あとがきによるとロシア病に感染したイギリス人による本。思わず声を出してわらってしまうところが何箇所もある。
これによると、ロシア人とウクライナ人は昔から仲がわるいらしい。ジョークがひとつ紹介されている。
ロシア人が宇宙に行ったらしいと聞いたウクライナの老農民、うれしそうに「連中、ひとりのこらず行ったのかね?」
あとがきによるとロシア病に感染したイギリス人による本。思わず声を出してわらってしまうところが何箇所もある。
これによると、ロシア人とウクライナ人は昔から仲がわるいらしい。ジョークがひとつ紹介されている。
ロシア人が宇宙に行ったらしいと聞いたウクライナの老農民、うれしそうに「連中、ひとりのこらず行ったのかね?」
マイケル・ハドソン先生はスコット・ホートンの反戦ラジオとか、マックス・ブルーメンタールのグレイゾーンとか、ベンジャミン・ノートンのマルチポラリスタとかにゲスト出演していて、親しみやすくてとてもわかりやすい話っぷりでファンになった。
そのハドソン先生が1972年に書いていて、出版社の事情でたなざらしになっていたものにぼちぼち書き加え、なんとその内容がいまのいまになってとても新しくエキサイティング!ということである。
1970年代に徳間書店が翻訳権を取って、しかし政治的理由から出版が止められていた・・・と聞いていた。日本語版がないものだと思って英語版を買って読みはじめたら、そのうち日本語版が出されているのに気づいた。いきがかりじょう今のところ英語版を読んでいるが、そのうち日本語版も手に入れたいと思う。
日本語版の翻訳は広津倫子さん。1947年うまれのこの人は、なんと21冊も翻訳している。すごい仕事量である。いまでこそたとえばDeepLみたいな優秀翻訳ソフトを使って下訳し、それをちゃんとした文脈の日本語にする、というようなまるでさいとうたかをプロダクション的仕事のやりかたであれば、膨大な仕事量をこなすことも可能だろう。しかし我輩より11歳も年上ですよ。そしてファンタジー小説から経済評論までという幅広さ。21冊ぜんぶが徳間書店だから、徳間から頼まれて断れなかったんだろうな。それを考えるとさらに日本語訳を読みたくなる。
内容は、めっちゃおもしろい。興奮する。ロシアと中国の枢軸機構がアメリカのドル基軸通貨体制をぶっこわそうとしているいま、なぜドルが基軸通貨になったのかをさかのぼって学ぶことは決して無駄ではない。
マイケル・ハドソン先生いわく、よく売れるなと思ったら財務省の訓練マニュアルになっていたとのこと。先生独特のユーモアのセンスが光っている。
日本語と語順がいっしょだからと舐めていた。じっさいは壁がいきなり出現する。
1. 日本語と語順がいっしょだから、トルコ語の教科書もそれを前提に、いきなり文法と膨大な単語で日本人学習者を苛む。 しかも動詞がやったら多い。
日本語なら [漢語+ する] というパターンで、[する]という動詞ひとつでたくさん応用がきく。
ペルシア語も同様に、[〜キャルダン=〜する]という動詞ひとつでたくさん応用がきく。
トルコ語の場合、いちいち独立した動詞になっている。だから動詞がやたら多い。
2. 日本語と語順がいっしょじゃないところがある。
われわれの言葉(トルコ語も日本語も)は膠着語といって、うしろに言葉がくっついてゆくという特性がある。トルコ語と日本語が違うのは、うしろに主語を示す言葉がくっつくことだ。
たとえば、トルコ語世界で誰もが知っているシンガーソングライター、セゼン・アクスに「ヴェズゲチティム」(あきらめました)というバラードがある。
https://www.youtube.com/watch?v=83PXWOoucDU
ヴェズゲチが語幹、テが過去をあらわし、最後のィムが「私は」という主語を示している。だからヴェズゲチティムというひとことで、「わたしはあきらめました」という意味になる。
語尾で主語をあらわすというのは、mという音が一人称をあらわすことも含めて、お隣さんのペルシア語から輸入されたのではないかと思う。ペルシア語もそうなのだ。ただトルコ語人はみとめたくないだろうけれど。
mが一人称をあらわすというのは、英語も同様で、I am なんたらというbe動詞に残っている。これだけでなく、ペルシア語を勉強していると「これってスペイン語といっしょやん」というのが出てくる。ラテン語もゲルマン語もペルシア語の影響を受けているんだと思う。ラテン人もゲルマン人も認めたくないだろうけれど。
3. 語幹がわからん
どこまでが語幹なのか、ざっと文法を学ばないとわからない。文法だけではなく、我々のことばには「母音調和」という現象があって、それが問題をさらにややこしくしている。
母音調和というのは、東京外大のわかりやすいたとえ話を引用すると、母音にセ・リーグとパ・リーグがあって、両リーグはひとつの単語に同居しない。セ・リーグ単語はセ・リーグの母音しか使えないし、パ・リーグ単語はパ・リーグの母音しか使えない。しかもそのリーグ制は、動詞のあとにくっつく時制や格まで影響する。
日本語の母音調和は万葉集の頃までかろうじて残っていたことが、長田夏樹先生の研究であきらかにされた。だが、いまは残っていない。ウィグル語やウズベキ語にも残っていない。しかるにトルコ語にはしっかり残されている。
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というわけで、毎朝トルコ語にどう取り組むか、通勤電車にゆられながらあーでもないこーでもないと、あれこれ試行錯誤する我輩は63歳である。
でも、できたら楽しそうじゃないか。自分が毎日なんの気なしに話している日本語を見直すきっかけにもなる。
はなこが貸してくれた。イラスト集だけれど、どちらかというと文章のほうに感動した。我輩たちが若かったころ筒井康隆を読んだように、こんな文章を空気のように吸収した若い人たちがつくる未来というのも、とても楽しみじゃないか。
拙宅をご来訪になった清水閣下にちょっと見せたら、「この本なら30分で読んじゃうんじゃない?」と言われた。じっさいには1時間以上かけてまだ読みきれていなかった。筆者の実体験を描いているので、ストーリーの背景を構成する情報量が多く、そのせいかじっくり読まされてしまう。
なによりも、筆者のひたむきな生きざまに胸を突かれる。
「〜を知るためのn章」シリーズは、(出はじめのころではなく昨今の)地球の歩き方みたいに無責任ではなく、学術的なことも書いてあるので、値段は高いけれど買って読みたいと思う。たいてい複数の著者、場合によっては章ごとに異なる著者が担当していて、いろんな観点からその国のことを知ることができる。
しかし「モンゴルを知るための」の場合、金岡さんという我が輩と同年生まれの著者ひとりがぜんぶ買いているので、例外的といっていいかもしれない。そのせいか、通読すると金岡さんの癖というか傾向が滲みでていて、この人は左翼が徹底的に嫌いなんだなと思う。そのせいか小渕さんはじめ自民党外交びいきのようで、いやいや右であれ左であれ、日本であれモンゴルであれ功罪はそれぞれあるでしょ、と言いたくなる。
我が輩はまず言語の章から読みはじめ、もうちょっと深く書いてほしいな、というあたりで別の話題に流れてしまう。ま、専門書じゃないのでこれ以上深掘りしたところで一般の読者がドン引きするだけだろう。我が輩が師と仰ぐ長田夏樹先生(東京外大モンゴル語OBなので金岡さんと同門)の講義なんて受講者全員がドン引きしていたのだから。
つぎに歴史。第1に明が元にとってかわってからのモンゴル帝国がどうなったのか、第2に木村肥佐生さんが描写する徳王とはいったい何者だったのか、第3に草原のモンゴルがなんで社会主義共和国になったのか、第4にそこでなにがどうなっていたのか、以上のことをぜんぜん知らなかった我が輩である。そこで歴史のところをぜんぶ読んだのだが、やっぱりよくわからない。もういっかい読まないといけないな。
著者がモンゴル好きというのはよくわかるのだが、「遊牧民から見た世界史」の杉山正明さんみたいなスカッとした読後感はない。いろんなことをいっぱい書いてあって、その意味で拡散していて、著者の専門が何なのかよくわからない。仏教用語に独自のふりがながふってあって、チベット仏教とか密教系の人なのかなという感じもする。それにもかかわらず、この本にとってかわるモンゴル入門書はないので、貴重な労作だと思う。