2024年4月15日月曜日

大阪不案内 森まゆみ ちくま文庫 その2

標題の本の感想の続き。

前半を読んでいた頃はあんまり気にならなかった。後半になると、この人の蘊蓄の量と濃厚さに圧倒される。最後の堺の章になると、歴史と文人と建物の蘊蓄が1行に5つぐらい出てきて、ああ疲れた。飛行機に乗ったら前の座席の背後のポケットに入ってる機内誌。そこに載ってるエッセイなら、ひとつのネタで書けて原稿料をもらえる。それで家族を養える。そんなネタが、1行に5つ出てきたら、ほんま疲れまっせ。文体もなんも印象に残らへん。

ピアノでいえばオスカー・ピーターソンか。

パワフルな女性にときどき出会う。魔女みたいな人。5000年くらい生きてて、森羅万象ことごとく知らないものはない。「頼むから黙っててくれ。」と言っても、「私は大丈夫。」と、朝まで寝かしてくれない人。いや、森まゆみさんがそういう人かどうか知らんけど、その魔女を思い出した。時差ぼけ知らずの魔女。

2024年4月14日日曜日

大阪不案内 森まゆみ ちくま文庫

富士見の古書店で購入。富士見書店が消滅して、跡地にダイソーが入った。カルチャー的焼け野原の富士見だ。富士見町立図書館を除いて。と思いこんでいたら、このところカフェとかレコード店(CDじゃなくてレコード)とかオープンしている。まるでプチ上田みたいになってる。(贔屓目というやつ。)

さてこの本。半分がた読んで、我輩はあらためて大阪のことをなんも知らんと思った。

そもそも我輩は、大阪のことをなんも知らん。生まれ育ったのは、梅田から電車で20分くらいの兵庫県西宮市今津だ。なんでそんな近所のことを知らんのや?

神戸のことはわかる。全部が全部知ってるなんて言えるわけはないが、だいたいのところはわかる。なんでかというと、座標軸の原点が元町か御影くらいしかないから。ひるがえって大阪は、座標軸の原点が多すぎる。梅田。西梅田。旭屋書店。阪神百貨店のデパ地下。難波。鶴橋。通天閣。浜寺公園。エミおばちゃんが住んでた港晴。いずもや。喜楽別館。泉の広場。みみう。一心寺。じゃりんこチエ。社会人駆け出しのころ通ってた本町。

学生時代に伊藤武司に「おれ城東区なんや。わかるやろ?」と言われて、ぜんぜんわからんかった。城東区で知ってるのは、ヨネおっさんのアパートだけ。ワイの大阪知識はピンポイントすぎて、あとはぜんぜんわからんのや。地下鉄の乗りかたくらいやったら知ってるで。

そんな大阪ストレンジャーの我輩に、この本は新鮮やった。東京人の目から見た大阪入門。もちろんこの本を読んで理解でけへんかったこともいっぱいある。けど少なくとも、大阪についてなんか語ったらあかんということはわかった。

2024年4月8日月曜日

落第社長のロシア貿易奮戦記 岩佐毅 展望社

著者の岩佐さんは大学の大先輩で、フェースブック友達でもあります。学科が違うし、年齢も15歳ちがうけれど。

我輩の出た大学は、1学年に320人くらい、つまり4学年で1500人足らずという小さい学校。だけれども、それぞれが学科のなかにひきこもっていて、他の学科のことはほとんど知らない。サークル活動でもなければ他の学科の人たちと知り会うことはない。中国研究会みたいなところに所属して語劇なんかで忙しくしていると、いよいよ引きこもりになる。上3年、下3年くらいの先輩後輩の関係の中で濃密に付きあうことになる。

ロシア学科の大先輩である岩佐さんとどんなふうにフェースブックで知り合ったのか、経緯を忘れてしまった。岩佐さんはパワフルなので、どっかで彼のネットワークに引っかかったのだろう。そんな彼に勧められて手に入れたのが標題の本。

我輩みたいな低燃費ライフスタイルで暮らしていると、岩佐さんのバイタリティーに圧倒されっぱなし。おそらく我輩の20倍くらい、いやそれ以上に濃厚に生きてはります。

組織に馴染めなかったり、自分がやりたいことと違うことをやっているなと思っていたり。そんな人たちがこの本を読んだら、きっと吹っ切れると思う。

いろんな形で。

2024年4月5日金曜日

中国生業図譜 相田洋 集広社

定価3500円。アマゾンではプレミアがついて5000円くらいになっていた。ヤフオクで2800円。ブックオフオンラインで見つけてもらい、1500円くらいで購入。届いたので開封したら新品。

穿った見方をすれば、売れそうにない出版社在庫をブッコフが引き取り、アマゾンに高値をつけて出し、しばらくしてからブッコフオンラインでディスカウントで出す。出版業界で革命が進行中のようだ。

さて、内容。裏表紙にいきなり、子供売りのオバはんの写真が載っている。これでまず頭をゆわされてしまう。脳袋壊了。このオバはんの職業は、子供に特化した人身売買である。

それのみならず、こんなん職業か?というのが出てくる。

著者は1941年張家口生まれの学者先生。退職してアカデミックな世界が対象にしなかった内容を本にしてくれている。相田先生曰く、その時代の中国では他人の職業に干渉しなかったと考えられる。他人の食い扶持だから。

相当変わった先生にちがいない。



2024年3月25日月曜日

信州の鉄道物語(上) 信濃毎日新聞社

1987年に刊行され、その後に絶版となった本が2014年に再刊された。上巻は「消え去った鉄道編」である。

茅野市北山芹ヶ沢の師匠のところで農業を学んでいたころ。師匠曰く、北山には鉄鉱山があって、鉄鉱石を運ぶ貨物船路が茅野駅まで敷かれていたと云々。大東亜戦争の頃の話であり、白人捕虜がこき使われたらしい。「この地域の気性が荒いのはそのせいもある。」と、師匠は語った。その跡地はいま、風光明媚な自動車道路になっている。

この本の存在を知ったとき、その線路の歴史を知りたいと思った。手に入れて読みはじめると、あちこちに鉄道が敷かれていたことを知った。千曲川流域では現役の上電、長電だけでなく、丸子電鉄もあったという。丸子は何度も通過したことがある。そういえば、鉄道の駅があっても不思議ではない街の佇まいだ。上田と諏訪を結ぶ大門街道にも鉄道敷設の計画があったらしい。計画倒れになったり、廃止された路線のあとには、どこにも素晴らしい道路ができている。

長野県飯田市と岐阜県中津川市を結ぶ中津川線が計画され、一部着工していたという。恵那山の下に神坂(みさか)トンネルを掘る、ということは、いまの中央道の恵那トンネルに並行したルートだ。もしこの中津川線が開通していたら、塩尻から名古屋に至る鉄路は、いまの中央西線に比べて格段に楽な地形を通ることになる。ということは、のちのリニア計画にも大きな影響を及ぼしたかもしれない。

鉄道が廃止されたり計画倒れになったのは、要すればモータリゼーションに負けたということ。資源や環境やらで時代の風向きが変われば、鉄道に有利な風が吹くかもしれない。何十年か経ったら、電車に乗りながら、「ここは昔、道路しか通ってなかったらしい。」なんて語る時代が来る可能性もある。

2024年3月16日土曜日

ナゴヤ全書 中日新聞連載「この国のみそ」 中日新聞社

にわか名古屋ファンになった我輩である。

大東亜戦争のときの名古屋空襲が特筆されていて、なんでそんなボコボコにされたかといつと、航空機をはじめ軍需産業が集中していたから。その歴史が記述され、それが戦後の復興とものづくりで再生し、トヨタがいかに大きな存在になったか、と一連の流れが解説される。

いまパレスチナで進行中の空爆もあって、空襲のあたりは読んでいて辛いものがあった。でも空襲に負けないで復活した名古屋の製造業はすごいと思う。

それと伊奈製陶は長野県の伊那とはなんも関係がなくて、常滑の伊奈家のファミリービジネスが発祥だと知った。常滑はこないだ訪問したばかりなのでこころやすい。「ワテ常滑知ってまんねん」って言えるし。

東亜同文書院と愛知大学の関係もきっちり書かれている。敗戦して東亜同文書院の蔵書や文書がなんで愛知大学だったのかというのが謎だった。しかしこの本で、東亜同文書院の前身だった日清貿易研究所をつくった荒井精が名古屋出身。尾張藩士の家に生まれて中国に渡った軍人と言うのを初めて知った。

ちなみに荒井精という名前をググっても何も出てこない。紙に印刷された本でしか知り得ない知識というのがあるんだ。ネットに載っているのがすべてというわけではなく、すべての知識がネットに載せられてい流わけではない・・・と言うのは意外と意外だ。

いままで、日本における名古屋は中国における上海みたいなもんじゃないか、冠婚に見栄を張る文化は上海よりだよね・・・としか考えてなかった名古屋。その名古屋がこんなに魅力的な土地柄だった。それを知らされただけでも、この本の存在は大きい。


2024年3月13日水曜日

陸軍参謀 エリート教育の功罪 三根生久大 文春文庫

この本の著者は1926年生まれ。陸軍士官学校在校中に大東亜戦争の敗戦を迎えた。内容は、なんで日本は大東亜戦争に負けたのかという命題について、日本帝国陸軍という組織の観点から論じている。特に組織の中で指導的役割であったのが陸軍参謀である。

ざっくりまとめると、明治以来の日本で、政治の世界は東大出身者が実権を握っていた。陸軍では陸軍大学校(陸大)出身者、海軍では海軍大学校出身者が実権を持っていた。東大も陸大も海大も皆おなじくらい優秀だった。陸軍が垣根を超えて暴走したのは、東大出の政治家たちが何もわかっていないと考えたから。実際に政治家で軍事のことをわかっているのは誰もいなかった。また陸軍で国際政治のことをよくわかっている人材は、いたかもしれないけれど何も言わなかった。政治と軍事というふたつの世界が隔絶していて、その隔絶はそもそもエリート人材養成コース(東大と陸大)から隔絶していた。

陸軍で、声の大きい人や好戦的な態度の人が重用されたという人事面での背景にも触れられている。慎重な人が失敗すると閑職に追いやられるけれど、好戦的な人が失敗しても閑職は一過性で、すぐに日の当たる場所に戻される。海軍の人事制度はそうではなく、公平だったらしい。エリートを蛸壺で養成する教育制度と、人事方針の歪みが日本を戦争に導いた。

これは遠い昔の日本のことでありながら、それにはとどまらない。ウクライナの負けがほぼ確定的な今、それにもかかわらずフランスのマクロンやドイツの国防大臣、そしてドイツの絵本作家が勇ましいことを声高に言っている。ドイツ軍の最高幹部がロシアをいかに攻めるかという議論をやっている。政治エリートは軍事のことも戦場のこともわかっていない。軍人は文民統制を無視している。西欧人は今こそ、日本が惨敗した歴史から学ぶべきである。

著者はこの本の中で、チャーチルを評価している。チャーチルは軍人よりも軍事のことをよく理解していた政治家で、卓越した指導者だったという。我輩はチャーチルのことをただのビッグ・マザーファッカーだと思っていた。いろんな意見があるものだ。

チャーチルはボーア戦争に従軍して負傷したはずだ。負傷して、どうしたら負けないか考えたのだろう。ボーア戦争というのは、今の南アフリカ共和国とザンビアを舞台にした、オランダとイギリスの植民地争奪戦である。じつに勝手な戦争である。

著者はこの本の中で、瀬島龍三のことも評価している。瀬島龍三はシベリア抑留で辛酸を舐めたというが、陸軍参謀だった瀬島龍三はソ連側から特別扱いされていたという話もある。我輩が学校を出て駆け出しのサラリーマンだった頃、伊藤忠商事の大阪本社ビルで働いていた。上司が「越後さんが来ててな」とか「瀬島龍三が来ててな」みたいな話をしていて、「なんや君、瀬島龍三のこと知らんのか?」みたいに話を振られたこともある。そんな経緯もあって、瀬島龍三の評伝を買ったけど、読まないまま売ってしまった。でもこの著者の評価は、今まで読んだなかでいちばん客観的な感じがするし、説得力がある。

シベリア抑留については、よくわからない。抑留体験者だったなんたらが描いた小説「暁に祈る」は純粋なフィクションだったという。そもそもソ連と日本の関わりあいについても、よくわからない。いろんな話があって、全体像がさっぱり掴めない。3年前に逝去した義理の父は北海道出身で、ロシア人のことを露助と呼び、「敗戦の1日前に宣戦布告しやがった」と言っていた。義父はリベラルな人で、昭和天皇のことを「天ちゃん」と呼び、「死ぬまで沖縄に行けなかったんだ。そりゃ行けねえよな。」と客観的に評価していた。

以前は我輩に知識がなかったので、敗戦前日の参戦について、「そうなんですか」としか言いようがなかった。実際のところ、ソ連が参戦した翌日に昭和天皇が降伏した。沖縄で20万人が殺され、広島で14万人が即座に殺され、長崎で10万人が即座に殺され、東京大空襲で10万人が殺され、それでも降参しなかった昭和天皇は、ソ連参戦の翌日に降参した。ソ連がそれほど怖かったんだ。ソ連が参戦しなかったら、いつまで殺され続けたことやら。

【参考記事】

https://toyokeizai.net/articles/-/444666?page=2

「いまさらやめられない」が生んだ350万人の悲劇

日本は負けを承知でなぜあの戦争を続けたのか

丹羽 宇一郎 : 日本中国友好協会会長

抜粋:

拙著『戦争の大問題』で、元自民党幹事長・元日本遺族会会長の古賀誠氏は次のように述べている。

「マリアナ沖海戦の後に200万人の日本人が犠牲になった。政府はこの段階で戦争をやめるべきだった。このとき戦争をやめていれば、東京大空襲はなかった。沖縄戦もなかった。広島、長崎の原爆もなかった。戦争をやめなかった政府の罪は重い。」

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戦前、海軍兵棋演習ではマリアナ諸島が取られたらそこで演習終了。つまりマリアナ諸島を取られたら負けなのだ。対米戦の敗北は筋書きどおりとなり、戦争をやめようとしない仏の顔をした鬼によって、負け戦をずるずると延ばし、いたずらに人命を損なっていったのが、1944年6月から1945年8月15日までの日本である。

なぜ負けが明白な戦争をやめることができなかったのか。この問いは、なぜ戦争を始めたのかよりも重い意味がある。

戦前の外交評論家、清沢洌が戦時下の国内事情をつづった『暗黒日記』にこんな記述がある。

「昭和18年8月26日(木) 米英が休戦条件として『戦争責任者を引渡せ』と対イタリー条件と同じことを言ってきたとしたら、東條首相その他はどうするか?」

「昭和20年2月19日(月) 蠟山君の話に、議会で、安藤正純君が『戦争責任』の所在を質問した。小磯の答弁は政務ならば総理が負う。作戦ならば統帥部が負う。しかし戦争そのものについてはお答えしたくなしといったという」

(いずれも『暗黒日記』)

清沢は小磯総理の答弁を記した後に、「戦争の責任もなき国である」と付記した。清沢の日記中には、今日とまったく変わらない日本人の姿がある。

責任と権限のあいまいなまま戦争が始まり、最後まで明瞭になることなく、天皇の御聖断によって戦争は終わった。戦争を推し進めた指導者は、だれも責任を負って戦争をやめようとはしなかった。

戦争責任はあいまいなまま日本の戦後が始まってしまった。

戦争を始めた責任者が不在でも、戦争をやめる責任を負うことはできる。責任を負うことは国であれ企業であれ、組織のトップに就いた者の務めである。責任を負わないトップは誰がどう言おうとトップの資格はない。

いまさらやめられないと考えた指導者たちも、本気で対米戦に勝てるとは思っていなかったはずだ。

「昭和15年『内閣総力研究所』が発足した。日米戦の研究機関である。陸海軍および各省、それに民間から選ばれた30代の若手エリート達が日本の兵力、経済力、国際関係など、あらゆる観点から日米戦を分析した。その結果、出した答えが『日本必敗』である」

(『戦争の大問題』)

この報告を聞いた東條陸相は、「これはあくまでも机上の演習であり、実際の戦争というものは君たちが考えているようなものではない」と握りつぶした。つまり口が裂けても言えないが、内心日本が負けることはわかっていた。

市井の人である清沢はこの事実を知る由もないが、彼の批評眼は事実を鋭く突いていた。

「昭和19年9月12日(火) いろいろ計画することが、『戦争に勝つ』という前提の下に進めている。しかも、だれもそうした指導者階級は『勝たない』ことを知っているのである」

(『暗黒日記』)

2021年8月15日、終戦から76年を経て戦争は人々の記憶から、歴史の記録へと変わりつつある。だが350万人の悲劇をけっして記憶から消してはならない。この悲劇とともに、今もなお、おろかで動物の血を宿しているわれわれの危うさを肝に銘じておくべきだ。