さて前述の読書のからみで、書評とか論文あわせて3本にであった。
藤枝守さんはちょっと過激なミュージシャンで、大学の先生でもあるらしい。彼によると、ピアノの大量生産が平均律を生んだのだという。
平均律のゆがんだ響かない音程が音楽嫌いを生んできた。楽譜に書かれた音符をまちがわないで演奏することに気を取られその音程が実際にどのように響いているかということを忘れたような音楽教育が続いてきた。複雑性や構築性ばかりに目を奪われていた現代音楽の作曲家たちは、自分たちが前提にしていた音程が音響的に欠陥であったという事実を見過ごしている。
・・・という。うむ、納得できることばかりではないか。
つぎ。和泉浩さんはマックス・ウェーバーの「音楽社会学」を評してこういう。
ウェーバーによる音楽の合理化についての分析をとおして、西欧近代の音楽的要請じたいに内在する矛盾があきらかになる。それは調整という理想のもとに、和声的合理化と感覚的合理化という対立するふたつの合理化をとおして形作られてきたからである。
マックス・ヴェーバーが音楽社会学なんて文章を出していたのをはじめて知った我輩だ。和泉さんはピアノの大量生産=>平均律の成立なのではなく、矛盾はそもそも内在していたのだとヴェーバーをネタにいうのである。論文のネタとしてはおもしろいけれど、たいして読みたくない。
大垣俊一さんは藤枝守さんの「響きの考古学」について、平均律が採用されたのはなんらかの必然性があったからだろうと推察している。
十字軍はそれぞれの国内に鬱積していた矛盾と不満のはけ口としてのものだから、必然性といえば必然性だ。「賢王」アルフォンソがトレドの書庫でみつかった大量のアラビア語文書をラテン語に翻訳させ、その事業がおわったとたん翻訳者のユダヤ人たちに改宗か追放かを迫ったという。これは西欧のルーツがギリシャ・ローマに直結しているというフィクションをでっちあげ、証拠を隠滅し、ギリシャ文化の仲介者がアラブ人だったことを隠したい意図がありありと見てとれる。それも必然なのだろうか。それから数百年にわたって、欧州のあちこちでユダヤ人を迫害し、殺したのも必然性というか。そしたら今のイスラエルがパレスチナを抹消しようとしているのも必然性になってしまう。
平均律の成立と敷衍は、当時の西欧が偏執的に追求していた、西欧文明のルーツはギリシャ・ローマだとしたい意図があって、中世キリスト教世界が他ならぬギリシャ・ローマの合理性を弾圧した歴史を隠し、アラビアが仲介者だったという事実を抹殺しようという、権力者はじめ集団的な意図がはたらいていた、そのひとつの発露であると思う。
与えていえば、要素を抽出し、純化し、それをあらゆるものに当てはめるという社会的雰囲気の発露であること。しかしその過程でユダヤ人のような不純物、アルメニア人のような中間者を弾圧してきたのだから、好意だけで考えることはできない。
大垣さんは上記著作から藤枝さんの言葉を紹介している。それは、あるとき琴を純正調で調律してみたところ、「琴の胴体が自然に鳴りはじめ」て驚いたという。・・・ピアノなんてばかでかい共鳴箱なのだから、純正律で調律したらどんな音になるのか聞いてみたいものだ。
我輩が思うに、平均律はピアノの大量生産という工業的な要請だけを背景に成立したものではなかろう。「平均律の和音なんて美しくない!」と抵抗した(非ユダヤ系)ミュージシャンもたくさんいたはずだ。いやひょっとして、平均律に抵抗したからユダヤ人とかジプシーは追放されたんじゃないか?
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