拙宅をご来訪になった清水閣下にちょっと見せたら、「この本なら30分で読んじゃうんじゃない?」と言われた。じっさいには1時間以上かけてまだ読みきれていなかった。筆者の実体験を描いているので、ストーリーの背景を構成する情報量が多く、そのせいかじっくり読まされてしまう。
なによりも、筆者のひたむきな生きざまに胸を突かれる。
拙宅をご来訪になった清水閣下にちょっと見せたら、「この本なら30分で読んじゃうんじゃない?」と言われた。じっさいには1時間以上かけてまだ読みきれていなかった。筆者の実体験を描いているので、ストーリーの背景を構成する情報量が多く、そのせいかじっくり読まされてしまう。
なによりも、筆者のひたむきな生きざまに胸を突かれる。
「〜を知るためのn章」シリーズは、(出はじめのころではなく昨今の)地球の歩き方みたいに無責任ではなく、学術的なことも書いてあるので、値段は高いけれど買って読みたいと思う。たいてい複数の著者、場合によっては章ごとに異なる著者が担当していて、いろんな観点からその国のことを知ることができる。
しかし「モンゴルを知るための」の場合、金岡さんという我が輩と同年生まれの著者ひとりがぜんぶ買いているので、例外的といっていいかもしれない。そのせいか、通読すると金岡さんの癖というか傾向が滲みでていて、この人は左翼が徹底的に嫌いなんだなと思う。そのせいか小渕さんはじめ自民党外交びいきのようで、いやいや右であれ左であれ、日本であれモンゴルであれ功罪はそれぞれあるでしょ、と言いたくなる。
我が輩はまず言語の章から読みはじめ、もうちょっと深く書いてほしいな、というあたりで別の話題に流れてしまう。ま、専門書じゃないのでこれ以上深掘りしたところで一般の読者がドン引きするだけだろう。我が輩が師と仰ぐ長田夏樹先生(東京外大モンゴル語OBなので金岡さんと同門)の講義なんて受講者全員がドン引きしていたのだから。
つぎに歴史。第1に明が元にとってかわってからのモンゴル帝国がどうなったのか、第2に木村肥佐生さんが描写する徳王とはいったい何者だったのか、第3に草原のモンゴルがなんで社会主義共和国になったのか、第4にそこでなにがどうなっていたのか、以上のことをぜんぜん知らなかった我が輩である。そこで歴史のところをぜんぶ読んだのだが、やっぱりよくわからない。もういっかい読まないといけないな。
著者がモンゴル好きというのはよくわかるのだが、「遊牧民から見た世界史」の杉山正明さんみたいなスカッとした読後感はない。いろんなことをいっぱい書いてあって、その意味で拡散していて、著者の専門が何なのかよくわからない。仏教用語に独自のふりがながふってあって、チベット仏教とか密教系の人なのかなという感じもする。それにもかかわらず、この本にとってかわるモンゴル入門書はないので、貴重な労作だと思う。
007ではなく、じっさいのスパイ活動に興味のある人なら読んでおいて損はない。
我が輩は同じ著者の「スパイのためのハンドブック」を先に読んだのだが、シャンペン・スパイを先に読んでからハンドブックを読んだほうがより楽しめると思う。
我が輩はスパイに興味があるといっても、佐藤優はほとんど読まない。というのは第1に、在外公館の外務省の職員とか防衛省の武官は合法的に情報を集めているだけであってスパイではない。第2に、「ヒューミントがどうのこうの」とか一般にあまり馴染みがない(けどたいして深い意味がない)業界ジャーゴンをちょっとづつ出しながら「わしら玄人は」みたいなスタイルなのが楽しくない。第3に、在外公館の外務省職員は自分たちはスパイではないにせよ、スパイの標的とされてきたのはそのとおりで、その立場を自覚していながら、人生の決定的な局面でつねに判断を間違えてきた人に指南っぽいことを語られたくない。
ちなみに我が輩が佐藤優を読まないのは、彼がイスラエルびいきだからではない。佐藤優がイスラエルびいきなのは、ジョージ・ブッシュとおなじく神学の帰結するところがイスラエルということになるだけのはなしだ。神学徒は別にして、イスラエルという国を好きな人は多くないと思うし、イランを敵視しているのも純粋に国内政治の問題でまったく困ったもんだと思うし、核不拡散協定に加盟せずに核弾頭を200発も300発も持っていて、それ自体も問題なのだけれどそれを問題視しないアメリカはじめ国際社会の方がどうかしていると思う。パレスチナで暮らしていた気の知れた友人家族が、他のどんな辺境でも任地を嫌いにならかなったのに、イスラエルだけは好きになれなかった、と言っていたものだが、しかしそれらすべてを知っていたとして、何千年も欧州のあちこちで迫害され、人為的に根絶させられそうになった人たちとして、諜報機関モサドを国民が愛しているというのはわかる気がする。
だから主人公が牢獄から解放されてイスラエルでのんびり暮らしましたというエンディングには、なんとなくホッとするものを感じる。
年末、たーんとある洗濯物を乾かしに出かけ、コインランドリーで乾かす間に読んだ本。めっちゃおもしろいので帰宅して残りを一気読み。隠居して読んでもおもしろいのだから、おそらく現役で生臭いときに読んでも面白いんではなかろうか。
蓋し優秀な経営者というのは、人の観察眼がキモなのではないかと思う。今までの職業人生で出会ったすばらしい人々は、それぞれがもっている技能や経験を隠すことや誇ることなく、それらを披露するのにぜんぜんためらいがなかった。それだけでも人を惹きつける魅力なのだが、それプラスするどい観察眼で適材適所を心得ていたのではないかと思う。
さて前述の読書のからみで、書評とか論文あわせて3本にであった。
藤枝守さんはちょっと過激なミュージシャンで、大学の先生でもあるらしい。彼によると、ピアノの大量生産が平均律を生んだのだという。
平均律のゆがんだ響かない音程が音楽嫌いを生んできた。楽譜に書かれた音符をまちがわないで演奏することに気を取られその音程が実際にどのように響いているかということを忘れたような音楽教育が続いてきた。複雑性や構築性ばかりに目を奪われていた現代音楽の作曲家たちは、自分たちが前提にしていた音程が音響的に欠陥であったという事実を見過ごしている。
・・・という。うむ、納得できることばかりではないか。
つぎ。和泉浩さんはマックス・ウェーバーの「音楽社会学」を評してこういう。
ウェーバーによる音楽の合理化についての分析をとおして、西欧近代の音楽的要請じたいに内在する矛盾があきらかになる。それは調整という理想のもとに、和声的合理化と感覚的合理化という対立するふたつの合理化をとおして形作られてきたからである。
マックス・ヴェーバーが音楽社会学なんて文章を出していたのをはじめて知った我輩だ。和泉さんはピアノの大量生産=>平均律の成立なのではなく、矛盾はそもそも内在していたのだとヴェーバーをネタにいうのである。論文のネタとしてはおもしろいけれど、たいして読みたくない。
大垣俊一さんは藤枝守さんの「響きの考古学」について、平均律が採用されたのはなんらかの必然性があったからだろうと推察している。
十字軍はそれぞれの国内に鬱積していた矛盾と不満のはけ口としてのものだから、必然性といえば必然性だ。「賢王」アルフォンソがトレドの書庫でみつかった大量のアラビア語文書をラテン語に翻訳させ、その事業がおわったとたん翻訳者のユダヤ人たちに改宗か追放かを迫ったという。これは西欧のルーツがギリシャ・ローマに直結しているというフィクションをでっちあげ、証拠を隠滅し、ギリシャ文化の仲介者がアラブ人だったことを隠したい意図がありありと見てとれる。それも必然なのだろうか。それから数百年にわたって、欧州のあちこちでユダヤ人を迫害し、殺したのも必然性というか。そしたら今のイスラエルがパレスチナを抹消しようとしているのも必然性になってしまう。
平均律の成立と敷衍は、当時の西欧が偏執的に追求していた、西欧文明のルーツはギリシャ・ローマだとしたい意図があって、中世キリスト教世界が他ならぬギリシャ・ローマの合理性を弾圧した歴史を隠し、アラビアが仲介者だったという事実を抹殺しようという、権力者はじめ集団的な意図がはたらいていた、そのひとつの発露であると思う。
与えていえば、要素を抽出し、純化し、それをあらゆるものに当てはめるという社会的雰囲気の発露であること。しかしその過程でユダヤ人のような不純物、アルメニア人のような中間者を弾圧してきたのだから、好意だけで考えることはできない。
大垣さんは上記著作から藤枝さんの言葉を紹介している。それは、あるとき琴を純正調で調律してみたところ、「琴の胴体が自然に鳴りはじめ」て驚いたという。・・・ピアノなんてばかでかい共鳴箱なのだから、純正律で調律したらどんな音になるのか聞いてみたいものだ。
我輩が思うに、平均律はピアノの大量生産という工業的な要請だけを背景に成立したものではなかろう。「平均律の和音なんて美しくない!」と抵抗した(非ユダヤ系)ミュージシャンもたくさんいたはずだ。いやひょっとして、平均律に抵抗したからユダヤ人とかジプシーは追放されたんじゃないか?
工作舎 2300円
新品同様のきれいな本が岡谷のブッコフで200円だった。即買い。
翻訳の日本語もあんまりうまくないし、難解っぽかったので、寝るまえに読むには最適かと思量した次第。
読みはじめてとてもおもしろかった。内容はさまざまなジャンルのミュージシャンへのインタビューが基本になっている。
まずインド音楽。レッスンは師匠のまねをすることからはじまる。
インプロヴィゼーションの要素があるとすれば、ラーガのフィーリングを尊重しつつ演奏するのが結果的にそうなっている。とても自然なアプローチだと思う。
つぎはフラメンコ。ギターと歌と踊りがそろってはじめてフラメンコといえるのだそうな。知らなかった。ここでもインプロヴィゼーションは、俺様的アプローチではなく、曲に身をまかせることで高みに到達するものである、と。
そのつぎがバロック音楽。17〜18世紀というから比較的新しい。その成立にはインプロヴィゼーションが深く関わっていたのだが、後世(といってもこの200年くらい)になって固定化され、死体同然になった(と筆者の暗喩)
つぎに教会オルガン音楽。まいどまいどの礼拝にオルガン奏者はちがう素材でちがう演奏を提供するので、「速く考えられる」ことが求められるという。ジャズだけどジョーイ・デフランチェスカなんてめっちゃ指が早い人なので、忠実に伝統を引き継いでいるということなのだろうな。
そしてロック。このへんから何をいいたいのかよくわからなくなってくるのだけれど、文意はまだ理解可能。
つぎに「聴衆」という章があって、音楽は演奏する人と聴衆のインタラクションであるということが難しく述べられる。このへんで眠くなる。うん、いいぞ。当初の目的どおりじゃないか。
つぎにジャズ。ジャズは様式が固定化されたので、「ブラック・クラシック音楽」という呼称がいいんじゃないかと著者はいう。
まったくそのとおりで、ウィントン・マルサリス一派がでてきたころからジャズはチェンバーミュージック化し、地下酒場よりもリンカーン・センターが好まれるようになった。マルサリスが悪いのではない。マルサリスはマイルスの危惧を加速しただけなのだ。我輩はそれ以来、チャーリー・ヘイデンかパット・メセニー、あるいはマイク・スターンか死んだボブ・バーグしか聞いていない。
つぎの章が現代音楽。本のちょうどまんなかへん。このあたりから何が書いてあるか、読んでいて理解不能になる。
どっかの章の最後に書いてあったのだが、未来のインプロヴィゼーションというのは、あるジャンルで天才がすばらしい仕事をする、あとはしばらくみなが追従する。そういうかたちになるだろうと、あるミュージシャンが言っていた。
そのとおりだ。
ジャコ・パストリアスが出てエレクトリック・ベースの弾きかたが変わってしまった。あとはあの偉大なリチャード・ボナ様ですら、テクニックと完成度でははるかに上をいっているにもかかわらず、ジャコではないのだ。
https://www.youtube.com/watch?v=JASfmtnd3Fs
どっかの居間に20人くらい集まり、リラックスして音楽を楽しんでいる。
中心は(本来)ボーカルのイーブラヒム・アッザームと(本来)ウードのサイモン・シャヒーン。サイモン・シャヒーンがとてもいい感じでウードを弾くのが04:30〜06:26あたり。
それからしばらく見ているとなんと、サイモンシャヒーンがバイオリンに持ち替えて、プロ級の演奏で30分くらい延々とセッションしている。そうこうするうちにイーブラヒームがバイオリンをもってつまびきながらハビビの歌を歌ったりしている。まったくこの人たちの音楽的教養というか、音楽的素養はじつに奥深いものがある。ほんとうの意味でのアーティストたちだ。
聴衆とアーチストの距離がこんなにも近く、みな酒もなしで純粋に音楽を楽しんでいる。じつにすばらしいことだ。