司馬遼太郎の学生時代を知る人がブログを開設している。
98歳ブログ「紫蘭の部屋」
https://ameblo.jp/siran13tb/entry-12476644678.html?frm=theme
素顔の司馬遼太郎のことが書いてある。おもしろい。
司馬遼太郎は大阪外語学校でモンゴル語を学び、戦時中だったので二年生が終わったところで繰り上げ卒業させられ、戦車兵として訓練され、ペラペラの鉄板でできた戦車に乗せられた。そんな恨みがあったためか、彼自身とモンゴルのかかわりについては、この本にも他の本にも、たくさん書かれているわけではない。「モンゴル紀行」ではないが、自分をモンゴル人だと思いこんでいたとか、そんなことがさりげなくあちこちに書かれているくらいだ。この「モンゴル紀行」にも、そのあたりはじつにあっさりとしか書かれていない。
しかし、司馬遼太郎にとって、学校を出て30年の間あこがれつづけたモンゴルである。
そんな司馬遼太郎が心情を吐露している、ひとつは外務省職員としてウランバートルに赴任している6年上の先輩にであったときである。
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「崎山さんも、大変でしたな」
と、草原の学問寺で過ごした奇妙な青春を、満腔のうらやましさを籠めて、からかってみた。
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もうひとつは、ゴビ砂漠を去るときである。
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この草花のそよぐ大地に、このつぎいつ来ることができるかと思うと、ちょっとつらい感情が地上に残りそうだった。
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我が輩は神戸外大という学校で中国語を学んだのだが、はじめて中国を訪れたのは卒業の30年後だった。司馬遼太郎との共通点はそれだけだが、自分が青春時代の情熱を傾けて学び憧れた場所というのは格別であって、そこに至るまでのアメリカ、マレーシア、インドネシアなどは吾輩にとってすべて途中の「寄り道」に過ぎない。
その地を踏んだそのあとはぜんぶオマケ。そんな感じでノコノコと同窓会に出かけたり、同学に会って神戸元町で酒を飲んだりするようになった。
上記のブログによると、司馬遼太郎はある時まで同窓会を忌避していたらしい。それにしては、この「モンゴル紀行」、なんと恩師・棈松源一名誉教授といっしょである。ということは、同窓会であべまつ先生に「こんどね、モンゴル行きますねん」「ほなボクもいっしょに行こか」てな話になったのではなかろうか。文豪ゆえ酌を交わしたがるような同窓生は会いとぉないと、そういうこだわりがどうでもよくなったのだろう。
壮年のころの同窓会なんちゅうのは、生臭すぎる。50代なかばの終点が見えることになって、ようやく行ってもいいかと思うくらいのもんだ。そんなあれこれをいっぱい考えさせられる本だったので、読みおわってから何週間もたって、ようやく感想文を書く気になった。
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