反感を煽り、タリバン賛同者を増やした。

開高健の作品を眺めている限り、ベトナム戦争もそんな感じだ。ベトコンを炙り出すためにモンサント製枯葉剤で森林を破壊したり、ベトコンが隠れていそうな村をナパーム弾で住民ごと焼き殺した。基本的には、たまに出かけて蛮行する、というパターンだ。

思い出されるのは、アメリカ政府の派遣で蒋介石のアドバイザーをやっていたオーウェン・ラティモアのコメント。ラティモアは共産党の勝利を確信していた。なぜかというと、蒋介石の国民党軍の幹部は全員が地主階級のボンボンであり、彼らにとって農民とか兵隊というのは牛や馬と同じレベルであって、牛馬と農民・兵隊は、中国語を理解するかどうかの違いだけだった。共産党は、人間をふつうの人間として扱った。それだけで、他にたいしたことをしなくても、農民を組織化することができた。

開高健の記述では、南ベトナム軍、つまりアメリカ側で戦っているベトナム兵は、バケツにぶちこんだおよそ人間らしくない食べ物を、「ピャウピャウバウバウ」と話しながら食べている。

「ピャウピャウバウバウ。」
ここに開高健の限界が現れている。同じアジア人でありながら、ベトナム語を学ぼうとも理解しようともせず、英語でアメリカ軍人とコミュニケーションをとるだけで文章を書いた。

それ以外のところ、深淵を覗き込んだような表現が魅力的なのだが、「ピャウピャウバウバウ」で興醒めしてしまう。

そして、開高健が残した開高健ノンフィクション賞。中村安希さんの「インパラの朝」は、ぜんぜん面白くなかった。サントリーの広告に釣られて、買って飲んだ酒が意外とふつうだったので、マーケティングに乗せられた後味の悪さが残る。それと同じ感じだ。

開高健もサントリーのコピーライターだった。開高健は、その殻を破ろうとしてもがいたのだろう。青春時代にゴーゴリの文体に出会い、「わいもこれでいくぞ!」と決めて文章修行。家族をくわせるためにサントリーのコピーライター。中年以降、釣りをテーマにした写真紀行文でコマーシャル的に大成功。我輩は18歳の頃からそれに馴染んできた。

しかし、開高健の魅力は、コマーシャル的じゃないところにある。いまでもそう思う。

開高健という名前に、期待しすぎだろうか。

2023年8月26日土曜日

点石斎画報に見る明治日本 石暁軍 東方書店

中国人が明治時代の日本人を描写したのに、解説がついている。

上海の宝善街の日系遊郭「日昇」で生臭坊主が女郎買いをしようとして物議を醸した。1885年(明治18年)のこんな話が、イラスト入りで紹介される。

点石斎画報は1884年から1898年にかけて発行された。日本でいえば明治時代の後半。

そのへんは、石光真清の4部作の時代背景と似通ったものがある。石光真清は明治元年の生まれ。彼の青春時代に、日本人がどんなふうだったかが中国人アーチストによって描写されている。

デタラメな生きかただったひい爺さんの幾太郎が、日清戦争とか日露戦争に行ったのか行かなかったのか、それはなぜか?みたいな興味からはじまり、同時代の石光真清に行き着いた。当時の日本人の国際感覚はどんなふうだったのか。興味と想像が尽きない。この本はそれをビジュアル面で補強してくれる。



茶館 竹内実 大修館書店

中国の地理・地勢に関する、碩学による蘊蓄たっぷりの本。お茶とか喫茶店とかぜんぜん関係ない。ほな、なんで茶館かといえば、いろんなことを語り合うから。

中国にはじめて行ったのは、上海にリニアモーターカーができて何年か経ったころだった。その時はリニアモーターカーじゃなくて自動車で移動した。中国の大きさに感心した。こんなところを占領しようとした日本軍はどれほどアホのかたまりだったのか。最高司令官の「朕」も含めてな。

日中戦争の準備のため、ある軍人が地勢の調査のため湖南省の長沙のあたりにやってきた。糞ど田舎だと思っていた山間部で、国民党のレーニン主義軍隊を見てめっちゃびっくりしたという記録が語られる。

なんや、ちゃんと調査してたんや。それでもあのアホな戦争を始めたということは、誰も調査報告書を本気で読んでなかったんやな。

スコット・リッターがX(旧ツイッター)でゼレに「無条件降伏やな。1945年9月12日の日本やで。」と言った。大日本帝国の大本営のアホのかたまりが、世界規模に拡大してしまった感のある昨今である。

奥書に昭和49年ということは、1974年の本。我輩は16歳である。その3年後に我輩は中国語を学びはじめたのだが、その頃にこの本を読んでいたら中国の見方がぜんぜん違っていただろう。

竹内実と竹内好。似たような名前で、両方とも中国研究者である。「茶館」の竹内実さんは1923年中国生まれ。竹内好さんは魯迅を翻訳した人で、1910年生まれ。



2023年8月23日水曜日

長田夏樹論述集(上) ナカニシヤ出版

まだ読んでいない。ぶあつい本なので、これからぼちぼち読む。 

何年か前、「長田夏樹先生追悼集」を手に入れた。太田齋先輩の文章を読んで、思わず声を出して笑った。

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忌憚なく申し上げれば、長田夏樹先生はやさしく噛み砕いて教えるということがまるで出来ない方であった。決してその気がおありで無かったということではない。受講生からすると、先生が説明すればするほど益々訳が分からなくなるのである。先生の学問の中心を成す漢語音韻学が、初心者には極めて取っつき難いものであるが故に、その思いが特に強い。
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1920年生まれ。東京外大蒙古学部を出て華北交通に就職。敗戦後の中国で人民解放軍に合流して通訳業。それに飽きて放浪中に国民党軍に拘束され、日本人だとカミングアウトして帰国。

我輩が長田先生の謦咳に接したのは、神戸外大の中国学科3年だった1979年、漢語音韻学の授業である。我輩にはめっちゃ面白い授業だったが、同級生の全員が「わけわからん」と投げていた。たぶん我輩は、15歳の頃から法華経を毎日読誦していて、ひらがなで表記される日本語の漢字音について納得のいかない何かを感じていた、だから中国語音韻学にはまったのだろう。

長田夏樹先生のお嬢様が編纂された「長田夏樹年譜」には、日中友好交流の旅で宴会の席上、口に含んだ白酒を噴射し、それに点火して火を吹くという芸を披露しようとして、周囲の日本人学者に止められたという逸話がある。それは我輩と同学たちが長田先生を囲んでコンパしたすぐ前だったのではないか。長田先生はグラスになみなみとついだウィスキーを一気飲みし、白酒で火を吹くという話をしてくれた。

今にして知るダイナミックな生き方の長田先生である。標記の本の目次から、面白そうなところをざっと斜め読みしただけで、長田先生のスタイルが思い出される。

長田先生は講義でも論文でも、いちばん面白いところを最初に言ってしまう。イラチである。学生がイントロだと思っていたら、それがハイライト。結論。聞き逃したらおしまい。あとは付け足しの注釈である。だから冒頭の「先生が説明すればするほど益々訳が分からなくなる」のである。



手記・私の戦後50年 ABS秋田放送ラジオ局

 今年で戦後78年。戦後50年ということは28年前。

この本を落札したことを朝食の席で内儀にいうと、
「私も読みたい。」

到着したとたん、おかんが
「読みたい。私の年代や。」
94歳である。しょうがない。我輩が読む前に手渡した。

千葉県柏市に住んでいた頃、お向かいに清水さん宅があった。そこにはハゲの爺さんがいた。爺さんが笑うときは「たー。たー。たー。」と聞こえた。ずいぶんユニークな爺さんと思っていた。あるとき一緒に酒を飲む機会があって、戦時中は憲兵だったと言ってた。そして、満州娘のことになると「ぐひ。ぐひ。ぐひ。」と卑猥な顔で笑った。こいつはリアル鬼畜だなと思った。

青春時代に中国語を学んだので、白毛女のストーリーは知っていた。この爺はリアル白毛女の世界で日本鬼子の憲兵だったかもしれない。

普通の父親が鬼になるのが戦争なんだ。戦争で鬼であっても、帰国したら普通の父親になれるんや。

おかんは16歳の時、大阪の西淀川の日本油脂の佃工場で働いていた。空襲があって、千船大橋を渡っていたとき、アメリカの戦闘機に狙い撃ちされた。けど助かった。

16歳の少女をしつこく狙い撃ちにする空軍兵て、どんな鬼畜や。それでも戦争が終わって帰国したら、普通のパパやってるんやろな。

納得できない。

まだ読んでないが、そんなことを思い出させてくれた。





2023年8月19日土曜日

笑笑録 岳麓出版

ヤフオクで箱買いした本のうちの一つ。本そのものに興味はないが、開けたらハラリと落ちてきたのが、東方書店の領収証。大阪女子大というのは、大阪府立大学に吸収されたいくつかの大学の一つ。そこで教えていた先生が授業のために買ったのかな。ユーモア小説集なので、研究目的ではなかろう。

箱買いした本の持ち主の謎は深まるばかりだ。

その多くは、開いて読まれた形跡がない。

魯迅選集から出てきたスランゴール国王の招待状の主、ノザキミツアキ氏は、ググってみると高エネルギー加速器研究機構の教授しか出てこない。物理学の人がクアラルンプールで開催される「考える日」の記念式典に招待される、というのはあるかもしれないが、その人が魯迅選集を原文で読むか?

大阪女子大学に理学部はあったけど、理学部で笑笑録を取り寄せるか?しかも東方書店なんて、中国語関係のツウの人しか知らない。