2023年5月16日火曜日

コントラバス

 本ではない。楽器である。トルコ語も朝鮮語もロシア語もやりたいと願っているくせに、コントラバスも買った。

言い訳だが、トルコ語は本を買ってから1年で半分まで来た。朝の電車の30分、週5日だけの緩慢な歩みである。だからコントラバスも、夜更けの30分くらい触っていたら、なんとかなるんじゃないかと思う。


じつはエレキベースならあったんだ。アリアのヴィンテージを入手して、フレットを抜いて溝を埋め、サンドペーパーでつるつるにしてフレットレスにした。なかなかいい楽器に仕上がった。アンプを繋がずに弾いても味がある。しかし音圧がない。アンプに繋ぐと、ノイズがのったりあれこれめんどうだ。だからリサイクルショップに売ってしまった。

やっぱり音圧ならアコースティック。4/4サイズだからこれ以上の大きさは望めない。安定のスズキブランドやし。スクールモデルみたいなので、そんな高級じゃないけれど、人前で弾くわけでもない。自分が独り悦に入っていればいい。

自分の頭のなかで鳴っている音を表現するのに、これ以上の楽器はないと思う。

ニューエクスプレスプラス ロシア語

こないだ「清里のマリヤ」で茶をしばいたときのこと。月子が店主夫妻とロシア語で楽しそうに話しているのを眺めていて、ロシア語ができたら楽しそうだなと思った。

いまはまだトルコ語を、おなじエクスプレスシリーズの教科書で勉強している最中で、ようやく10課にきたばかり。半分である。本を買ってからここまで来るのに1年かかった。ともかく、トルコ語の本を一冊終えなければならぬ。

それからロシア語に行くかというと、じつは朝鮮・韓国語が待っている。トルコ語をやっているうちに、配列がほぼ同じ朝鮮語をやりたくなった。配列という点では、日本語もほぼ同じだ。しかしトルコ語を勉強すると、自分らの使っている言語を外国語みたいな目で眺めることになる。配列がほぼ一緒やから。トルコ語がこうなら、朝鮮語はどうかな?と知りたくなった。

さいわいハングルはずいぶん昔から読めるので、いきなり始めることができる・・・。じつはトルコ語も舐めてかかってさんざん苦労したのだが。

ロシア語はいつのことになるかわからない。月子が辞書をくれた。彼女はデジタル版を持っているから、紙の本をくれたというわけ。これを机において、しばらく眺めることにしよう。とりあえず。



ぐるぐる博物館 三浦しをん

連休で月子とはなこが出入りした部屋にあった。読みはじめて、あんまりおもしろいので一気読み。「人間って面白い」とオビに書いてあるが、三浦しをんの変態さがいちばん面白い。



2023年5月3日水曜日

スペインのユダヤ人 関哲之 山川出版社

トレドの翻訳機関での翻訳のやりかた:ユダヤ人やコンベルソ(キリスト教に改宗したユダヤ人)がアラビア語の原典を口頭でローカルのスペイン語に訳す。それを聞いてスペイン人がラテン語で筆記する。

そんな詳細や蘊蓄や情報がてんこ盛り。分厚い本ではぜんぜんないけれど、情報量が多い。スペインの歴史が、ユダヤ人とのインタラクションそのものだったことがわかる。ユダヤ人はマイノリティーとして単なるトッピングだったのではない。スペイン人とユダヤ人は麺とつゆのように絡みながら歴史を作ってきた。ユダヤ人がなければスペインはただの麺。味も何もない。しかしそれはスペインだけではなく、ベルギーも、オランダも、イギリスも、ポルトガルも、そしてブラジル経由でユダヤ人を受け入れたニューヨークもそうだった。

ユダヤ人の情報・貿易ネットワークがなければ、ヨーロッパもアメリカもただの麺だったに違いない。


異体字の世界 小池和夫 河出文庫

筆者は活字・写植の文字校正者。ほんまマニアックな世界。老眼ゆえか、いや老眼でなくとも目を凝らさないとわからない点の有無など散りばめてあって、この本の活字写植の人もさぞかし大変だったに違いない。ベッドサイドにおいて寝る前に読むと、速攻で睡眠に入ることができる。

2023年3月8日水曜日

酒は老人のミルクである 玉村豊男 世界文化社

 上田の図書館のリサイクル本コーナーで、無料で入手。玉村さんの対談集。「酒文化研究所」のインタビューなので、どうやら酔っ払いつつの鼎談。第1章のゲストは米原万里さん。ロシア語にはウォッカを「ストレートで」飲むという表現がないのだという。これは月子にも再確認したところ、やはりそうらしい。

それよりも面白かったのが第2章。三枝成彰さんを交えた鼎談で、西洋音楽史論。酔っぱらい鼎談なので、文脈を整理しないとよくわからなくなる。

・西欧人、特にゲルマン系は音楽に酔うことを嫌う。日本人は酔うのはいいことだと考える。
・一神教は酒に酔うことを嫌う。
・恋愛はシェークスピアのロメオとジュリエット(1595ねん)まで解禁されなかった。ロメオとジュリエットですら一応結婚していた。14歳だったけど。
・日本では電灯が全国的に普及した1935年になって夜這いが滅亡した。
・カント(1804年没)は「あらゆる芸術のなかで音楽は最下等だ」といった。近代合理主義の観点からするとオカルト的だから。単なる嗜好品である、と。
・モーツアルト(1791年没)は快楽と金と名声のために音楽を書いた。その頃、文化の中心はイタリアからウィーンに移っていた。
・ベートーヴェンはカントの哲学を音楽で表現しようとした。音楽はロジックである、と。でも第9(1824年)でシンフォニーに歌を入れた。ベートーヴェンは革命的だった。
・そもそも西洋音楽ではソナタ(器楽)とカンタータ(声楽)を混在させない。オペラ作曲家はシンフォニーを書かないし、シンフォニー作曲家はオペラを書けない。
・キリスト教は器楽を嫌った。楽器はダンスに使われていたから。ダンスは淫乱だから。
・ベートーヴェン以降は、他人と違うことをロジカルにやることが大切になった。究極的に現代音楽というわけのわからんものが出現した。
・一神教の国は二元論なので、どこかで悪魔性を解放しなければ持たない。例えばカーニバル。
・西洋音楽がどこでも同じに演奏されるのは楽譜の発明によるところが大きい。
・ショパン(ポーランド・1849年没)とリスト(ハンガリー・1886年没)まで西洋音楽にはローカル性がなかった。
・ロマン派以降(1820年〜)になるとテンポが揺れる。テンポが揺れると指揮者が必要になる。テンポが揺れるのはジプシー音楽の影響。つまりカトリーク教会の力が弱くなった。
・半音階は淫蕩である、と教会は考える。
・クラシックはドイツの民族音楽。
・A=440ヘルツが推奨されたのは1834年、オーストリア政府が公式勧告したのが1885年。
・チャイコフスキーは快感のツボを押さえすぎるので下品だと禁欲的な西欧人はいう。

1085年にトレドがレコンキスタされ、アラビア語で記された膨大なギリシア・ローマの知識体系の蔵書が発見された。アルフォンソ王はユダヤ人(やアルメニア人)を使ってそれをラテン語に翻訳させた。翻訳事業が終わるとアルフォンソはユダヤ人に改宗するか、追放されるかの一択を迫った。それから500年、シェークスピアが会ったはずのない(イギリスでは1290年から1689年までユダヤ人追放令が生きていた)ユダヤ人を極悪金貸しとして描写した「ベニスの商人」でユダヤ人のイメージは完成された。ユダヤ人は約1000年間、西欧で暴力的に迫害された。

西欧は中間的な存在を認めたくなかったのだろう。人間でも、音でも。

音楽では、ウードにフレットが打たれてリュートとなり、のちにギターとなった。バイオリン族以外の楽器はことごとく12音階に追従した。バイオリン族はかろうじて生き延びたものの、半音階はダンスと同じく淫蕩とされた。

中間物を排除してエッセンスを取り出し、理屈を発見し、敷衍する。自然科学でも薬学でも医学でも、競争心あふれる西欧人がもりあがった1000年間。政治と宗教が推進したとはいえ、もともと西欧人の嗜好に合っていたのだろう。中東発祥のキリスト教が西欧で広まったのも、西欧人の二元論好き、ロジック好きに訴えたに違いない。一見したところ相反する自然科学とキリスト教の併存は、西欧人にとってあんまり抵抗がなかったのか。それともキリスト教が西欧人の嗜好に寄り添うように進化したのか。

その1000年間、西欧は虐める対象としてユダヤ人を必要としていた。まるで共依存の夫婦のように。ユダヤ人がなければ西欧はなかった。競争心あふれる西欧人がお互いに破滅的な殺し合いを避けるためには、ユダヤ人という共通の敵が必要だった。

ユダヤ人のおかげでアイデンティティーを確立し、科学技術と武器とダイナマイトを発明した西欧は、世界を植民地にした。植民地から搾取し、奴隷にした有色人種から搾取し、蓄積した富と不労所得の旨味を追求。ついにドル世界全体をファイナンス化し、為替と株と商品先物の売買で巨額の不労所得を獲得するシステムを作り上げた。調子に乗って、資源をもつロシア、労働力をもつ中国を植民地化しようとして戦争をはじめた。

終わりの始まりだ。

文明論的観点では、イスラエルの墓穴を掘った。ユダヤ人がイスラエルを建国してしまったいま、西欧はどうすればいいのか?西欧は秦の始皇帝が出なかった中国。統一は絶対不可能。共通の敵を見つけなければならない。ロシアか?

音楽では、12音階をもとに和声楽が発達し、アフリカのリズムと合流してジャズが生まれた。それが西洋音楽の到達点であり、ウィントン・マルサリスがジャズの墓を掘った。ジャズが緊張感をともなったエキサイティングな音楽ではなく、居酒屋のトイレで流れるBGMとなった。クラシック音楽は、死骸である。


2023年2月14日火曜日

酒楼にて/非攻 魯迅 藤井省三訳 光文社古典新訳文庫

去年2022年の11月に同学会があった。その2ヶ月くらい前、八木同学から「神戸の県庁近くに上海料理を出す店がある」と聞き、「在酒楼上の真似ごとしよう。茴香豆あるかなぁ?」みたいなメールを送った。「在酒楼上」というのは、魯迅の「酒楼にて」のことだ。原文は読んだことがなかったのだが、きっとどこかで日本語訳を読んだ記憶があって、唯一印象に残っていたのが、主人公が酒のつまみにした茴香豆だった。八木同学は碩学なのでもちろん「在酒楼上」を読んでいた。我輩は読んだことがなかったので、ネットで原文を入手した。読んでみてとてもいい文章だと思った。簡素なのに情報量が多い。ふつう漢字というのは情報量が多いのだが、それなのにシンプル。こんな文章を書けたらいいだろうなあと思った。暗記したらいいんじゃないかと思い、通勤電車の中で暗記をはじめた。同学会で「近頃こんなことやっててな」と言いたいがために・・。

我輩が読んだはずの日本語訳は確か竹内好さんの翻訳だったと思う。竹内好さんの訳した魯迅は、空気感みたいなものを上手に伝えていて、とてもいい。その新訳が出たというので、取り寄せてみたのが標記の本。

訳者の藤井省三さんは東大の博士。とても偉い人である。魯迅と村上春樹の比較で文学博士号を取った、とどっかで読んだ。

村上春樹というのは、我輩にとってレイモンド・チャンドラーが日本に生まれて、チャンドラーみたいな文体で、でも日本語で、ちょっと不思議な小説を書いてくれているという立ち位置だ。村上春樹がチャンドラーを翻訳したと知った時、じつに自然な流れだと思った。チャンドラーの古い翻訳は、東大出の大家の爺さまが派手な誤訳をかましていたこともあり、しかしあまりに地位が高く、あまりに爺なので出版社が泥を被るしかなかったようだ。

チャンドラーと村上春樹の共通点は、文体だけではない。両者ともに、読み終わったら内容をすっかり忘れてしまい、「これ読んだことないよね」と手にとって読みはじめたら、「おや?これいつか読んだよね」となること。また、同じような設定を長編、中編、短編で使いまわしているので、「これ確か読んだことあるよね」と思っても、全然別の本だったりする。

我輩は「酒楼にて」を読んだ時、その空気感がチャンドラーに似ていると思った。魯迅とチャンドラーは、10歳くらい違うとはいえ、ほぼ同年代だ。10歳くらい違うとはいえ、チャンドラーの奥さんはチャンドラーより10歳くらい年上なので、乱暴に同世代と括ってしまっていいとしよう。洋の東西は違うけれど、似かよった時代背景ということを言いたい。

さて標記の本である。付属情報が多いので、とても参考になる。「酒楼にて」では、主人公と友人が結局5斤の酒を飲むのだが、5斤は3リットルなので大酒である、と指摘したのはこの藤井省三さんであった。「非攻」では、主人公が携帯する弁当がとうもろこしの蒸し饅頭なのだが、その時代にとうもろこしは中国に入っていないことが指摘されている。同様に、「奔月」で女性が食べる炸醤麺に必要な唐辛子も、その時代には中国に入っていないと指摘している。

指摘は食べ物と飲み物だけじゃないけど。しかし食べ物と酒はわかりやすい。

さて「酒楼にて」の訳文である。藤井さんは、竹内好さんの訳文に難癖をつけて、「一つのセンテンスを幾つにも分割して、文意を損ねている」みたいに批判し、「句読点は原則的に原文に忠実に訳した」なんて言っているが、そこはあくまで原則。原文を(まだ全部じゃないけど)暗誦した我輩からすれば、あれれ?というところもある。ならば、竹内好さんをそんなに批判することないやん。そもそもめっちゃ情報量の多い漢字でできている中国語を、薄めの日本語にするのだから。さらに、主人公の一人称が「僕」なので、魯迅というより村上春樹を読んでいるような気分になってしまう。結論として、竹内好さんの翻訳のほうが、魯迅の時代の空気感をよりよく伝えていると思う。

ほんのちょっとしたことで生じた違和感が最後まで後を引くことがある。それが、揚げ豆腐の調味料の唐辛子醤油を「辛子醤油」と訳しているところ。日本語で辛子醤油といえば、崎陽軒の焼売を食べる時につける定番のアレではござらんか。唐辛子醤油を辛子醤油とは言わないね。

それから、「実のところ旅先でのしばしの暇つぶしであって、大いに飲もうというつもりではなかった」という訳文。原文は「其实也无非想姑且逃避客中的无聊,并不专为买醉。」「じつのところ旅の退屈しのぎであって、特に酔いたいためではなかった。」という感じだと思っていたので、ここでも「あれれ?」と思った次第。

とはいえ付帯情報は参考になるし、「非攻」他の翻訳もついてくるので、お買い得だ。