2021年4月1日木曜日

中銀が介入すればするほど市場は硬直化する

 2020年4月21日

ネット世界では電通五毛党(電通から1件いくらで小遣いをもらって政権礼賛を投稿するクズ)による「政府は金がないんだから」投稿が出没しておるようだが、日銀がETF買い入れをいままでの年間6兆円から倍増させて12兆円にする、と・・・この政策のどこに金がないというのだろう?

ちなみに日銀黒田氏の言い訳は市場サポートのため云々なのだが、市場サポートではなく政権サポートなのが見え見え。ここにも「こんな大人になってはいけない」という具体例が現出しておる。

https://altnews.org/・・・/japan-proves-again-just-how・・・/

投資家のおじさんのこの記事によると、我が輩は投資家でも金融専門家でもないのでよくわからんのだが、中央銀行は市場をサポートしたり、「朕は市場そのものである」とうそぶくことはできるかもしれないが、じつは市場はETF買い上げ金額みたいな具体的現象で動くのではなく先行きへの見込みで動くものなので、中銀が介入すればするほど市場は硬直化する。そこんとこお役人はぜんぜんわかっとらんなぁ、という論旨ではなかろうか。

アラブ音楽のとっつきにくさについての試論

 たとえばジャズでいうと、こないだ逝去したチャーリー・ヘイデンがカルテット・ウェストで録音したムーンライトセレナーデやボディアンドソウルみたいに、ベースのインプロバイゼーションからはじまって、サックスがそれを受けついで、最後にテーマが演奏されるという謎かけみたいな進めかたがある。はじまりのベースはブンブンゆってるだけなので、いったいどういう曲なのかさっぱりわからない。サックスのパートになって、なんだかどっかで聞いたことあるぞ・・・というあんばいになる。

アラブ音楽も同様に、まずタキシム(インプロバイゼーション)からはじまって、半分くらいすぎてからテーマの演奏になる。そのタキシムの作法が(コード進行にもとづいてインプロバイズするジャズとはちがって)ややこしい。どれくらいややこしいかというと、かなりよく知っているらしい人が「俺もほんの一部しか知らないんだけれど」って謙遜するくらいややこしい。つまりタキシムを聞いているかぎりでは、いったい何の曲がはじまったのかさっぱりわからない。要すれば芸術性が高すぎるのだな。

そのわかりにくさについてはアラブ世界のリスナーも同じらしく、もっとわかりやすい音楽を!というのでカイロ・オーケストラなんかがはじめからパーカッションを入れてテーマを演奏する音楽をやっている。CDのジャケットにはヘソ出しおねいさんをあしらって、ベリーダンスのBGMとして売り出している。

それもなんだかなあ・・・と思う我が輩である。

「家に帰ろう」

 2020年4月11日

「家に帰ろう」・・・最後の旅行という題名のアルゼンチン映画。ポーランドで生まれホロコーストを生き延びアルゼンチンに移民した爺が命の恩人の親友をポーランドに訪ねる話。

https://ja.wikipedia.org/wiki/家へ帰ろう_(映画)

この映画のBGMにはユダヤ音楽が使われているのだが、欧州や南米のユダヤ音楽は微半音を失った。微半音を失ったユダヤ音楽はただのもの哀しい旋律にしか聞こえない。じつはそうではないはずだ。微半音を保つユダヤ音楽をネットで聞くと、まるでアラブ音楽と変わることがなく、ユダヤ文化がまさに中東由来であることがわかる。

これは仮説だが、欧州で12音階への収斂=微半音の追放がおこなわれた時期=レコンキスタの時代に、意識的にユダヤ人とユダヤ文化の迫害が同時進行していたんではなかろうか。なにかそうすべき政治的背景があったのだろう。

京産大への誹謗中傷とか見るにつけ、1922年の関東大震災のとき、万単位の在日朝鮮人を虐殺したころから、我が民族の肛門サイズは1ミクロンたりとも拡がっていないことを痛感する。こういうカルチャーが政治的に利用されやすい、というのはナチの時代も同じなんだろうな。見えない敵の脅威(これもメディアを通じて政治的に拡散されているようなのだが)に直面すると、人民は独裁者の出現を期待するようになる。いまこそエーリッヒ・フロム先生の「自由からの逃亡」を再読してみようか。

スペインにトレドという街がある

スペインにトレドという街がある。1085年にそこがレコンキスタされ、ギリシアローマの哲学・科学の膨大な蔵書が発見された。ただしアラビア語の写本。それから200年くらいかけて、アラビア語からラテン語に翻訳された。ルネサンスの原動力になった思想はアラビア語=>ラテン語を媒介に伝播した。その翻訳にユダヤ人が大活躍したのは想像に難くないのだが、西欧世界はユダヤ人やアルメニア人などの中間の人々を排除しはじめ、シェークスピアの時代(1600年ごろ)にはユダヤ人差別があたりまえの社会となった。

音楽世界では、アラビア音楽の54音階がバッハの時代(1700年ごろ)には12音階に収斂され、中間の音階が排除された。それから楽譜の発明と和声学の発達で西洋音楽はユニークに進化する。バッハの200年後にはスコット・ジョプリンのラグタイム。レコードというメディアの発明が発展を加速化して、50年後にマイルスがモード奏法をつくりあげた。

こうなると音楽演奏者というのは上海雑技団的というか、「赤ん坊のときにかどわかされて酢を飲まされて曲芸を仕込まれ」みたいな特殊技能者集団となって、演奏するという行為が隔絶した存在になってしまう。同時に、居酒屋のトイレBGMのビル・エヴァンスみたいに、誰も真剣に聞かないという情けない状況が現出する。

中間物を排除するという傾向が、エッセンスを抽出し、理論化するという西欧的アプローチに結実した。それがもう限界にきているんじゃないか。そうであれば、古典派(といってもバッハは暴れん坊吉宗と同世代という新しさ!)のもっと昔、アラビア音楽に触れてみようじゃないか、邪魔もの扱いされた中間物にもっと触れようじゃないか、というのが昨今の動機なのである。

おらおらでひとりいぐも 若竹千佐子 河出書房新社

 2019年10月7日  

我が輩はかれこれ3年ほどイラストレータ職人として寡黙に働いている。3DのCADをパーツ別に分解しているようなときに、いろんな声が聴こえる。昔の失敗をことさらにあげつらう自分の声もあれば、墓場の写真に撮ったおぼえのない顔がはいっているみたいに、あきらかに自分のではない闖入者の声もある。そういう経験を日常的にしているので、この本はおおいに共感したり笑ったりしつつ読んだ。いつまでたっても若手扱いされる年代なので、自分のでも他人のでも老いに寄り添うというのはなかなか難しいものだけれど、この本を読んでいろいろ学ぶところ、考えさせられるところがあった。途中はらはらする展開もあるけれど、読後感はとてもいい。おすすめ。

逆転の大中国史 楊海英 文藝春秋

 花子が大阪の学校に合格=> 受入準備で月子が広い物件に引っ越し=> 荷物運びに関西へ=> 「いらなくなった本を売っぱらっとくれ」=> 諏訪まで持ち帰ってブッコフ=> そこで見つけた本。

これほど知的刺激を受けた本はちかごろあんまりない。歴史の本でもあるし、文化人類学の本でもある。楊海英さんは内蒙古生まれのオーノス・チョクトというモンゴル人で、南北をさかさまにしたユーラシア地図なんかを紹介している。

いちばん刺激的だったのは、中国語は漢字を唯一の共通プラットフォームとした、異なる言語が流入したものであるという指摘。じっさいに中国語では、おんなじようなことをいうのに何通りもの言い方があったりする。また「茶」という字を広東でも北京でもチャーと発音するのに、福建〜潮州ではテーという。福建のほうが古いのだけれど、テーがいかに変化すればチャーになるのか長年納得がいかなかった。でもぜんぜん違う言語が「茶」という漢字を共有してちがう音をあてはめたとしたら納得がいく。歴史は生成発展するという共産党の呪いに知らず識らず縛られていたのか。

先般来ぼちぼちとタイ語を勉強していて、ひょっとしてタイ語は古い形を温存した中国語なのではないかと夢想していた。小乗仏教徒が漢人による儒教文化への同化を避けて南方に亡命したのかもしれない。

中国語が拡大・吸収・同化の途ををたどったのであれば、英語がそうであるように簡素化は免れない。中国語は簡素化の歴史なのだろう。

呪いの言葉の解きかた 上西充子 晶文社

 フェースブックから引退することにしたので、投稿していたうちから読書日記をぼちぼち転載する。まず2019年10月2日。

日経ビジネスで紹介されていたのを見て、近所の本屋で購入。我が輩はいまでこそイラストレーター職人として寡黙な毎日だけど、もともとは言葉が専門なので、ことばの機能に尽きせぬ興味がある。通訳のときも文脈派として、たとえば日本人ビジネスマンのおっちゃんたちの、たいして内容も機能もない長い前置きをぜんぶはしょったら、会議時間が劇的に短くなることに気づいた。そのためには、彼らが何を言いたいのかをすばやく見抜く必要がある。筆者は自分のつごうのために他人を縛る言葉を「呪い」と分類し、その背後にある意図を見抜くべしとして実例を挙げている。おもしろくてためになる。著者は内儀とほぼ同世代の女性。