2021年12月24日金曜日

デレク・ベイリーのインプロヴィゼーションの感想文 つづき

 さて前述の読書のからみで、書評とか論文あわせて3本にであった。

藤枝守さんはちょっと過激なミュージシャンで、大学の先生でもあるらしい。彼によると、ピアノの大量生産が平均律を生んだのだという。

平均律のゆがんだ響かない音程が音楽嫌いを生んできた。楽譜に書かれた音符をまちがわないで演奏することに気を取られその音程が実際にどのように響いているかということを忘れたような音楽教育が続いてきた。複雑性や構築性ばかりに目を奪われていた現代音楽の作曲家たちは、自分たちが前提にしていた音程が音響的に欠陥であったという事実を見過ごしている。

・・・という。うむ、納得できることばかりではないか。

つぎ。和泉浩さんはマックス・ウェーバーの「音楽社会学」を評してこういう。

ウェーバーによる音楽の合理化についての分析をとおして、西欧近代の音楽的要請じたいに内在する矛盾があきらかになる。それは調整という理想のもとに、和声的合理化と感覚的合理化という対立するふたつの合理化をとおして形作られてきたからである。

マックス・ヴェーバーが音楽社会学なんて文章を出していたのをはじめて知った我輩だ。和泉さんはピアノの大量生産=>平均律の成立なのではなく、矛盾はそもそも内在していたのだとヴェーバーをネタにいうのである。論文のネタとしてはおもしろいけれど、たいして読みたくない。

大垣俊一さんは藤枝守さんの「響きの考古学」について、平均律が採用されたのはなんらかの必然性があったからだろうと推察している。

十字軍はそれぞれの国内に鬱積していた矛盾と不満のはけ口としてのものだから、必然性といえば必然性だ。「賢王」アルフォンソがトレドの書庫でみつかった大量のアラビア語文書をラテン語に翻訳させ、その事業がおわったとたん翻訳者のユダヤ人たちに改宗か追放かを迫ったという。これは西欧のルーツがギリシャ・ローマに直結しているというフィクションをでっちあげ、証拠を隠滅し、ギリシャ文化の仲介者がアラブ人だったことを隠したい意図がありありと見てとれる。それも必然なのだろうか。それから数百年にわたって、欧州のあちこちでユダヤ人を迫害し、殺したのも必然性というか。そしたら今のイスラエルがパレスチナを抹消しようとしているのも必然性になってしまう。

平均律の成立と敷衍は、当時の西欧が偏執的に追求していた、西欧文明のルーツはギリシャ・ローマだとしたい意図があって、中世キリスト教世界が他ならぬギリシャ・ローマの合理性を弾圧した歴史を隠し、アラビアが仲介者だったという事実を抹殺しようという、権力者はじめ集団的な意図がはたらいていた、そのひとつの発露であると思う。

与えていえば、要素を抽出し、純化し、それをあらゆるものに当てはめるという社会的雰囲気の発露であること。しかしその過程でユダヤ人のような不純物、アルメニア人のような中間者を弾圧してきたのだから、好意だけで考えることはできない。

大垣さんは上記著作から藤枝さんの言葉を紹介している。それは、あるとき琴を純正調で調律してみたところ、「琴の胴体が自然に鳴りはじめ」て驚いたという。・・・ピアノなんてばかでかい共鳴箱なのだから、純正律で調律したらどんな音になるのか聞いてみたいものだ。

我輩が思うに、平均律はピアノの大量生産という工業的な要請だけを背景に成立したものではなかろう。「平均律の和音なんて美しくない!」と抵抗した(非ユダヤ系)ミュージシャンもたくさんいたはずだ。いやひょっとして、平均律に抵抗したからユダヤ人とかジプシーは追放されたんじゃないか?



インプロヴィゼーション 著者: デレク・ベイリー

 工作舎 2300円


新品同様のきれいな本が岡谷のブッコフで200円だった。即買い。

翻訳の日本語もあんまりうまくないし、難解っぽかったので、寝るまえに読むには最適かと思量した次第。

読みはじめてとてもおもしろかった。内容はさまざまなジャンルのミュージシャンへのインタビューが基本になっている。

まずインド音楽。レッスンは師匠のまねをすることからはじまる。

インプロヴィゼーションの要素があるとすれば、ラーガのフィーリングを尊重しつつ演奏するのが結果的にそうなっている。とても自然なアプローチだと思う。

つぎはフラメンコ。ギターと歌と踊りがそろってはじめてフラメンコといえるのだそうな。知らなかった。ここでもインプロヴィゼーションは、俺様的アプローチではなく、曲に身をまかせることで高みに到達するものである、と。

そのつぎがバロック音楽。17〜18世紀というから比較的新しい。その成立にはインプロヴィゼーションが深く関わっていたのだが、後世(といってもこの200年くらい)になって固定化され、死体同然になった(と筆者の暗喩)

つぎに教会オルガン音楽。まいどまいどの礼拝にオルガン奏者はちがう素材でちがう演奏を提供するので、「速く考えられる」ことが求められるという。ジャズだけどジョーイ・デフランチェスカなんてめっちゃ指が早い人なので、忠実に伝統を引き継いでいるということなのだろうな。

そしてロック。このへんから何をいいたいのかよくわからなくなってくるのだけれど、文意はまだ理解可能。

つぎに「聴衆」という章があって、音楽は演奏する人と聴衆のインタラクションであるということが難しく述べられる。このへんで眠くなる。うん、いいぞ。当初の目的どおりじゃないか。

つぎにジャズ。ジャズは様式が固定化されたので、「ブラック・クラシック音楽」という呼称がいいんじゃないかと著者はいう。

まったくそのとおりで、ウィントン・マルサリス一派がでてきたころからジャズはチェンバーミュージック化し、地下酒場よりもリンカーン・センターが好まれるようになった。マルサリスが悪いのではない。マルサリスはマイルスの危惧を加速しただけなのだ。我輩はそれ以来、チャーリー・ヘイデンかパット・メセニー、あるいはマイク・スターンか死んだボブ・バーグしか聞いていない。

つぎの章が現代音楽。本のちょうどまんなかへん。このあたりから何が書いてあるか、読んでいて理解不能になる。

どっかの章の最後に書いてあったのだが、未来のインプロヴィゼーションというのは、あるジャンルで天才がすばらしい仕事をする、あとはしばらくみなが追従する。そういうかたちになるだろうと、あるミュージシャンが言っていた。

そのとおりだ。

ジャコ・パストリアスが出てエレクトリック・ベースの弾きかたが変わってしまった。あとはあの偉大なリチャード・ボナ様ですら、テクニックと完成度でははるかに上をいっているにもかかわらず、ジャコではないのだ。

2021年12月14日火曜日

イーブラヒム・アッザームとサイモン・シャヒーンの夕刻セッション

https://www.youtube.com/watch?v=JASfmtnd3Fs

 どっかの居間に20人くらい集まり、リラックスして音楽を楽しんでいる。

中心は(本来)ボーカルのイーブラヒム・アッザームと(本来)ウードのサイモン・シャヒーン。サイモン・シャヒーンがとてもいい感じでウードを弾くのが04:30〜06:26あたり。

それからしばらく見ているとなんと、サイモンシャヒーンがバイオリンに持ち替えて、プロ級の演奏で30分くらい延々とセッションしている。そうこうするうちにイーブラヒームがバイオリンをもってつまびきながらハビビの歌を歌ったりしている。まったくこの人たちの音楽的教養というか、音楽的素養はじつに奥深いものがある。ほんとうの意味でのアーティストたちだ。

聴衆とアーチストの距離がこんなにも近く、みな酒もなしで純粋に音楽を楽しんでいる。じつにすばらしいことだ。

2021年12月12日日曜日

マイケル・ハドソン教授のスーパー・インペリアリズム

 たしかスコット・ホートンの反戦ラジオでこの人のインタビューが出ていて、この本のことを語っていた。我輩にとってマイケル・ハドソン先生の本は2冊め。1冊めはジーザス・クライストが高利貸しの爺さんをボコっている絵が表紙の本で、借金から考察する歴史の本。2冊めがこれで、エイブ・ブックスから届いたばっかりでまだ読んでいない。

けれどなんで興味をもったかというと、インタビューでハドソン先生がこんなことを言うんだな。

「アメリカ人は家を買って、その家の資産価値があがったら喜んでいる。自分たちが豊かになったわけでもないのにね。中国人は家の値段が下がって、若い人たちが家を買えるようになったことを喜んでいる。どっちが豊かなんだろう?アメリカでは株価や不動産価格を上げるのが経済政策として成功だと思われている。中国ではより多くの人が家を買えたり、給料があがったりするのが政策の成功だと考えられている。」

ラディカルというのは根源的という意味があるそうだが、シンプルだけれどこういう根源的な考え方をする経済学者が世界のどっかにいる、というだけで嬉しいじゃありませんか。



2021年12月1日水曜日

若いウード弾きの名手Ahmed Alshaibaが西欧のヒット曲をカバーしている

 https://www.youtube.com/watch?v=ddoUBC1qrgg

若いウード弾きの名手が西欧のヒット曲をウードでカバーしている。聞いてみたら、期待に反してあんまりおもしろくなかった。

なんであんまりおもしろくないかというと、そのへんの理屈は(たぶん)松田嘉子さんがarab-music.comで解説してくれている。(竹間ジュンさんかもしれない)

http://www.arab-music.com/theory.html

いわく、西欧の音楽の旋法は短調と長調のふたつしかなくて「さっぱり」している。そのかわりを和音が受け持っていて、つまり和音のバッキングでバリエーションをもたせている。

和音を伴わない西欧のメロディーだけを単音で弾くと、よほど思い入れのない曲でもないかぎりあんまりおもしろくないと、そういうことだ。若い時に聞いた音楽は、どこでどんなシチュエーションで最初に聞いたのか、はっきり思い出すことができる。歳をかさねて思い入れのない曲を聞いたところで、あんまりピンとこない。

あとは歌詞。「深夜食堂」で有名になった福原希己江さんの「できること」を娘がギターで弾いていて、「なだそうそうのコードだよ」と言う。娘もギターで弾いてみるまで気づかなかったし、我が輩も指摘されるまでぜんぜんわからなかった。歌詞がちがうからだな。

何十年もいろんな音楽を聴いてきて、この歳になってアラブ音楽をしみじみ聴いているのは、メロディーの豊かさに魅力を感じているからなのだろう。