2024年3月12日火曜日

ライル・メイズ:語られなかったこと

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ライル・メイズの音楽的考察

ジョセフ・ベラ(2020年11月)

ライル・メイズと出会ったのは1992年、彼が『Premonition』というアルバムのためにポール・マッキャンドレスとツアーをしていたときだった。ショーの後、たまたまバーでライルが一人で座っているのを見かけたので、行って自己紹介した。彼はすぐに座って話をしようと誘ってくれた。彼は私が今まで会った中で最も親切で魅力的な人物の一人だった。私たちは音楽について楽しく幅広い会話をした。ジャズやパット・メセニー・グループのファンならなおさらだ。 

1994年、私がパット・メセニー・グループの最初の公式ウェブサイトを作ったとき、私たちは再び交わることになった。20年以上もの間、私はPMGと仕事をし、そしてパットのソロ・キャリアが拡大するにつれてパットとも仕事をした。ライルとの友情も深まった。2009年、私は幸運にも、パットとライルの代表作『As Falls Wichita, So Falls Wichita Falls』のポッドキャスト・シリーズをプロデュースする機会に恵まれた。ライルとのインタビューの後、彼と私の間に新たな豊かな対話が生まれ、別のポッドキャスト(Jazz Online Interview: Lyle Mays)、ハフィントン・ポストへの寄稿(Jazz, Math, Tech & Lyle Mays)、私がプロデュースしているニューヨーク大学ジャズ・ポッドキャストでのインタビュー特集を通して、彼の音楽的キャリアが記録された。この交流は、彼の早すぎる死まで続いた、継続的で活発な電子メール・チェーンにつながった。

私はPMGの内部の人間ではあったが、パットやグループとの在籍期間中のライルの個人的な見解については知らなかった。私は、パットとの初期の日々やレコーディング、PMGの進化、作曲、シンセサイザー、そしてジャズ界で最も記憶に残り、愛されたバンドのひとつである彼の30年にわたるキャリアから得たものについて、彼にインタビューを始めた。

以下に紹介するのは、ライルの個人的な回想と、パット・メセニー・グループでのキャリア、そして現代ジャズ史の重要な一部についての詳細な記述である。

ジョセフ・ヴェラ(JV):この2週間、何年も聴いていなかったこの作品をもう一度聴き始めたんだ。あの録音には本当にたくさんのディテールがある。聴くたびに新しい発見がある。パット・メセニー・グループのグランド・フィナーレのようなものだったのか?

ライル・メイズ(LM):パットと私が『The Way Up』の曲を書くために集まった頃、ラジオは『Are You Going With Meh』でさえ2分ほどでフェードアウトしてしまうほど衰退していた。私たちにとって、市場は死んでいた。レコード店は潰れ、ジャズ・ラジオ局でさえ、私たちの最短カットすら流すことを許されなかった。パットと私は「市場」を考慮に入れる理由がなかったので、オールドスクール方式にした。伝統的なジャズのオールドスクールではなく、クラシック・シンフォニーのようなオールドスクールだ。私がやったのはそれなんだけどね。パットには何も言われなかったど。 

私は、『ウェイ・アップ』は現代的な用語よりも古典的な用語の方が分析しやすいと思う。メディアとして問題になるのは、古典的な交響曲の和声や動機付けに精通している現代音楽評論家がどこにいるかということだ。こう考えると、問題はさらに大きくなる。20世紀後半のジャズを理解すると同時に、19世紀の交響曲の発展を理解する批評家が現れたとしよう。その言葉はどこで発表されるのか?また、その言葉の読者はどこにいるのか?その読者とは、ドイツにいる私と数少ないペンフレンドだったのかもしれない。私が『ザ・ウェイ・アップ』を世に送り出したのは、彼らがそれを求めていたからではなく、逆に彼らが正反対のものを求めているように思えたからcz。それが私を怒らせた。 

パットと私が『The Way Up』を書く前の月に、着メロの売り上げがシングルの売り上げを上回った。それは私にとって歴史的な出来事であり、人類全体のアテンション・スパンの衰退を示していた。悲しかった。私の答えは、私たちの作品の中で最も緻密で、最もクラシカルなコンセプトの作品をデザインすることだった。私はパットのために大規模なギター・パートを書いたが、彼はその機会に立ち上がり、『ウェイ・アップ』をサウンドやスタイルにおいて交響曲の範囲外に置きながら、ハーモニー、対位法、形式においては完全に交響曲の中にとどまるギター・オーケストラを作り上げた。

『ザ・ウェイ・アップ』は私にとって個人的な勝利だったが、そんなことは気にも留めない世界に放たれた。私は、私たちがそれを成し遂げ、それを成し遂げる馬を得たことをとてもうれしく思っている。スティーブ・ロドビーやアントニオ・サンチェスのような精通した選手がいなければ、決して成し遂げることはできなかったし、パットが歴史の正しい側に自然にいなければ、プロジェクト全体が軌道に乗ることさえなかっただろう。 

結局のところ、『ザ・ウェイ・アップ』はジャズ・シンフォニーであり、私が死んだ後もずっとそう思われ続けるだろう。

Q:『Watercolors』でのパットとの最初のレコーディング・セッションについて教えてください。

『Watercolors』が私にとって興味深いのは、その経験をほとんど覚えていないからだ。若かったこと(そして経験が浅かったこと)、時差ボケに慣れていなかったこと、マンフレッド・アイヒャーに威圧感を感じたことがその理由だ。私に会って最初に彼が言ったのは、キース・ジャレットをレコーディングしたばかりで、その経験がいかに素晴らしかったかということだった。まるで私がまだ十分に怖がっていなかったかのように。

当時はパットのことをよく知らなかった。それまではクラブでのギグも数えるほどしかやったことがなかった。とにかく、私はギグに感謝していたし、新しい状況にいる若い怖がりな人たちにありがちなことだけど、失敗しないように自分のことしか考えられなかった。だから、ほとんど何も覚えていない。ひとつだけ覚えているのは、長くてルバートな「海の歌」を録音した後、マンフレッドがピアノのマイクの位置を変えたいとか、技術的なことを言い出した。パットは、演奏は完璧だと断った。二人は口論になった。最終的にマンフレッドは、自分の技術的な基準とか何とか言って踵を返した。どういうわけか、私がピアノのパートを "単に "もう一度弾くというアイデアが決まった。私のレコードではないし、私の音楽でもないし、私が発言する場所でもなかったからだ。今となっては、長いルバートで即興のグループ曲で、私たち全員がお互いを見ていて、頭のうなずきやその他のボディランゲージの合図にその場で反応するような状況で、ピアノパートだけを置き換えるという考えは、率直に言って正気の沙汰ではないし、普通ならあり得ないことだ。パットは私に謝り、マンフレッドは私に対して完全に不公平で理不尽なことを言っていると思ったとか、そういう趣旨のことを言った。 

私は自分の中のチャック・イェーガーか何かを呼び起こして、やると言った。彼らが気づかなかったのは、その数年前、『Lab 75』の『What Wash』のレコーディングで、私はもっと難しいことをやってのけたことだ。私の即興フリーソロは規格外だったので、もう一度やり直さなければならないと決めていた。ビッグバンドのレコーディングでピアノのトラックの一部を消去しなければならず、私は新しいピアノ・ソロを即興で演奏し、長い時間の後、ビッグバンドをテンポよく戻さなければならなかった。当時のエンジニアたちは私のことをクレイジーだと思ったようで、私がそのようなスタントをやってのけたことに驚いていた。

私の若いキャリアで2度目、ほとんど不可能な状況でピアノ・パートを置き換えた。マンフレッドは喜び、パットはショックを受け、私はただほっとした。私がピアノ・パートをすべてオーバーダビングしたことを知って、もう一度『Sea Song』を聴いてみてください。大変だった。

パットの作曲、私の演奏、グループのダイナミズムなど、この出来事全体に対する私の判断は、まあまあのアコースティック・ジャズ・レコーディングで、私が本当に興味を持っていたものではなかった。ECMの奇妙な洗礼だった。

カーター大統領の時代は国全体にとって幸福な時代ではなく、楽観主義が不足していたことも忘れてはならない。当時、私が給料をもらえるだけでもラッキーだと感じていたように、パットもマンフレッドとレコード契約を結べるだけでもラッキーだと感じていた。当時、私たちはどちらも力強さや自信を感じていたわけではなかったし、そのような経済情勢下で大胆な行動が報われることを示す外的証拠はほとんどなかった。

パットがゲイリー・バートンを辞め、私をスカウトし、バンドを結成して独立するという決断をしたことは、驚くべきことだった。1970年代の終わりには、住宅ローンの金利が20%に近づいていた。ロナルド・レーガンとパット・メセニーを除いては、誰も将来に賭けていなかった。 

『Watercolors』は極めて重要な瞬間に生まれた。70年代のコンボはできるけど、それだけじゃ物足りない。私たち2人は、それ以上のものを求めていた。『Watercolors』のようなアルバムの野心のなさが、私たちそれぞれに違った意味で、小さく考えることへの拒絶につながったのだと思う『。Watercolors』は、私たちそれぞれが、おそらく理由は違えど、もう二度とあんなことはしないと誓ったという意味で、重要な一歩だったのかもしれない。そういうことだった。

Q:パットとの初期の頃について教えてほあいい。また、あなた方の芸術的パートナーシップに関する最大の誤解は何だろう?

1977年、私はニューヨークの無名の無収入アーティスト時代から抜け出し、R&Bシンガーのマレーナ・ショウと高収入のギグを持ち、マイクやランディ・ブレッカー、ウィル・リー、スティーヴ・ジョーダン等と時々ギグをしていた。やっとお金を稼げるようになった頃、パットがグループを結成してバンで全国をツアーすべきだと言ったんだ。私は彼にクレイジーだと言って断った。 

私たちはすでにケンブリッジのクラブで何度か一緒にライブをやったことがあったので、相性がいいことはお互いにわかっていた。パットは頑固な男だ。いや、それ以上に強烈だった。マレーナ・ショウのギタリストが辞めたとき、パットはワウワウペダルを買ってギグを引き受けた。それはとても魅力的だった。あんなに熱心に私に言い寄ってきた人はいなかった。彼は本気で、ゲイリー・バートンを離れてもいいと思っていて、私が彼の計画のカギを握っていると私に信じ込ませた。彼のビジョンに対する信念があまりにも強かったので、私はついに降参した。彼は、私がラボ1975のためにすべてのチャートを書いたことを知っていた。彼はクリエイティブな作曲をバンドの中心に据えたがっていて、それは私にとって猫じゃらしのようなものだった。

それから早数ヵ月後。私はダニー・ゴットリーブと馬車小屋を借りていて、新しいバンドはリビングルームで準備していた。パットは借金をしてダッジのバンを買い、グランドピアノを借りた。僕は借金してオバーハイムの4ボイスを買ったんだけど、これはパットのアイデアだったんだ。当時、シンセを使うにはシンセプログラマーになる必要があったからだ。パットと私は、最初の2、3週間で「サン・ロレンゾ」と「フェーズ・ダンス」を一緒に書いた。 

私たちのパートナーシップについて多くの人が抱く最大の誤解は、私たちそれぞれがどれだけ作曲したかということだ。ジョージ・マーティンのように聞こえるものはすべて私が書いた。フォアグラウンド・パートもたくさん書いた。私はしばしば、私たちが演奏していたものの形そのものをアレンジし、作曲した。長年にわたってPMG内のサウンドのクオリティを高く保つことは、私の個人的な責任だと考えていた。クオン・ヴーは興味深い話をしてくれた。彼は加入してすぐに、リハーサルが中断すると、パットを含むバンド全員が私の方を向いていることに気づいたんだ。クオンは、私が指揮者、マエストロとしても機能していることに気づいた。いつも最初に話すのは私だった。パットは無限の知恵でその権力を私に譲ったのだ。私はグループの中で最高のマエストロであり、いつも彼とグループを素晴らしいサウンドにしてきた。典型的なウィンウィンのシナリオだった。私はグループを素晴らしいサウンドにするために懸命に働いた。私は偉大な才能と共演するマエストロになりたかった。

Q:あなたたちがECMでレコーディングしていた頃、マンフレッド・アイヒャーとの仕事はどのようなものでしたか? 

マンフレッドと私は、まるで2頭の発情期のエルクのようにぶつかり合った。私たちは喧嘩した。彼はPMGを、ヴェルナー・ヘルツォークのように指揮ができるフリーフォームのジャズを演奏するさまざまなゲストアーティストを迎えたヨーロッパのアンサンブルにしたかった。私はPMGを、皮肉なことにまったく異なるゲルマンの伝統に根ざした、高度に構成された楽曲を特徴とするアメリカのアンサンブルにしたかった。私は、構造、組織、深い合理的思考、哲学的厳密さ、秩序のチャンピオンだ。一方、現代のドイツ人は、自由な形式表現のゆるやかなアイデアを主張する。私は、バッハ、トーマス・マン、クルト・ゲーデルを指し示す、部屋の中の年寄り、保守派だった。本当に異様だった。私の人生の中で、このような戦いに備えるものは何もなかったが、20代前半の子供だった私は勝った。パットはECMを去り、私たちはアメリカン・ガレージを皮切りにアメリカのバンドになった。その時点から、すべてを自分たちでやらなければならなかった。PMGにはプロデュースは必要なかった。私たちはアイデアにあふれていた。私たちには自由が必要だった。私たちはとても有能で、とても真面目で、とても勤勉だった。

Q:初期のECM時代、あなたとパットはまるで起業家のように自らのビジネスを創造し、進化させ、既存の境界線を押し広げながら、その過程で自分たち自身にも挑戦していた。パイオニアとして活動しているときは、いろいろなことが起こった。

ハハハ。まあ、僕らがECMを変えるか、僕らが去るしかなかった。ECMが僕らを変えるつもりはなかったから。2つの巨大なエゴが対抗した。パットも同じように強い決意を持っていた。パットには当時、たくさんのアイデアがあった。当時の私とパットとの関係は、あなたが何に興味があり、私がどう貢献できるかというようなものだった。私は相乗的に働く方法をたくさん見つけた。マンフレッド・アイヒャーは非常に独裁的だった。この2人は、その面だけで対立する運命にあった。私は組織、秩序、作曲、そして非常に伝統的な音楽的価値観を大切にしていた。マンフレッドとの対立も、プロジェクトが自由であればあるほど、そこに自分を介入させたいという彼の願望を考えれば、予想できたことだった。私は彼の価値観や侵食が大嫌いだった。

ECMは多くのジャズ・マンに良い影響を与えていた。私たちは子供だった。マンフレッドはパットに最初のレコード契約を与えた。ゲイリー・バートンやマンフレッド・アイヒャーに逆らうには大きな度胸が必要だ。年長者を敬うという道徳的な教育を受けてきた。当時、私は容赦なく噛みつくことを主張したが、おそらくその意味するところは何もわかっていなかった。というのも、何年も前に大学のジャズ学科を実質的に引き継ぎ、グラミー賞にノミネートされたアルバムをプロデュースしたのだから、<とにかくやってみよう>というのが必勝法だと思っていた。

パットには、私たちが互いの自信を高め合い、他人を傍観者に追いやりながら、より共通した大義を見出し、より快適な労働条件を見出したことに気づいてほしいと思う。私の記憶では、2人ともマンフレッドの指導や指示は必要ないと感じていた。私たちは一緒に新しいクールな場所へと向かっていた。

パットと私は、マンフレッドが理解することも言葉にすることもできなかった未来を見ていた。公正を期すために言えば、パットと私はどちらもできなかったかもしれないが、少なくとも私たちはラボで時間を費やしてそれを発明していた。マンフレッドは、そのようなラボの存在すら知らなかった。

Q:ある意味、あなたとパットは、スティーブ・ジョブズとスティーブ・ウォズニアックがガレージで最初のアップル・コンピュータを作ったのと似ている。彼らは非常に進歩的で素晴らしい才能の持ち主で、意欲と決断力、ビジョン、情熱、反抗的な態度、そしてめちゃくちゃ素晴らしいエネルギーを持っていた。あとは歴史が示している。

私たちがリリースした最初のアルバム、多くの人がそう呼ぶ『ホワイト・アルバム』の最初の音は、オルタネイト・チューニングのエレクトリック12弦で、その後に巨大なオートハープのコードが続いた。それに続く最初のメロディーは、フレットレス・ベースと左手のピアノの二重奏だった。数秒のうちに、私たちはある種の室内アンサンブルのように音楽をオーケストレーションすることを示した。フュージョンやナロー・タイ・レトロ・ジャズの絶頂期、私たちは他の誰にも似ていない。私たちは曲ではなく曲を演奏した。中西部の真摯さとクラシックの原則を含む、ある種の魔法のようなスイートスポットがあった。よくわからないが、私はそのワイルドな乗り物に乗っているようで、とてもわくわくしていた。 

パットと私は、マサチューセッツ州ケンブリッジの裏手にある馬車の家を借りて、その前室でグループを結成したんだ。パットはギターの新しいチューニングやデジタル・ディレイの新しいセッティングを発明し、私はオーバーハイム4ボイスでサウンドをプログラミングし、オートハープの新しい使い方を見つけた。ダイナミクス、オーケストレーション、フォーム、テンポ、ドラマ、プレゼンテーション...すべてにおいて、高いコンセプトのディスカッションがあった。ジャムセッションとは正反対だった。私たちはグループをデザインした。設計し、構築した。

最初のアルバムのレコーディングに行ったとき、すでにマンフレッドは必要なかった。そのレコードのすべての要素をすでにデザインしていたから。エンジニアのヤン・エリック・コングスハウグとはとても仲が良かった。マンフレッドはやることがなくて退屈だったと思う。その関係は何年も続いた。

素晴らしい話だが、私はその場にいたので、もちろん客観的に近いことは言えない。私たちはジャズ界のレノンとマッカートニーと呼ばれているが、ジョブズとウォズについてのあなたの見解の方がより鋭く、おそらくぴったりだ。レノンとマッカートニーにはジョージ・マーティンが必要だった。私たち自身がPMGのジョージ・マーティンだった。すべて社内でやった。スティーブ・ロドビーがすべてのロジスティクスや編集を担当し、私がすべてのオーケストレーションと作曲を担当し、パットがヴィジョンを担当した。あるときはパットがCEO兼スポークスパーソンとして機能し、またあるときはパットと私が離れて次の作品を作り、またあるときはスティーブ・ロドビー、パット、私の3人が取締役会として採用や解雇の決定、レコーディングの現場での決定を下すなど、PMGは非常に流動的な会社のように機能していた。複雑なことだが、ほとんどうまくいっていたし、30年間もうまくいっていた。 

私たちはクリエイティブなバンドとして、また成功した会社として機能した。1978年から2008年までは非常に激動の時代だったが、私たちはその間ずっと安定していた。

Q:クリエイティブなバンドとして、また成功した企業として機能することについて、もう少し詳しく教えてください。

スティーブ・ロドビー、パット、そして私の知性を合わせると、さらに深くなる。私たちはみな頭がよく、才能だけでは満足せず、常に本を読み、学び、強くなっていた。物事について議論するとき、会話は高まり、私たちは他の人たちが知っていることから学んだ。パットと私は、スティーブがスタジオをうまくこなしているのを見て、すぐにベストプラクティスの見本として彼のスタイルを採用した。スピーディーで摩擦がなかった。

スティーブと私は熱心に読書をした。私たちはそのことで意気投合した。私がリーダーシップについて読んだ本の中で興味深かったのは、一番頭のいい男がリーダーに選ばれることはめったにないということだ。一番頭のいい男はその役割に馴染めないだろうし、おそらく求められる他の資質も欠けている。部屋の中で最も賢い男にとって最も幸せな場所は、リーダーの右手にいることであり、そこでリーダーのビジョンを支える見事な議論をすることができる。これはシナジー101であり、私はそれを完璧に実践した。スティーブと私は、パットが生まれながらのリーダーであることを認識していたが、2人ともそれに挑戦しようという気はさらさらなかった。それどころか、私たちは彼のビジョンを実現する最善の方法について話し合った。私たちは皆、意欲と野心を持っていたが、バンドをバラバラにするような、ありがちな内紛はほとんどなかった。 

私たちは実際に、企業全体の最大限の成功のために、それぞれの才能をどのように活かすのがベストなのかを話し合った。それは驚くべきことだった。私たちは才能に溢れていたが、同時に本当に賢く、何よりも一貫して効果的だった。PMGは驚くほど内省的で、オープンで、柔軟で、適応力があり、機敏で、明瞭で、双方向的で、相乗効果があった。

全盛期のベル研究所の巨大頭脳を管理すべきは誰か?最も偉大な理論物理学者?偉大な応用科学者?  いや、マーヴィン・ケリーという男が必要だった。彼はたまたま非常に優秀だったが、実際にはその仕事をするのではなく、その仕事を管理することに満足していた。これは重要な違いだ。パットは、スティーブが素晴らしいマネージャーであり、それを喜んでやり、それが得意であることを知っていた。彼と私がしばらくの間研究科学者になりたかったり、私がアプリケーションを探している間スティーブが研究したかったり、あるいはその逆であることに気づいた時、パットは嬉々としてスティーブに物事を管理する権限を与えた。スティーブは素晴らしいマネージャーであり、それを喜んでやり、優秀であることを理解していた。これはいくら強調しても足りない。私たちは自分たちがやっていることを自覚し、自分たちの役割について話し合い、PMGは音楽的な探求の練習と同じくらい応用的な思考の練習だった。ベル研究所やトーマス・エジソンにインスパイアされたバンドがどれだけあるだろうか? 

物語は、あなたが思っている以上に深い。大きく考えることをお勧めする。私たちは確かにそうした。私たちはメンローパークとマレーヒルから学び、ジョブズやウォズがコンピューティングの探求に同じ伝統を持ち込んだように、ジャズの探求にその伝統を持ち込んだ。あなたの例えは、見れば見るほど深くなる。

Q:あなた方がいかに真剣に音楽と自分たちの限界に挑戦してきたか、語ってくれたことが興味深かった。。あなたたちは伝統的なジャズ・パーソナリティではなく、より思想家であり、革新的なプレイヤーであり、作曲家であり、即興演奏家だ。ジャズ・ミュージシャンと呼べるのであれば、ある意味、モダンで進化した新しいタイプのジャズ・ミュージシャンだ。さっきあなたが言ったように、PMGは単にジャズ・バンドと呼ぶ狭い定義よりも大きな存在だった。書いた曲、自分たちの音楽言語をどのように創り上げていたかという点で、時代を先取りしていた。

急成長と急激な変化。当時、ECMのディストリビューションを担当していたワーナー・ブラザーズは、私たちにライブEPのレコーディングを急がせた。あまりうまくはいかなかったけど、いい勉強になった。そのおかげで、あるいは、いずれにせよその方向に向かっていたのかもしれないが、私たちは物事を引き締めることができた。当時の多くのジャズ・バンドは、即興演奏そのものがいいことだと勘違いしていたと思う。即興で始まり、即興で終わり、即興でセットリストを作り、即興でステージを盛り上げ、即興で演出する。パットと私は、演出やプレゼンテーションの詳細について何度も話し合った。あなたの言う通り、私たちはほとんど最初からジャズ・バンド以上の存在になっていた。私たちは二人とも熱心で有能なインプロヴァイザーであり、入念な計画と準備を最優先した。ジャズはスタイルであり、インプロヴィゼーションはテクニックであって、両者がリンクしていなければならないという宇宙の法則は存在しない。私たちは、「マイ・ガール」や「ルイ・ルイ」などで自然発生的な即興演奏をする一方で、古典的なレベルの暗譜とアンサンブルを必要とする高度に構成された曲も演奏していた。まるで、自分たちのスタイルを定義できないものにしようとしているかのようだった。私たちはふたりとも、スタイルとは音楽について考える最も浅はかな方法だと考えていた。私たちは音楽哲学者であり思想家であり、ロッカーのように見えて、無知なタワーレコードの店員が私たちの商品をどこに置けばいいかわかるようにジャズバンドのふりをしていた。自分たちをジャズ・バンドだと思ったことはない。権力者たちが私たちをどう評価していいかわからなかったから、そのように売り込んだだけだ。

ジャズ・グラミー賞を受賞し、ロック・インストゥルメンタル・グラミー賞を受賞し、ポップ・インストゥルメンタル・グラミー賞に同じアルバムでノミネートされた史上唯一のグループだ。音楽について語るのに、スタイルは最も浅はかな方法だ。私たちは素晴らしい音楽を作った。世界はそれを理解しようと奮闘したが、彼らの道具が鈍すぎ、楽器が鈍すぎ、感性が粗すぎたために失敗した。私たちは新しい時代の製品を開発する企業としても機能していた。 

世の中には、PMGを表現する比喩が欠けていた。20代の若者たちは、年金制度や出版権・演奏権の所有権によって経済的に成功することはもちろん、知的でエンターテイナーであることも期待されていなかった。私たちが多くの分野で成功したのは、それぞれの分野で考えていたからだ。私たちは型にはまらなかった。

PMGは、グラミー賞やゴールド・レコードを生み出し、コンサートを完売させ、今日まで話題を提供する会社となった。私たちはバンド以上の存在だった。しばらくの間、私たちはマテリアルだった。

Q:初めてシンセサイザーに触れたのは?  シンセサイザーを音楽で使う際のコンセプトやアプローチについて教えてほしい。

私は科学や技術関係の出版物を熱心に読んでいて、初めてシンセを買う前から音楽合成の原理を理解していた。1976年にマイクロムーグを買う前に、私はすでにローズ、クラビネット、いくつかのEFXボックスを持っていた。私がシンセを探求したのは、それがサウンド・テクノロジーの探求の自然な延長だと考えたからだ。私は高校1年生のときから、マルチトラックでサウンド・レコーディングをしていた。私はテクノロジーの新しいステップの一つひとつを、習得しなければならないものと考えていた。私は自分の時代に生きていて、警戒していたし、それぞれの新しい機会を最大限に活用したかった。私はシンセのプログラミングを、コンピュータのプログラミングを独学で学んだように、本を読んだり、主に実験したりしながら独学で学んだ。当時はほとんどそうするしかなかった。初期には市販のソフトウェア・ライブラリはなかった。当時、シンセを所有していれば、好むと好まざるとにかかわらず、プログラマーにならざるを得なかった。私の科学的頭脳はそれが大好きで、かなり得意だった。 

当初から私は、シンセがサウンドのパレットを広げ、フレンチホルンやクラリネット、弦楽器セクションなど、若い苦労人のバンドには買えないようなエキゾチックな楽器のように機能することを思い描いていた。私はシンセを、個人的な演奏の願望を表現する方法としてではなく、オーケストラのヴィジョンを表現する方法として捉えていた。その点で、シンセを個人的な表現の道具として使おうとして、ほとんど失敗した同僚たちとは違っていたと思う。私は、シンセはそのような使い方をするには原始的すぎると思っていたし、シンセでソロを弾くことにも興味がなかった。シンセをアンサンブルにどのように取り入れるかということに重点を置いていたので、シンセを使って自分をアピールするのではなく、クラシックの原理を使って音楽をより豊かで深いものにすることで、センスのいいシンセ奏者としての自分のニッチを切り開いたと思う。自分のシンセの音がアンサンブルの中に消えていくようにしたかった。成功するかどうかは溶け込むかどうかにかかっていて、目立つとクビになるような、第3楽章のセカンド・ヴァイオリン奏者のようにね。

私は、クラシックの指揮者が子供たちのアンサンブルを十分に響かせようとするようにシンセに臨み、大人たちの邪魔にならないように、それぞれのパートを十分に演奏することだけを求めた。これは重要なポイントで、PMGのアレンジはどんな厚みがあっても、ソリストであるパットと私の個性が常に発揮され、バック・パートは常に背景だった。これは偶然ではない。これはすべて高度に哲学的で、徹底的に計画され、慎重に実行された。クラシックの原則に基づいてデザインされ、考え抜かれたものだった。

Q:初期のレコーディングをより外科的に見直して顕著なのは、あなたがまだ若かったにもかかわらず、あなたのサウンドと演奏がかなり発展していた。『Watercolors』に収められているあなたのソロのいくつかを聴き、『White Album』を聴いて、そのことに気づきました。『San Lorenzoh』だけでも、あなたのサウンドが表現されている。PMGのデビュー・アルバムの1曲目に、あなたのソロがフィーチャーされているのも興味深い。

初期の作品が成熟しているというのはお世辞かもしれないが、私の経験は正反対だった。パットは1978年までにはすでに(デジタル・ディレイを使って)彼独自のサウンドを開発し、いくつかの特徴的なリリックを演奏していた。私の美学によって、音楽に合いそうな音(アコースティック、エレクトリック・ピアノ、オルガン、シンセなど)は何でも採用した。同様に、書いた音であれ即興の音であれ、演奏している特定の音楽に最も適していると思われるものを選んだ。当時は、自分には個性的なサウンドもスタイルもないと思っていた。

今、私はずいぶん違った見方をしている。当時は、すべての曲を同じ音で演奏したり、すべてのソロを "自分のリックで満たしたりしていないから、自分には際立った個性がないと考えていた。私の未熟な脳が、個性的なスタイルというものをそう考えていた。

私は、ひとつの特徴的なサウンドを探すことをあきらめ、(簡単に識別でき、コピーできる)特徴的なリックのコレクションを探すこともあきらめて、ツアーのオフステージやステージの上で、リアルタイムで作曲を続けた。

そのスタイルは、深さ、広さ、知性、そして簡単に特定されたりコピーされたりすることのないものすべてに基づいていた。今、人々は、私には特徴的なシンセの音、特徴的なピアノの音、そしてユニークなアプローチの両方があると言う。皮肉なものだ!私は、スタイルを追求することを否定し、その代わりに深く掘り下げることによって、自分の「スタイル」を見つけた。人々が聴いて反応するのは深みであり、それには時間がかかる。

当時、私の最初のレコードは酷評され、2枚目のレコードも酷評された。今、人々はこの2枚についてまったく違った形で語っている。時間の恩恵を受けた歴史家たちによって、私はまったく違った形で記憶されることになる。

パットはホワイト・アルバムのオープニングを「サン・ロレンソ」ではなく「フェイズ・ダンス」にする予定だった。マンフレッド・アイヒャーは、「サン・ロレンソ」の方がダイナミック・レンジが広かったので、LPでは最初に演奏しなければならないと主張した。世界は偶然にも私のソロを最初に聴くことになった。 

Q:クリエイティブな面では、あのような大きな特徴的な曲をいきなり書くというのは、さぞ興奮した。いろいろな意味で、これらの曲はあなたの成功の基盤であり、パットとのパートナーシップであり、独自の音楽言語でした。それが歴史に残る。

『サン・ロレンゾ』と『フェーズ・ダンス』は、とても幸先のいいスタートだった。あの2曲はそれ以上のものだった。ドラマがあり、テンポがあり、形の使い方が面白く、メロディ、ハーモニー、リズム以外の部分に創造的な思考が注がれた曲だ。例えば、私は『Phase Dance』のイントロを書いたが、これはオーケストレーションと作曲のドラマのちょっとしたレッスンだ。

ほとんどの人は細かいディテールにまで注意を払わない。パットはしばしば私の天才ぶりを称賛したが、まさにそのディテールこそがマジックを生み出した。普通の人は自分の好きな映画の脚本家や撮影監督の名前も知らないだろう。監督も知らないかもしれない。ほとんどの人はスターを見ることができない。

私がパットに全力を捧げたのは、それが私に栄光をもたらすからではなく、芸術のためであり、正しいことだったからだ。PMGは非常にプロフェッショナルで洗練されたプレゼンテーションだったが、骨にたくさんの肉がついていた。それを読み解くには、音楽用語と音楽の歴史を理解する必要がある。

Q:『Offramp』は、パットがシンクラヴィアとローランド・ギターのシンセサイザーを演奏するようになったという意味で興味深いアルバムだが、あなたのシンセサイザー演奏は、音楽の中でかなり目立っている。グループ全体のサウンドも進化している。この時点(1981/82年)で、あなたたちは明らかに新しいゾーンに入った。スティーヴ・ロドビーをベースに加えたことで、グループに何が起こっていたのか? あなたとパットが意図的にグループのサウンドを進化させたのか、それともウィチタ以降に自然に進化したのか、そしてそのレコーディングで学んだことは何だったのか?

『Offramp』が私たちのサウンドに大きな広がりをもたらしたのは、テクノロジーは変わったけれど、原則は残っていたからだと思う。私たちは、クラシックの伝統に根ざした作曲をしながらも、(オーケストラの伝統に根ざした)新しいアンサンブル・サウンドを作り出し、ジャズをこれまでにない場所へと導いた。これはスティーブ・ロドビーの加入によってさらに知的になり、注意深く考え、知的な議論を重ねながら行われた。

「アー・ユー・ゴーイング・ウィズ・ミー」は、ラヴェルの「ボレロ」なしには存在し得なかった。ドビュッシーがなければ「オー・レイト」は存在し得なかった。私たちはモダンジャズファンに、企業欲の時代にフランス印象派について考えてもらおうとした。私たちはそれを説教することなく成し遂げた。私たちは、ほしくなるようなほどクールな製品を作ることで、それを実現した。資本主義の道具を使って、教育し、啓蒙した。私たちのファンは楽しませてもらっていると思っていたが、それ以上のものを得た。今でもマッドウィザードのような笑いがこみ上げてくるよ。あれはすごいトリックだった。 

『ウィチタ』のレコーディングから『オフランプ』のレコーディングまでの期間をスキップすることはできない。公式に記録された変貌の例はないが、私たちはクラブで演奏することより、コンサートホールで演奏するバンドになった。その過程で、私たちはより映画的でオーケストラ的になった。音響や照明のスタッフも雇った。これらは大きな変化だった。私たちはまだジャズバンドと呼ばれていたが、トラックやバスを使ってロックバンドのように振る舞い、ライブをやる代わりにショーを開催した。ステージには4人から5人になったが、変化はそれよりもはるかに深かった。私たちは大きくスケールアップした。クルーが大きくなり、ビジョンが大きくなり、考え方が大きくなった。ウィチタとオフランプの間が、現代のPMGが生まれた時期だ。 

ステージ上のアーティストが2人から4人になったことで、組み合わせ数学が示唆するように可能性が爆発的に広がった。スティーブ・ロドビーとナナ・ヴァスコンセロスがバンドに加わったことで、私たちの可能性が広がり、パットと私はついていくのがやっとだった。私たちは作曲を続け、5人目のメンバー、歌い、パーカッションを演奏できる人が、初期のPMGに欠けていたミッシング・リンクだとわかった。それに加えて、テクノロジーへの相互の探究心が、成熟したPMG、つまりFirst Circleで生まれたバージョンを作り上げた。

Q:シーケンスに関して、作曲とライブ・パフォーマンスという点で、あなた方にとってどのような効果がありましたか?  ライブ・パフォーマンスでシーケンスを使用する際の本当の難しさとは何か?また、ライブやレコーディングでシーケンスを使いすぎたことはありますか? 

ウィチタからシンクラヴィア時代への移行について考えてみると、最も重要な新要素はデジタル・シンセシスではなく、シーケンサーだった。私たちが初めてシーケンサーに取り組んだのは、『ウィチタ』で使われた原始的なドラムマシンでした。「Are You Going with Me」はレコーディング前にライヴで演奏され、バンドが最初から最後までシーケンスに合わせて演奏したのはこれが初めてだった。パットや私、ダニー・ゴットリーブにとっては真新しいことだったので、ライブでどうやるかを学ばなければならなかった。スティーブ・ロドビーにとっては、スタジオで何度もオーバーダブをやっていたので、古くからあるやり方だった。スティーブにとっては簡単なことだったが、他のメンバーにとってはそうではなかった。私たちは、録音済みのトラックを使って演奏する方法と、ライブ・パフォーマンスに合うようにシーケンス・トラックを作曲して録音する方法の両方を学ばなければならなかった。 

プリシーケンスされた素材を使うべきかどうかという大きな疑問は、すぐに取り払われたと思う。パットも私も、できるんだからやるんだ、本当の問題はそれをどれだけ芸術的にできるかということだと感じていた。他のバンドはこのトピックについて政治的な立場をとり、シーケンサーは邪悪だとか説教をした。パットと私はシーケンサーというアイデアを受け入れ、シーケンサーをいかに芸術的に使うことができるかというような、正しい質問をしたんだ。テクノロジーは常に物事を変化させる。その変化と戦うことは失敗する運命にある。その変化に影響を与えようとすることは、当時も、そして今も、より賢明な道であり、常に賢明な選択であると私には思える。これは最近ではあまり議論されない話題だが、当時は非常に重要なことだった。ジャズ界の大半は、私が神学的推論と呼ぶものを用いてシーケンサーに反対していた。パット、スティーブ、そして私は無神論者で、誰も何も崇拝していなかったし、どんなテクノロジーを探求することにも何のためらいも感じていなかった。 

私が言いたいのは、PMGはジャズの神学的な制約に縛られることなく(真のジャズというものは存在しないし、存在し得ないと考えていた)、賢く、素早く、テクノロジーが出現するとすぐに把握し、すべての疑問を "これでどうやってアートを作るのか?"という大きな問いに折り返したということだ。それは常にアーティストの問いであるべきだと思う。これはとても興味深いテーマだ!

Q:あなた方が全盛期だった頃、ジャズ愛好家たちから、あなた方がシーケンスすればするほど、音楽がソウルフルでなくなったり、不毛になったりするという不平を聞いたことを覚えています。あなたはその批判を信じますか?あるいは、そう感じている人たちに何と言いますか?

最初に断っておくが、PMGは初日から、原理主義的なジャズ批評家や "唯一無二の音楽 "を信奉する人たちのことなど気にも留めていなかった。宗教や政治における原理主義は危険で邪悪なものだ。芸術の分野では、利害関係は低いかもしれないが、誤った考え方は同じだ。芸術の全歴史は、(専門家による実行と結びついた)革新が常に勝利することを指し示している。それは常に攻撃され、たいていはそれを最も理解せず、最も失うものが多い人々によって攻撃される。

PMGが革新的だったのは、シーケンサーを基本的なベースやドラムの機能の代わりに使うのではなく(当時も今日も、ほとんどのエレクトロニック・ミュージックがそうであるように)、ジャズ・アルバムのオーバーダブのように、人間が重要なパートをすべて演奏し、シーケンサーが甘さだけを加えるという、ライブ・インターフェイスの方法を見つけ出すことだった。チャーリー・パーカーがストリングス入りのアルバムを出したとき、誰も文句を言わなかった。私たちは、ストリングスやその他のオーバーダブを生演奏で追加する方法を考え出しただけで、肝心な部分は生演奏者に任せて、シーケンスで演奏するオーケストラやその他のエフェクトのために他のパートを追加したのだ。

これは簡単なことではなかったが、私が言いたいのは、オーケストラ、ビッグバンド、サンバ・スクール、あるいは私たちが夢見るあらゆるものの伴奏で演奏する、生のバーニング・カルテットの本質を私たちは保っていたということだ。私たちを攻撃した人たちは、実はエレクトロニック・ミュージックの貧しい実践者たちを攻撃していたのであり、生のリズムセクションを合成リズムに置き換えた人たちを攻撃していたのだ。私たちはそんなことはしていない。私たちは、主要なものはすべて生演奏で演奏した。この点については、攻撃者たちは決して気づかなかったようだが、私たちのサウンドをより大きく、より広く、よりきらびやかに、より珍しく、よりモダンに、そして最終的には(私の意見では)より面白くするためにテクノロジーを使ったのだ。要するに、私たちはテクノロジーを使って、路上ライブでオーバーダブを演奏させる方法を考え出したのだ。これは単純な文章だが、ビジョンと実行は別の問題だ。私たちは、ライブの即興バンドのパフォーマンスと、スタジオのあらゆるマジックを、他の誰も思いつかなかった方法で統合することに成功した。私たちは何か新しいことを、違うことを、スタイルと創造性と専門性をもってやっていた。私たちは、ほとんどの人が自分たちがルールだと思っていることにさえ気づかないようなルールを、自分たちが破るまで破っていた。 

最初、私たち(バンド)はシーケンスをどう考えたらいいのかよくわからなかった。キーボード・リグの延長なのか?そのため、シーケンスの開始と停止を担当する別のテクニシャンが割り当てられた。その結果、シーケンサーのテクニックを担当するミュージシャンが必要だということがわかった。それは進化であり、新しい仕事内容、新しいリハーサル方法、シーケンス自体のさらなる改良につながった。すべてが他のすべてに影響を与えた。最終的に、ライブ・パフォーマンスはレコーディング・バージョンに非常に近かったが、それぞれに到達する方法はまったく異なっていた。これはPMGにとって非常に重要な時期であり、音楽技術の発展においても重要な時期だったと思う。

以前から取り上げたいと思っていたことだが、シンクラヴィアのシーケンサー(およびその他のもの)が、パットと私の作曲プロセスを徐々に変えていった。当時は、素材だけでなく、バンド・サウンドやコンセプトを開発していたので、それは理にかなっていた。私たちは、成長し変化していくアンサンブルのために、どのように作曲すればいいのかわからなかった。ナナの時期が安定し、スティーヴの能力が統合されると、パットと私は自分たちが持っているものを理解しているという自信を深め、当初から作曲をより詳細にデザインするようになった。ファースト・サークルに来る頃には、最初からあらゆるものをデザインできるようになっていた。各プレイヤーができること、テクノロジーができること、そしてその結果がどのようなサウンドになるかを熟知していたので、ビッグバンドのチャートを書いているような気分だった。ファースト・サークル』は、リハーサルでも、最初のライブでも、その後何年経っても完璧に聴こえた。修正する必要はなかった。生まれながらにして、このサウンドだったのだ。

これはいろいろな意味で驚くべきことだ。これまでは、路上でしばらく演奏し、実験し、スタジオでレコーディングし、オーバーダビングして、それをライブでどうやるかを考えていた。シンクラヴィアのおかげで)初めて、ライブで演奏する前に、リハーサル・スタジオでオーバーダブも含めてアルバムの完成形を聴くことができた。これはとてもエキサイティングで、さらなる野心と複雑さにつながったと思う。

Q:レコーディングの前にアイデアやテーマについて話し合ったのですか?  例えば、『Still Life(Talking)』については、ブラジリアン・テイストを考えています。

プロジェクトの前にはいつも会話があったけれど、パットと私が一緒に座って書いてみて初めて方向性がはっきりしたんだ。Still Life』(Talking)の前に、"もっとあからさまなブラジリアン・サウンドを追求したいかい?"というようなやりとりがあったかもしれない。「そうだね。

パットも私もブラジルとブラジル音楽が大好きだったから、そういうプロジェクトは必然だった。『Offramp』と『First Circle』の成功を受けて、パットはマリンバとバイブのセットを買うために資金を投じ、マサチューセッツ州ウォルサムにあるエアロスミスの古いリハーサル倉庫を借りた。それでしばらくの間、私たちはまるで研究科学者のように、材料の特性を探求するために毎日出勤していた。パットは『ミヌアーノ』の口笛の部分をすでに書いていたが、それは6/8の16小節で、アルバムにするつもりだった。私はそれが気に入っていたが、それだけでは不十分だったので、自分の部屋に引きこもって、ペドロの後任として雇った2人の新しいボーカリストのためのフィーチャリングとして想像しながら、スルメのようなイントロを書いた。パットが気に入ってくれたので、続けてパットが買ったばかりのマリンバのために何か書いた。そのパッセージは、新しい楽器をフィーチャーするために書いたんだ。パットはその楽器で何をしたいのか、明確なアイデアを持っていなかった。私は単純にその楽器のために作曲を始めた。パットもそれを気に入ってくれて、それに続くエネルギッシュな間奏曲を提案してくれた。そこで私は、金管セクションの対位法を作曲して再録音に戻し、エンディングを書いた。こうして16小節のメセニーが9分のPMGになったんだ。

だから、あなたの質問に直接答えるなら、事前の話し合いはほとんど意味がなかった。私たちが仕事を始めると、事前に議論していたことよりも、新たな結果が今後の仕事を形作ることになった。理論的というより科学的だった。 

PMGで私たちの多くが興奮したのは、音楽の限界を押し広げることだった。あなたたちは、当時の他のジャズ・グループとは違って、私たちに耳を開くことを要求した。あなたはどう思いますか?

PMGは、ジャズの領域外から多くの要素をミックスに取り入れたので、私たちの時代にジャズと考えられていたものの境界を常に押し広げていた。多くのルバート・パッセージはクラシックの伝統から来ている。私たちの多くのグルーヴは、ブラジルのサンバからテネシーのロカビリーまで、民族的な伝統から生まれたものだ。全体的に、パットはテーマを発展させたり、変化させたり、組み合わせたりすることで、あらゆるものにヨーロッパ的な感覚を持たせてくれた。要するに、PMGには巨大なデータベースと超高速のプロセッサーがあり、今までのものに合わせるのではなく、新しいものを作りたいという願望があった。私たちに課せられた使命は、新しく、かつ奥深いものであることでした。

外見的には、私たちのコンサートがハプニングとして評判になったことで、まったく新しい観客を呼び込むことができた。ジャズとロックだけでなく、エレクトリックとアコースティック、音楽とテクノロジー、クラシックの形式と現代的な即興、スペクタクルと実質を融合させた、新しいタイプのフュージョンだった。私たちが当時のハミルトンだったのは、過去と現在を融合させ、それをピンク・フロイド流の言葉で再構築し、そのどれもがとても上手だったからだ。大衆は常に、卓越し、総合することのできる賢い人々に反応すると思う。

最後に、PMGを作り上げた重要な点は、パットと私が2人ともスポットライトを浴びることのできる質の高いソリストでありながら、2人ともライターだったということだと思う。その証拠に、私は『Imaginary Day』を提供している。あのアルバムは、私が思いつくどのアルバムよりも多くの領域をカバーしている。

Q:一言で言えば、なぜPMGはあれほど成功したと思いますか?

成功者は、自分の成功は自分自身の決断、行動、洞察力によるものだと思い込む傾向がある。本当の姿はもっと複雑で、分析が難しいと思う。PMGの場合、ラジオ局の独立系プログラマー(および独立系ラジオ局)、ある程度知識のあるスタッフがいる実店舗のレコード店、全国にある数多くの小さなジャズクラブ、娯楽の選択肢の中でより大きな割合を占める音楽産業(ケーブルテレビ、インターネット、ストリーミング、スマートフォンが登場する以前)、巨大企業の影響力がほとんどなく、その結果、選択肢がどんどん少なく圧縮されていった時代に、私たちが登場できたのは非常に幸運だったと感じている。PMGの成功を完全に説明することはおそらく不可能だが、私たちが完全にコントロールできなかったそれらの要因は認めなければならない。そうしたことを無視するのは思い上がりだ。 

2024年2月12日月曜日

深夜特急 沢木耕太郎

「えっ!読んだことないの?」と内儀。「深夜特急」といえば沢木耕太郎というのはもちろん知っていたし、どっかでちょっとづつ読んだ記憶がある。「手元に置いて、ちょっとづつ読みたい」と内儀が言う。いいんじゃないか、と考えて、セットで買った。

読みはじめていきなり辛くなった。インド人のバジャイ運転手を信用するくだりである。そんなんあかんに決まってるやん。ドツボ決定。トランプ賭博でカス札ばっかりつかまされるやつ。愛すべきやつだけど、近くにいるとこっちまで巻き込まれる。

第1巻のおしまいで、山口文憲さんと沢木耕太郎が対談している。それでわかった。おふたりとも1948年生まれ。我輩よりきっちり10年歳上の、団塊の世代である。

我輩に近すぎる。物故した小田嶋隆が言ったように、団塊の世代のあとは焼け野原で、何も残っていない。個性が濃く、主張が強く、声が大きい人たちが、音楽であれ小説であれビジネスであれ、あらゆるところに指紋をべたべたつけている。世界のどこに行っても、必ず団塊の世代がいて、語りに語る。彼ら彼女らの語りを聞くのは、我輩の世代である。

1983年に仕事でバグダッドに行った。当時イラクはイランと戦争をしていて、灯火管制された真っ暗なバグダッド空港に降り立った。真夜中である。成田からイラキ航空の中古ジャンボジェットに乗り、バンコク、ムンバイ、クエート経由で10何時間もかけてやってきた地の果て。そこで7ヶ月過ごした。

そこにも濃い先輩がいた。ある海運会社の人で、酒を飲んだとき彼が語った。エジプトのどこかの場末の売春宿の話である。「モスレムの女は首から下をぜんぶ脱毛するんだ。」「超デブのでっかい女が、暗い場所で、幼女みたいな股をひらいてカモン!ミスターって誘うんだ。」「それでどうなさったんすか?」「もちろん逃げて帰った。」

もちろん逃げて帰るような先輩ではない、と思いつつ、世界に秘境はないと思った。世界の果ての秘境に行っても、団塊の世代が道端で焼きそばを食べていたり、パブで尾根胃酸と踊っていたりするんだ。開拓すべき世界、発見すべき未知のものごと。団塊の世代のあとにそんなもんは残されていない。

開高健みたいに30年くらい離れていたら、ぜんぜん違う世界のこととして読める。20年くらい離れててもいいんだが、そのへんに生まれた人たちはめっちゃ内向してるようで、あんまり知らない。団塊の世代は我輩にとって近すぎる。読んでいて辛くなる。

内儀と沢木耕太郎は18年くらい離れているから、平気で読めるんだな。

2024年1月8日月曜日

うまくてダメな写真とヘタだけどいい写真 幡野広志 ポプラ社

ヨシタケシンスケのイラストに惹かれて手に取った。ちょっと読んだら内容がとてもいいので買った。松本のイーオンの未来屋書店。新刊本を買うなんてじつに久しぶり。富士見の書店が撤退して以来なかったことだ。その未来屋書店もセルフレジ。

25年前、1999年に死んだオヤジが写真好きだった。芦屋フォトクラブに属していて、ヘタでダメな写真ばっかり残した。子供(つまり我輩と兄貴)の写真以外はぜんぜんダメだった。

兄貴はグラフィックアートの才能があって、西宮市展で一等賞を取ったりした。賞を狙ったわけでもないのに。きっと、カメラとか機材が身近にあったからだろう我。輩はグラフィックの才能はあんまりない。カメラとか機材が身近にあったのに。

ちかごろ我輩は、キャノンのivis mini Xという機材を持ち歩いて、踏切とか川とか橋とか隧道とか暗渠の写真を撮っている。とても楽しい。フェースブックの「トンネル 橋 ダムのある風景」というグループに投稿していたりする。評価はあってもなくても、農道を歩いたり水路を遡ったりするのが楽しいから、いい。

ivis mini Xはほんらい、音楽をやる人たちが狭いスタジオで記録できるように作られた。画角はほぼ魚眼の超広角と普通っぽい広角の2種類しかない。動画も撮影できる。音はすごくいいらしい。RAWモードはない。

その機材で、楽しくうろついて楽しく撮影している。そんな我輩を元気づけてくれる本。そして何よりも、力の抜けた感じの文体で語られる内容がとてもいい。

2023年12月11日月曜日

浄土三部経 上下 岩波文庫 中村元他

中村元さんの解説を期待して購入したのだが、弟子の早島鏡正さんと紀野一義さんがおもに仕事をしたようだ。早島さんの解説もたいへん興味深い。あとがきにご自身の背景に触れたところがある。それによると、顕本法華宗の家に生まれ、広島の原爆で父母姉妹知人を失い云々と。人間的な記述である。法華宗の家に生まれながら阿弥陀経を訳出するという仕事は、なんだかよくわからないところもあるけれど、仏教学者というのはそういうもんかもしれない。

観無量寿経にはこの教えが説かれた背景の説明があって、それを読みたかった。いままであらすじしか知らなかったのだが、翻訳を読むとほぼその通りだった。簡単にいうと、マガダ国王のビンビサーラ王にはアジャータシャトルという王子がいて、王子が父王を幽閉して殺そうとした。ところが21日経過しても死なないので「あれれ?なんでやねん?」と思って部下に尋ねたら、「母君が身体にはちみつヨーグルトを塗りたくって面会に来てはりますえ。王サンはそれを食べて生きてますねん。」王子は怒り狂って母を殺そうとしたけれど、ジーヴァカ医師が「そらあきまへん。父王を殺した王子は過去にもいてたけど、母を殺したらアウトカーストと同じになってしまいますがな。」と諌めたので諦めた。

母であるヴァイデーヒーが身体中に蜂蜜入りヨーグルトを塗りたくって云々。勝手な推測ながら、王子が18歳くらいとして、母は30代。ボリウッド映画で歌い踊るような豊満系の美女がサリーを脱いで身体中に蜂蜜入りヨーグルトを塗りたくり、幽閉された王に面会する。部屋に入ってサリーを脱ぎ、王は王妃の豊満な身体の蜂蜜入りヨーグルトを貪り舐める・・・童貞僧が想像したら爆発しそうな光景ではないか。

我輩の妄想が当たっているかどうかは別にして、他の解説本では王妃が身体に蜂蜜入りヨーグルトを塗りたくって云々「と言われている」みたいな婉曲表現だった。でも原本翻訳本ではもろにそう書いてある。なんで、「と言われている」みたいな婉曲表現にしたかというと、やっぱり童貞僧が爆発しそうになって、その場面しかワテ憶えてまへん・・・みたいな事象が頻発したのではなかろうか。我輩の妄想だけではないと思う。

ま、それはそれとして。注釈や解説によると、浄土三部経のどれかは失念したけれど、成立したのは中央アジアだという。なんでわかったかというと、インド言語の原典写本に中央アジア方言が多用されているから。そもそも子に幽閉され殺されようとした親が絶望状態の中で求めた浄土思想。それがアフガニスタンみたいな荒っぽい土壌で生まれ、戦乱の時期の中国で中国語訳されて広まった。そして日本に移植され、戦国時代に一向一揆で北陸に広まった。概観すると、「死んだらホトケ」みたいな単純な思想が広まる背景には、やっぱり戦争という極限状態でのみ広まるという特性があるんじゃないか。

安富信哉さんが「浄土の眷属 王舎城の悲劇に照らし返されるもの」という文章でそれをちょっとだけ指摘している。もっと掘り下げて、イスラムにせよ浄土思想にせよ、戦争という極限状態でのみ広まることができること、逆に平和が長く続く時代には、その勢いを保持するのが困難なこと、迫害とか弾圧とか戦争によって少数意見(たとえば浄土三部経では女人成仏が許されてないやん、とか)が淘汰され、単純化された教義が迫害とか弾圧とか戦争によって「のみ」広まるという現象を、誰か研究してもええんじゃないかと思う。

誰かそういうのを研究してる文献があったら紹介してください。パレスチナ人がイスラエル政府によって惨殺されている今だから。

アジャータシャトルがなんでそこまで父母を恨んだか?それは、おトシだった父王がバラモンに占ってもらったところ、山の洞窟で修行している仙人が死んだら、その生まれ変わりで王子を授かると言われた。王は仙人が死ぬのを待つのがかったるいので、あっさり殺してしまった。殺した途端にヴァイデーヒーが懐妊した。でも臨月になって王も王妃も不安になったので、高い崖っぷちで出産して、赤ちゃんを崖から落として殺そうとした。でも赤ちゃんは小指の骨を折っただけで助かった。その赤ちゃんがアジャータシャトル王子。だから漢訳で王子の名前は未生怨とされている。

その因縁があかされたのが、お釈迦さんが死ぬ直前の涅槃経。お釈迦さんがなんでその因縁を死ぬ直前までとっておいたのか、というのも興味深い。


2023年11月29日水曜日

我輩の手記02

 明治時代以来の海外情報収集がなんで民間主導だったか。それはおそらく、政府にお金がなかったからでしょう。たとえば世界で一番きびしく、かつ伝統文化を破壊する不条理な酒税法が制定されたのは明治13年つまり1880年。それ以来、厳しくされることはあっても、緩和されたり見直されたりしたことは基本的にありません。国家の面子というのはほんま不条理です。国家の面子といえば、我輩が働いている下諏訪には首塚が残されています。

そのストーリー。相楽総三はじめ8人の赤報隊が官軍の広報部隊として、「新政府になったら年貢半額(とか免除)」と宣伝するため京都を出発し、中山道を下諏訪までやってきた。その頃には官軍が優勢になったので、赤報隊が官軍にとって都合が悪くなった。相楽たちはニセ官軍とされて、1868年に処刑された。相楽たちの名誉が回復されたのは1928年。

60年のあいだ国家は事実を認めなかった。

バイデン政権はいまやアホの塊なので、ロシアのエネルギープロジェクトへの制裁をはじめた。日本が官民あげて出資するプロジェクトです。これはもうG7への踏み絵。ロシアの天然ガス買うか、それとも俺んとこの天然ガス買うか?俺んとこは値段数倍やけどな。・・・。誰も踏まなかったら、帝国の没落が加速するだけやん。踏み絵を踏んだら、G7で民主主義が没落する。帝国って、自由と民主主義が旗印やなかったんか?

あれれ?また既視感。コンテナには自由と民主主義のラベルが貼ってはるけど、中に入ったら自由も民主主義もない。

創価学会というコンテナには、栄光勝利平和の三色旗が貼ってあって、「日本を前に」とか「小さな声を聞く力」とか自由とか民主主義みたいなことも書いてある。でも中に入ると、自由も民主主義もない。どっちかというと、それを捨てたい人たちが入ってくる。公明党が与党でいるのに、非正規労働者の声は無視され、日本はどんどん後退する。

日本政府が自由と民主主義を捨てたいから、自由と民主主義を旗印にしているG7に入ってる。そうと仮定したら、いまいちど真剣にエーリッヒ・フロム先生の「自由からの逃走」を読むべき時代なのかもしれない。

バイデン政権はいまやアホの塊なので、ロシアのエネルギープロジェクトへの制裁をはじめた。日本が官民あげて出資するプロジェクトです。これはもうG7への踏み絵。ロシアの天然ガス買うか、それとも俺んとこの天然ガス買うか?俺んとこは値段数倍やけどな。・・・。誰も踏まなかったら、帝国の没落が加速するだけやん。踏み絵を踏んだら、G7で民主主義が没落する。帝国って、自由と民主主義が旗印やなかったんか?

あれれ?また既視感。コンテナには自由と民主主義のラベルが貼ってはるけど、中に入ったら自由も民主主義もない。

創価学会というコンテナには、栄光勝利平和の三色旗が貼ってあって、「日本を前に」とか「小さな声を聞く力」とか自由とか民主主義みたいなことも書いてある。でも中に入ると、自由も民主主義もない。どっちかというと、それを捨てたい人たちが入ってくる。公明党が与党でいるのに、非正規労働者の声は無視され、日本はどんどん後退する。

日本政府が自由と民主主義を捨てたいから、自由と民主主義を旗印にしているG7に入ってる。そうと仮定したら、いまいちど真剣にエーリッヒ・フロム先生の「自由からの逃走」を読むべき時代なのかもしれない。

今津で創価学会に入っていたのは、おもに主婦層と、半端な男性たち。何年か家族と離れていて帰ってきたけれど、夏でも半袖を着ないおじさんとか。そのおじさんはとても心優しい人で親しくしていましたが、あるとき地域の会合で、「池田先生のなにかあったら俺は・・・俺は・・・。」と思い詰めたように語りました。「また塀の中に行くということなのかな?」と思いましたが、それは言えません。いささか極端な例ながら、そんな人もふつうに受け入れられたコミュニティーでした。

シーアのモスクで胸叩き儀式に参加しても違和感を感じない。パキスタンで民族服を着てサンダルを履いて市場に歩いて行き、大衆に紛れてしまう。チャイナタウンで北京語を話して大陸移民と思われ、犬以下の扱いを受ける。それでぜんぜん平気なのはおそらく、今津で創価学会だった経験があったからでしょう。

ニューヨークでは別の経験をしました。ニューヨークの創価学会には、F武書店(いまのベネッセ)の現地法人副社長や、当時は総領事館勤務の外交官で、のちに参議院議員になるE藤O彦さんなどエリートがいました。もっともE藤さんは地元の会合にはぜったい出ません。幹部がE藤さん宅に伺って指導を受けるくらいなので、普通の会員は知る由もない。

ブラスバンドにはジャコ・パストリアスやマルカス・ミラーとやっていたケンウッド・デナードがいたし、他にも大野俊三さんとか有名なミュージシャンやアーチストがいた。住んでいた地域にはキャブ・キャロウェイの娘のクリス・キャロウェイがいたりして、今津とはぜんぜん違う世界でした。

創価学会をやめて日本に帰ったばかりの頃、妙言寺の住職と話していてこんなことを言われました。創価学会臭が抜けるのに10年はかかる、と。「これから創価学会はどうなるのか?」てな話をしていて、こう言われました。「日蓮正宗の700年余の歴史で生まれた異流儀は、万単位で数えられる。時の流れのなかで、創価学会もまた本尊を持たない単なる異流儀として歴史に埋没するだろう。」

それから30年以上が過ぎました。多少は臭みが抜けたかな。そんな時、同級生の訃報が届きました。

彼は朝鮮高級中学の生徒たちにボコボコにしばかれた経験もありましたが、それでも少数者のことをよく理解していました。学生だった当時、我輩が創価学会の中の人だったというのも知っていて、「創価学会でも思想信条の自由があるから共産党に投票してもええわいな」みたいな話をしていました。創価学会にも在日がおるで、っちゅう話になって、彼曰く、「あいつら学会と総連と民団、二股三股かけとぉで。ふつうやで。」と言いました。総連というのは朝鮮総連、北系です。民団というのは大韓民国居留民団、南系です。我輩にとっては目から鱗が落ちるようなコメントでしたが、異国で生きるための知恵、いざというときのセーフティネットという意味でも、見識です。我輩もおかんも、そんなダイナミックな考えかたを知ってたらよかったなと思います。ちなみに彼の亡くなったオヤジさんはバリバリの共産党、彼も共産党支持でした。

もうひとり、同学で我輩と同じ立場の中の人、つまり親が創価学会だったので自動的に創価学会員にされてしまった親友がいました。彼は我輩よりずっと真面目でした。行田道雄先生のもとでマルクスやヘーゲルなどを真剣に学び、いま読んでもとても難しい卒論を書きました。こないだ35 年ぶりに連絡を取ると、創価学会に完全に洗脳されていました。よくあることとは言え、寂しい限りです。

洗脳された親友の手紙にはこうありました。「私は創価学会の信心を続けていきます。」・・・我輩はこれに強烈な違和感がありました。創価学会の信心とな。創価学会員がやっているのは、第1に自分が献金し、他人にも献金させること。第2に公明党の票を集めること。第3に会員を辞めさせないこと。なんでそれを信心と言えるのか?そもそも宗教とか信仰、教義も本尊も、1991年に破門されるまで日蓮正宗におんぶに抱っこ状態。法華講(信徒団体)のひとつみたいな立ち位置だったのが、破門されてただの政治的な団体になりました。宗教法人としての要件を満たしているかどうかも疑問です。公明党の政治力がなければ、解散請求されても仕方がないと我輩は思います。

2023年11月23日木曜日

我輩の手記

本稿は書物ではなく、愚生が顔面本(フェースブック)にぼちぼち書いた文章をまとめたもんである。中村則弘さんを偲ぶ会で福井に行ったとき、どうやら越前一向一揆衆の想念らしきものが脳内にたんと飛び込んできた。恨みの言葉なので、我輩の想念でないことだけは確かである。ときあたかも、パレスチナでハマスがイスラエルを攻撃し、イスラエル軍が圧倒的な軍事力でパレスチナ人を虐殺しはじめた。現在進行形の戦争と、織田信長や豊臣秀吉が女子供含めて5000人の一向一揆衆を虐殺したという歴史が脳内でシンクロしてしまい、一向一揆衆に感応したようだ。

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「パパにはふつうかもしれないけど、ふつうの人には見えないから、こわいんだよ。」と娘たちに説教されます。他人の見えないものが見えるようだと悟ったのは、大学1年生の頃。ピクニックで行った京都。化野念仏寺の墓地で戯れに撮った写真をプリントしたら、顔がたくさん写っていました。クラスメートの八木に見せると、「これは木の葉っぱの影、これは墓石のでこぼこやんけ」と否定します。否定してるのに、八木は泣いています。その写真はたぶん八木がどっかの神社か寺に奉納したのでしょう。いいやつだ。

兄貴のクルマを借りて夜の六甲山をドライブした時も、カーブの崖っぷち、ガードレールの向こう、人間がいるはずのないところに人の姿が見えます。「いま、ヒトおったよな?」・・・一同無言。

フェースブックはきほんツルむためのツールだけど、サイキック同士がツルむのはあんまりよくない。

友人のミクニさんは他人が見えないものを見るだけでなく、死者の軌跡をトレースできます。トレースを辿っていったら死んだばかりの人の家に行き着いたり、集合写真で黒い顔の人がいると思ったら既に死んでいたり。彼がライブで見る死者たちは、だいたい彼の首を絞めにかかるそうです。なんと暴力的な霊たち。我輩に見える人たちは、不本意な死にかたを余儀なくされた気の毒な、いわば弱い立場の人たち。生きている友人でも、ウマが合う人、そうでない人、飲みに行きたい人、会いたくない人など色々。生きていない人たちとの関係も似たようなものです。

ある夕刻、ミクニさんと梅田の王将の餃子かなんかでビールを飲んでいると、「あの人おかしい」とミクニさんが言います。その人がやってきて、「俺は世界を征服できるんや」みたいなアホを言います。サイキック同士はだいたいわかるので、いきなりそんな話をする人もいます。そのおっさんは目がイッてました。関わりあいたくないので早々に店を出て、阪神梅田の駅で電車を待っていました。電車が入ってきたとき、飛び込みたくなりました。柱の影にしがみついて我慢しましたが、それで我慢できるくらいのパワーだったので、オッサンの世界征服は無理でしょう。サイキックと関わると、ロクなことはありません。かしこまった席で放屁してしまったら、そのおっさんのせいです。

他人の見えないものが見える、という能力を売りにして、そこそこいい暮らしをしている人たちがいます。飲み友達が固定してるように、見える人たちのタイプも固定している我輩としては、ちょっと違うんじゃないかと思います。たとえば、L、G、B、T、S、M、赤ちゃんプレイなど、あらゆる趣向のクライアントに対応できる風俗従業員なんてふつういないでしょう。あらゆるタイプの霊が見えて、対処できるとしたら、その人自身が人生捨ててるか、詐欺師じゃないか。

そういう資質は遺伝的なものか?それはよくわかりません。我輩のおかんがマレーシアにやってきた時、昼寝をしていると、「窓の隙間から8人くらい小人が入ってきてな。」と言います。「私の寝てるベッドをみんなで持ち上げて、ホイホイ言いながらくるくる回すんや。生きた心地がせんかった。」

どうやらダヤン影絵芝居に出てくるような人たちのようです。そんな愉しい経験ならしたいものだと思います。おかんと我輩は、見るタイプの人が違うようです。

長野県の上田市の別所温泉。そのはずれにある法輪寺という寺で、娘の気分が悪くなりました。通途なら見て見ぬふりをするのですが、娘がピンポイントで狙われたなら困る。どんな人なのか。負圧に惹かれるままに境内を彷徨すると、松本繊維学校の若者たちが学徒動員されて8人くらいが死んでしまった、その慰霊碑に行きつきました。不本意な死にかたを強いられた無念なのでしょう。うちの娘を狙ったわけではなさそうです。

生きた人の無念でも、死んだ人の無念でも、もし感応してしまったら、受け止めるのではなく、さらりと水にすべて流すのがいいと思います。流さないで溜めていたら、我輩が潰れてしまいます。そのへんは生きてる人相手のカウンセリングと同じ。入れ込み過ぎたらカウンセラーが潰れてしまいます。

先般逝去した大学の先輩の偲ぶ会で福井に行ったとき、泊まったホテルが旧福井城の隣でした。いろんな想念が飛び込んできました。ほとんどは恨み節。「だまされた」というような。歴史をググってみると、これほどオーナーが頻繁に交代したお城も珍しい。しかしながら「だまされた」というのは何なのか?

パレスチナ人がイスラエル軍に虐殺されているのを聞いた我輩はおそらく、一向一揆衆に感応する準備ができていた。一向一揆衆は、織田信長や豊臣秀吉に何千人と虐殺された。福井でとびこんでくる声は「だまされた」という恨み節。何に騙されたというのか?

一向一揆衆は2重に騙された。第1は、有無を言わさない戦場で、「死んだらホトケ、極楽浄土まちがいなし」と最強戦士に仕立て上げられた。第2は、浄土真宗が権力側に寝返った。抵抗勢力であり続けた一向一揆衆はアウトカーストに落とされ、浄土真宗は彼ら彼女らに「1/10だけ成仏を許す」という戒名を与えた。京都あたりで浄土真宗の寺が火災にあったとき、アウトーカースト信徒が何十人も進んで火中にとびこんだという。お寺で焼け死んだら、来世は平民に生まれ変わる。そこまで思い詰めるような苛烈な差別だったという。

浄土真宗は権力側に寝返った。パレスチナ戦争で寝返るのは、ハマスではなく、ユダヤ教のほうじゃないかと我輩は思う。

ネタニヤフ率いるイスラエルを支えるのは最右翼シオニスト=団塊の世代。イスラエル訪問したブリンケンの最初の言葉が「ユダヤ人としてここに来ました」だった。それなのに、何も成果を得られなかったブリンケン。ただ右往左往しただけの、かわいそうなブリンケン。習近平とうまく話をまとめたはずだったのに、ボケ老人の「習近平は独裁者」という一言で外交成果をぶち壊されたブリンケン。そのオヤジは、アメリカでは有名なダイハード・シオニスト。いま西欧で、パレスチナのためにデモをしている最先端は、まさにブリンケン未満の若いユダヤ系。

世界中のユダヤ人は、右翼シオニスト=段階の世代と、50歳代未満の親パレスチナ世代に分裂している。10〜20年後、団塊の世代が死に絶え、常識的な世代が大勢を占める。彼ら彼女らは、イスラエルという汚名を着た国家に必ずしもこだわらない。たとえイスラエルが国家として存続したとしても、周囲のイスラム国家と共存する方途を探るんではないか。

イスラム世界はずっと、ユダヤ教徒に寛容だった。イスラエルがイランを仮想敵とするのは、イスラエル国内政治の歪みの投影にすぎない。ユダヤ教徒が仮想敵とすべきなのは数百年にわたって残虐な弾圧をした欧州であって、イランではない。イランはおそらく、10〜20年後にイスラエルが穏健なユダヤ教国家になるか、あるいはシオニズムが消滅することをわかっている。

シーアもまた、一向一揆衆と共通する精神がある。歴代のイマーム12人は、ことごとくスンニのカリフによって幽閉+暗殺あるいは毒殺された、というのがシーアの解釈である。スンニでは名君とされるハルーン・アル・ラシッドは、シーアでは残虐の暴君である。例年アルバイン(40日め)には、老若集まって胸を叩き、虐殺されたフセインを、あたかも1ヶ月前に殺されたかのように悼む。我輩も参加したことがあるが、黒っぽい服装でいたら皆シーアと見なされ、いっしょに胸を叩く。その高揚感、一体感はハンパではござらん。

臨戦態勢のもとでは大同小異。皆がタリバン、あるいは念仏衆、あるいはシーア・アリーになり膨れあがった教団。しかるに平和な時代が続くと、百花斉放で異論が出る。浄土真宗では「御同胞の社会をめざす実践運動」で危機感を煽ったのだが。お釈迦さん自身が、西方極楽浄土というのはフィクションだったと言ってるし、と突っ込まれたりする。

キリスト教では、処女懐胎とか死後再生が「それはさておき」ポジションに置かれた。きっかけは30年戦争。当初は王家の争いが宗派の違いに収斂され、悲惨なことになった。

そもそもジーザスは「神よ、我らの借金を免除したまえ」と言って支持を集め、磔で殺された。「師匠、それはマズい」と考えたジョンとかポールが、「神よ、我らの原罪を許したまえ」に変換してローマ帝国に採用され、中世に教会は欧州トップの地主になった。借金免除どころか、金貸しである。世の中、どうなるかわからない。

クアラルンプールで昼寝していたら、窓の隙間から小人が何人か入ってきて、ベッドを持ち上げてくるくる回した。そんな楽しい(本人は怖かったらしい)経験をしたオカンですが、時空を遡って1970年を前にした頃、心を病んでしまいました。原因は、姑と大姑と小姑がガシンタレだったのと、亭主(我輩の父)が甲斐性なしだったから。近所の白雪酒造の社宅に住んでいたアダチさんという人が親切で、いろいろ愚痴を聞いてくれた。その人が創価学会だったので、オカンも入り、我輩も兄貴も自動的に入ってしまいました。だから我輩はかなり中の人。統一教会がらみのニュースを見聞きするたびに、宗教法人解散請求の本当のターゲットは創価学会なんだろうなと思います。30年以上前にやめちゃったから関係ないけど、宗教2世の困惑は人ごとではありません。

高校生になると、会合に出ろとうるさく言われます。会合にでると、学習塾を経営していたカミチカさんというおっちゃんが世話役で、いろいろ「指導」をします。そのカミチカさんの発案で、「人間革命など池田先生の著作の要言集を作る」ということになって、甲子園の駅に近いコカジさん宅というモダンな家に集まり、作業がはじまりました。そのおかげで、池田大作がいかに意味のない空疎な言葉を羅列しているか、よくわかりました。創価学会は「指導主義」といって、体育会系というかほぼ軍隊なのに、池田大作は「民主主義」という。これほど空虚なことはありません。高校生なりに達した結論は、「そうか。池田大作の本なんて、みんな誰も真剣に読んでないんだ。」

カミチカさんが高校生にそんな作業をさせたのは、おそらく政治的野心があったからです。成果を本部に持ち込んで名を挙げようという。のちに彼は県会議員の片上公人の秘書になり、片上コージンがセクハラで失脚したので、カミチカさんも三途の道連れ。諸行無常やけど、その作業がなかったら我輩は創価学会を辞めてないかもしれない。

就職して3年め、ニューヨークに赴任した我輩のところにカワサキという創価学会員がやってきました。なんでわかったんだろう?それはオカンがチクったから。嫌々ながら「せめてブラスバンド」に入ったら、おもろいやつが多すぎて楽しかった。1987年ごろ、ボランティアの通訳でアメリカ人会員にくっついて東京の会合に出たら、池田大作が出てきた。相変わらず意味のない退屈な話をしていました。アメリカ人誰も聞いてないやん。我輩は近所に座っていたマリー・アスキューさんが綺麗だったのと、お向かいに座っていたリサちゃんという日系ハワイ人の女性が可愛かったのを覚えています。池田大作の意味のない話を意味のある英語に翻訳した矢倉涼子さんは、その後サザンオールスターズだった大森ちゃんと結婚しました。夫婦ともに大麻所持で逮捕された。

1990年の終わりごろ、イワブチマサルという人が東京からニューヨークまでやってきて指導会を開き、日蓮正宗がいかにデタラメかなんて話をしました。質問会でアメリカ人が「お寺に行って坊さんの話を聞いていいか?」と尋ねたとき、イワブチが坊さんはくるくるぱーだからダメ、というジェスチャーをしました。お寺の静謐な感じが好きで時々行っていた我輩は、その足でクイーンズ区のお寺に行き、住職と話しました。住職はぜんぜんクルクルパーじゃなかったので、創価学会を辞めることにしました。嘘のかたまり。

最近この話を考えはじめて、思い出して調べてみたら、イワブチマサルという同じ名前の人が北関東で公明党の市会議員かなんかをやっています。我輩がもしイワブチだったら、あんまり楽しくない人生だろうなと思います。嘘のかたまり。

1987年ごろのこと、東京でホシノという人に会いました。小説人間革命にのっている(ここは本当のこと)、創価学会に批判的な僧侶を川に放り込んだ男子部ギャングのひとりだったとのこと。ホシノさんは半身不随で、我輩に「池田先生について行け」と指導を垂れました。僧侶を川に放り込んだりしたから半身不随になったんじゃないか、なんて本人は考えもしなかったようです。別れ際に、「貞永くんによろしく伝えてくれ。」と言います。貞永昌靖。アメリカ創価学会のジョージ・ウィリアムズ理事長のことです。我輩が知っているウィリアムズ理事長は、大きな会合でハービー・ハンコックやラリー・コリエルのバンドで下手くそなテナーサックスを吹いている偉い人。楽屋に行って、「ホシノさんがよろしく言ってました。半身不随でしたけど。」って気楽に言えるような存在ではありません。

ミュージシャンの加納洋さんとはニューヨークで知り合いました。彼は視覚障碍者で、彼の杖がわりにいっしょにうろうろしていると、外の世界のいろんなミュージシャンと出会えて、楽しい思いをしました。

彼はこういいます。「池田先生のピアノなんて音楽的にいえば糞だけど、(自分が創価学会にいるのは)そういうことじゃないんだよね。」

いろんな人々の「そういうことじゃないんだよね」という思いの受け皿というのが、この宗教法人の存在意義のひとつではないかと思います。

そういうことじゃなくて、何なのかというと、それは人それぞれ。けれど宗教2世として半分内側、半分外側から眺めていると、パターンが見えてきます。それは、生活全般で組織の活動を優先させること。組織の活動というのは、自分も献金し、自分の担当している会員にも献金させること。聖教新聞など創価メディアの新聞や雑誌を購読し、担当する会員にも購読させること。50人くらいの学会員を担当する幹部が、聖教新聞を50部くらい自腹で購読するというのは普通の話です。それから、公明党の票集め。自分も投票し、担当する会員にも確実に投票させること。組織のスキャンダルが表面化したときに開催される文化祭に出場し、担当する会員にも出場させること。地域の会合に出席し、担当する会員にも出席させること。その会合を準備するための会合にも出席すること。自分の時間などない、と考えはじめたら、上級幹部に指導を受けに行くこと。自分の時間がなくなるから活動したくない、という会員に指導し、その会員が自分の指導を受け入れなかったら、上級幹部の指導を受けさせること。

受け皿の中に入ると、自由とか選挙とか責任なんていう面倒くさい選択をぜんぶ捨てて、組織の指導に従って生きることができる。イメージ的に言うと、その受け皿には「勝利、栄光、平和」という三色旗が貼り付けてあって、「民主主義」「自由」「大衆とともに」「小さな声を聞く力」「日本を前に」などという抽象的なスローガンが付記してあります。これで安心。外の人に批判されても怖くない。政権与党やし。

2世になると、組織の指導が窮屈だと思う人がいる。週末や休日のすごしかた、どこの政党に投票するか、どんな新聞を購読するか、どんな本を読むか、どんな友達と付き合うか。誰を配偶者候補に選ぶか。ほっといてくれ。雨の文化祭で組体操とかしたくないし、池田大作のくだらない本も買いたくない。脱会者の家の玄関で犬に糞をさせるとか、ストーキングするなんてやりたくない。

自由な選択をすすんで放棄するといえば、まるでエーリッヒ・フロム先生の古典「自由からの逃走」ですが、その通り。この国の一定数の人たちは、選択の自由や民主主義やコンプライアンスや説明責任なんて面倒くさいと思っている。それはこの国だけではなく、おそらくいまの欧州人やアメリカ人の多くもそう考えているフシがある。

戦争状態のときに宗教に騙された、というのは昔の話。現代では、自由という面倒臭いものを捨てるために、自らすすんでカルトに入るんではないか。

当初考察したように、あくまで仮説ですが、一向宗はフィジカルな戦闘行為のもとで団結・拡大した。創価学会が急成長した1960年代後半から70年代は、荒っぽい時代でした。昭和30年代(1955〜1965)の少年犯罪は、その量と凶悪さで今日の比ではないそうです。さらに、学生を中心にしたベトナム戦争反対運動。それが分裂した赤軍派による内部者を惨殺する事件。週刊サンケイでは極真館をテーマにした暴力マンガ連載。明日のジョーの主人公も、タイガーマスクの主人公も孤児院育ち。その時代、我輩が生まれそだった今津では、創価学会と共産党と朝鮮総連が競合関係にありました。なんでやねん?宗教団体と政党と少数民族互助会が争う?砲弾が飛び交うことはなかったかもしれないけど、これは戦場でした。

戦場では異論や少数意見が封殺され、一致団結のふりができない人はよくて排除、気の毒な場合は制裁される。勝ったら拡大するし、負けても生き延びる。その時代に創価学会に入った人たち、いわゆる団塊の世代と、それより年寄りの人たちが創価学会に寄せていた思いと、それより若い世代はぜんぜん違うものを宗教に求めたんではないかと思います。

平和な時代が続くと、一致団結した宗教団体も、タガが緩むのに抵抗できない。自由とか民主主義という、日本の伝統にあんまりなかった考え方が移植されて70余年。創価学会だけでも60万人くらいの人が自由をみずから捨て、宗教法人の指導に従って生きている。60万人というのは、公明党の得票数の1/10、活動家ひとりが10票あつめるという仮定の数字です。その他カルトを合算したら、日本だけで100万人くらい。そのうち比較的若い世代は、自由なんて面倒臭い、ややこしいことは他人任せにしたいと考えていて、カルトに入ったんじゃないか。ウクライナやヨーロッパのネオナチは他人事ではない、ともいえます。しかしこの国では、片づけできない人は片付け屋さんに依頼し、書類仕事は税理士や司法書士に依頼し、地域のあれこれは政治家に依頼し、作文はAIに依頼する。年寄りは特養。アウトソーシングすれば何にも考えなくて済む、便利でユニークな国です。コンプライアンスだ、説明責任だ、それが面倒臭いのでカルト組織に入った会員たち。その受け皿の宗教法人は、コンプライアンスとか責任説明を果たさなければなりません。統一教会がいい見せしめになりました。アウトソーシング先が健全になれば、ヘイトクライムやテロに走る危険性が少なくなります。

日本は世界に先駆けてると思います。誇大妄想かもしれないけど。

1990年に創価学会が反日蓮正宗キャンペーンをやりました。1977年にいちどやって失敗したので、その反省をもとに一気呵成。聖教新聞、創価新報、第三文明、月刊誌「潮」など直系・傍系メディアのすべてで、大幹部、弁護士、芸能人、有名人など総動員して嘘を書き、嘘を語り、ついに自分らが言い出した嘘を自分らで信じ込んで、嘘の無限拡大再生産。それに加えて、脱会者・退会者に対するストーキングやハラスメントが日常活動に組み込まれ、辞めたらこうなるぞという見せしめ効果抜群。戦いの場で異論や少数意見は封殺され、みんな三色旗。500年前の越前一向一揆の戦場が、現代に蘇ってました。

30年以上たって「いやあ、酷かったよね。辞めてよかった。」と回顧してたら、西欧世界のメディアがロシア憎悪で似たようなことをはじめました。公明党支持者600万人に仕掛けられた謀略は、たんに閉鎖された空間のモルモット実験で、その成果を英米謀略期間がじっと観察していたんじゃないかと思うくらいの既視感でした。

ヒラリー・クリントンが国務長官だったころの、2012年に遡ります。リビアのベンガジという街のアメリカ領事館で、クリス・スティーブンスという大使が蒸し焼きにされて殺されました。ヒラリーがその知らせを受けたのが政府の公式メールではなく私用メール、しかも「あっつ、そう」てな感じで数時間放置。外交官が殺されるという最悪の事態を招いたのに、メディアは検証も何もしなかった。ヒラリーのくだりは我輩にはどうでもよくて、注目したのは気の毒なクリス・スティーブンス氏がピースコーの出身だということ。

ピースコー(平和部隊)というのはJFケネディがはじめた機関で、我が国の海外協力隊も「それに倣った」と言われています。協力隊関係者がそう信じているけれど、我輩は逆じゃないかと思う。木村肥佐生さんがチベットからインドまでやってきて投稿し、強制送還された。日本でGHQ(日本を占領していたアメリカ軍)に拘束・尋問されて洗いざらいしゃべった。その報告書がホワイトハウスに届き、JFKが注目して「これええやん」となってピースコーを発足させた。我輩はそう思っています。

ジョン・パーキンスというピースコーOBは世界銀行で働き、あるとき転向して「エコノミック・ヒットマンの告白」という本を書いた。青年海外協力隊OBがJICAで働いているように、いやそれ以上に、ピースコー出身者は外交官や国際機関で働く道が用意されている。そのヒントを与えたのが木村肥佐生さんだと思う。

江戸時代が終わって明治になり、日本が世界に目を向けるようになりました。東亜同文書院が設立されたのが1900年、明治33年。中国では義和団事件が起こりました。この年にはオーウェン・ラティモアが生まれました。ラティモアは中国で育ち、長じてルーズベルトの推しで蒋介石のアドバイザーになったアメリカ人です。前年1989年、石光真清がシベリアに渡りました。1902年には、シンガポールに日系妓楼83件、日本人の娼婦が611名いたそうなので、嗅覚のいい日本人はどんどん海外進出していたようです。日露戦争開戦が1904年。

我輩が注目しているのは東亜同文書院と石光真清です。東亜同文書院は民間で設立されたのに、選抜試験は県単位。選抜された学生には渡航・滞在・学費など全額支給されます。優秀な子弟は東大に行くか東亜同文に行くかと言われた時代。東亜同文に行ったら上海で徹底的に中国語を仕込まれ、最終学年の4年次には自分達で計画した「大旅行」、中国各地をチームで数ヶ月間にわたって旅行し、その報告書が卒論がわり。我輩が学んだ神戸外大の教授のひとりも東亜同文卒業生でした。ガチのトップスパイ養成大学といってもいいでしょう。石光真清は陸軍幼年学校を出た生粋の軍人ですが、ロシア研究が必要という主張が認められ、退役して民間人としてロシアに行きました。この頃の日本はめちゃダイナミック。彼の伝記は現場の雰囲気を生き生きと伝えています。

のちに阿片王と言われた里見甫が修猷館を卒業して東亜同文書院に入ったのが1913年。2年後にはシンガポールに本願寺ができました。宗教の進出は早い。石光真清も、あちこちで真宗僧侶を兼ねた軍人に意外なところで出会ったりしています。1916年に里見甫が第13回生として東亜同文卒業。翌年1917年はロシア革命。この年、天理教がマレー半島に布教拠点を作りました。天理大学の外国語学部が有名なのは、このへんに源流があります。関東大震災のあった1923年、里見甫は京津日日日報に入社。京津というのは北京と天津。京都と大津ではないので念の為。日本軍が御用メディアとして作った満州国通信と、電通が合体した国通の初代編集主幹に就任したのはこのメディア経験ゆえでしょう。この年に大杉栄を殺害した甘粕正彦は、のちに満州で里見甫、岸信介とともに活躍します。岸信介は安倍晋三の祖父です。岸信介はのちに里見甫の墓碑銘「その逝く処を知らず」を自筆で書きました。電通と安倍・岸一族。腐れ縁に歴史あり。

1937年、昭和12年に満州国がペルシア(イラン)から輸入した阿片が20万ポンド。岸信介が支配し、甘粕正彦がメディア界で活躍する満州国の財政の根幹は、中華マフィアと密接な関係を持つ里見甫がアヘン公売で稼いでいたようです。一説には国庫の1/4が阿片と。

東亜同文書院がエリート養成期間とすれば、もっと現場に近いレベルの組織もなんちゃって民間で作られます。それが1930年にできた蒙古善隣協会。善隣協会が1939年に作ったのが興亜義塾。軍事訓練と語学、そしてモンゴル人と起居しながらの生活で、現場レベルのスパイを育成します。卒業生で生き残って有名になったのが西川一三と木村肥佐生さん。我輩が注目する点は、日本が国(政府と軍)をあげてエリートから現場レベルに至るスパイの分厚い層を養成していたこと、そのほとんどが直営・国営ではなくアフィリエイトとして、いちおう民間で立ち上げられていること。その発想と実績は、当時どの国にもなかったダイナミックさがあります。青年海外協力隊も当然その延長線上にあります。戦争目的ではなく平和目的ですが、真剣に日本の行く末を考えた有能な人たちが動き、それに賛同した政治家がいたことは間違いありません。その青年海外協力隊がアメリカのピースコーを手本にしたと?臍が茶を沸かします。逆に決まってる。

ピースコーの初代派遣国リストを眺めると、ほとんどの国でのちにアメリカはクーデターか戦争のいずれかを始めています。ピースコーが国際協力ではなくスパイ養成目的だったのは明白。それだけでも青年海外協力隊とぜんぜん違います。どっちかといえば、ピースコーは興亜義塾のパクリです。

敗戦で行き場のなくなった東亜同文書院。その膨大な図書資料コレクションが関係者の苦労の末に日本に持ち帰られ、それを受け継いだのが愛知大学。東亜同文書院のOB会である滬友会も愛知大学が引き継いでいました。道理で愛知大学の中日辞典は、中国語業界でスタンダードだったわけだ。我輩が神戸外大の中国学科に入って、中日辞典を買わされたとき、そんな経緯はぜんぜん知らなかった。閑話休題。東亜同文書院卒業生で小説家になった沖縄出身の大城立裕さんの「朝、上海に立ちつくす」を読むと、東亜同文書院生、商社マン、軍人などの現地における交流が描かれていて、とても興味深い。

今は閉塞状態に見えるかもしれないけれど、それに対処する日本人のユニークなやり方は、あんがい世界に先駆けているかもしれない。きっとどこかに有能な官僚と、彼ら彼女らを支持する政治家がいて、オモテナシやアニメ以上のダイナミックなことが進行中かもしれない。じっさい、じいちゃんのじいちゃんくらいの世代は、めちゃダイナミックに動き回っていた。商社マンや軍人や坊さんだけでなく、ポン引きやデリヘル嬢まで。メディアなんていちばん遅いんじゃないか。

多くの企業がブラック呼ばわりされたくなくて、ハラスメント対策や情報漏洩対策などコンプライアンスに取り組んでいます。宗教法人で内部告発をするのは、きっと2世や3世でしょう。団塊の世代が死に絶えたら、絶滅する宗教法人もきっと出てくる。自由を放棄することに喜びを感じる人の受け皿は、カルトでなく、NPOになるかもしれない。きっと日本人は、ユニークな解決法を提示するに違いありません。

2023年11月4日土曜日

中村則弘 脱オリエンタリズムと日本における内発的発展

オリエンタリズムというのはアレである。石油欲しさに中東を制圧し、原材料と労働力欲しさにインドを植民地にしたイギリス、インドネシアから350年間も搾取して自国だけ発展させたオランダ、北アフリカを植民地にしたフランスが、学術界で手前勝手なスタンダードなるものを確立した。そして、正しいけれど自分達に都合の悪い論文に対し、特にそれが東方に関することであれば、「それっていわばオリエンタリズムだよね。」とケチをつけるときに使う用語である。

もうひとつ、西欧でもエキセントリックなやつが東方研究にはまり込み、イーデス・ハンソンの関西弁ほどやないけど、ムンバイをボンベイと言わないくらいのレベルとか、ちょっと漢字かけますくらいになってる人らがおった。本人らは一所懸命やねんけど、明らかに西欧白人系である視点から東方を眺めている態度、おんなじことを有色人種の研究者が言っても取り上げられないレベルの内容やのに、白人であるからこそジャーナルに掲載される文章を「オリエンタリズムやんけ」と小馬鹿にするのに使われる。

なんで小馬鹿にするかというと、白人はアジアに来ると目立つ。目立つし、金持ちやと思われるから、有利な場合もあるけれど、調査という作業では不利な点もある。不利な点は、どこまでいっても特別扱いされるところ。

ここからは我輩の自慢と思い出し話、つまり閑話。

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1984年にニューヨークに送り込まれ、マンハッタンのチャイナタウンで北京語を使ったら、犬以下の扱いを受けた。犬以下の扱いだったけど、野菜とか肉をまけてくれた。華人は同胞(に見える人たち)を犬以下に扱うんだな、と思った。でも、まけてくれたよな。

1999年、クアラルンプールに送り込まれた。ケダ州のどっかで、華人系と思われてマレー人から不公平な扱いを受けた。日本人であることが相手にわかったら、地位が急上昇した。その時の高速エレベーター感は忘れがたい。

2009年ごろのある朝、寧波の路上飯屋でタイ人の同僚と一緒に不味いワンタンを食っていた。我輩はタイ語がほとんどできないので英語で話していた。気がつくと、周囲に人だかりができていた。「おたくら、なんで英語喋ってんだ?」と聞かれたので、「いやこの人タイ人だから中国語できないんだ。」と説明すると、「ああそおなんだ。」と納得して人だかりが消滅した。誰も我輩に「じゃあんたは何人なんだ?」と尋ねなかったので、誰かに自慢したくなった。

同じ朝の同じ場所で、白人がやってきてカウンターの中のおっさんに「何ができるかい?」と、とても流暢な北京語で尋ねた。カウンターのおっさんは面倒臭そうに、「壁(のメニュー)見な。」といった。白人は困った顔をして、「俺、漢字読めねえんだよな。」と英語でぶつぶつ言った。助けてやろうかと思ったが、不味い店だし、不味いって言ったのが聞こえたら面倒なので、助けるのはやめておいた。

あとで考えると、英語訛りのまったくない完璧な北京語を話すまで、たいそうな努力をした白人である。たいした努力もせず、漢字が読める我々の助けなど、おせっかいに違いない。

高速バスで浙江省を移動した。乗客の中に旅慣れない女性がいて、バスの中で嘔吐し、悪臭がバス内に立ち込めた。窓際の人たちは窓を開け、周囲の人たちがありあわせの新聞を集めて、吐瀉物を拭き取った。丸めた新聞紙を運転手に渡した人がいた。運転手は窓を開け、走行中に外に捨てた。罵り言葉を呟いたのはその運転手だけで、それ以外の誰もが無言で連携して作業を進めた。一番端っこの窓際に座っていた我輩は、窓を開けただけで、あとは静かに感動していた。周囲の人たちは、女性と顔見知りとか、そういうのではなさそうだ。誰にでもありがちなことに対する寛容さ。お互いさま精神。

高速鉄道で移動していたとき、同僚のタイ人と離れた席になった。列車が動きはじめてから、そのタイ人が困った顔をしてやってきた。「俺の席に他のやつが座っているんだ。」我輩はアドバイスした。「タイ語で文句を言ってみな。」中国人じゃないとわかったら、ちゃんと席をどいてくれたらしい。外国人には一定の敬意を払うようだ。寧波は古い港町だからだろう。

2012年、パキスタンのイスラマバードに送り込まれた。近所のモールのシーアの店に民族服を着て行ったら、店の若い人に「ブラザー」みたいに言われた。シーアの同胞ということなのだろう。その時、これでペルシア語ができたら楽しいだろうなと思った。

在パキスタン日本国大使館から「一部の日本人で民族服を着ると、アフガニスタンのハザールというモンゴル系のシーア派にしか見えない人がいる。タリバンはハザールを殺すので、該当する人は民族服を着ないように周知あられたい。」云々の通達が出された。あれは我輩のことだった。

我輩の密かな愉悦が発覚したのは、金曜日だった。職場のオフィスでは金曜日が民族服の日で、ある金曜日の夕刻に日本人学校のPTA会があった。娘の同級生の親が外交官で、情報収集インテリジェンス系のプロである。最初は「なんでパキの使用人が会場に座っとるんやろ?」と思ったらしい。会合が終わって、娘が我輩をパパと呼んだので、日本人とバレた。

近所のモールには、オフィス帰りに立ち寄る八百屋がある。いつも洋装だし、たいてい家内と一緒なので、「ハロー、サヒーブ(旦那ぁ)!」と認識してくれる。ある日、民族服で一人で立ち寄ると、全然認識してくれない。「ハロー!」と手を振っても無視である。その八百屋には、近在のお屋敷から差し向けられた民族服のピックアップボーイが何人もたむろしている。その一人だと認識されたようだ。我輩の容貌が、パキスタンまで通用するとは思わなかった。

それがおもしろかったので、民族服のおっさんらの隣、歩道の縁石に座っていた。その時に思った。我輩は、これが楽しいんだ。ふつうの人らにまぎれ、同じ目線で風景を眺め、同じ風に吹かれている。ときに犬以下に扱われるかもしれないが、そんなことは、この楽しさに比べたらどうでもいい。

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完全に第三者視点なら、文化人類学をやったらいい。社会学とか、ふつうの人たちが何を考えているかを知りたいなら、溶け込む容貌でないとまずい。ときに犬以下に扱われても。異人には、やっぱり限界がある。にもかかわらず、あたかも限界なぞ存在しないかのように、西欧白人の観点から見て悦に入っておる。オリエンタリズム。

学術業界ではあまりに長く西欧がスタンダードとなってきたので、極東の我々は、西欧スタンダードというだけで平伏する奴隷根性の持ち主たちと、一方でその臭いがしただけで「むかっ」とくる者の極端な2グループに分かれた。中村さんはもちろん後者です。

我輩なぞ「むかっ」と来るほうだ。イギリスはスコッチとギネスとフェイクのブリティッシュ訛りの英語、フランスはチーズとワインとフェイクのフランス語訛り、オランダはゴータチーズとポテトフライとビールのグローシュくらいを贔屓にしておいて、あとはあんまり立ち入らない、関わらないで生きてきた。そんなけ知っておけば、その国の出身で万が一いいやつに出会ったとき、それなりに話題を持たせることができる。

中村さんは全然違って、学術界で真正面から勝負を挑んだ。勇者である。

そんな中村さんが、63歳で去ったのは、残念としか言いようがない。

本の内容についての感想はまたの続きで。