2024年8月22日木曜日

アフガニスタン紀行 岩村忍 現代教養文庫

やっと手に入れた。嬉しいので、まだ読んでないけれど感動を書いておく。昭和でいうと29年、西暦でいえば1949年の調査旅行記録である。出版されたのが翌年。長らく絶版になっていたのが文庫に収録された。それが昭和でいうと52年、西暦でいえば1977年。その文庫版を手に入れた。最後の一文がすばらしい。

「明日からは汽車も電燈も飛行機もある普通の旅行になる。こんなあたりまえの旅はもう私にとっては、ちっとも旅行らしい気がしなくなってしまった。」

岩村忍さんは1905年生まれ。トロント大学の大学院を出てから、共同通信社。あるとき突然、西北研究所に出現したようなイメージがある。西北研究所は、満州を足がかりにモンゴルに進出しようとしていた日本帝国の出先機関のうち、高級な研究機関。

日本帝国の出先機関としては、官民連連携したかたちで、いろんなレベルがあった。中国でいちばん有名なのは東亜同文書院。その遺産は愛知大学が引き継いでいる。ハルピンではハルピン学院。ロシア語人材育成機関である。モンゴル方面でいちばん高級なのは西北研究所。我が恩師の長田夏樹さんもちょっとだけ関係していた。木村肥佐生さんがいた蒙古善隣協会は、いまでいえば青年海外協力隊みたいな感じの、現場レベル。その木村さんや、西川一三さんがいた興亜義塾は民間組織ながら、15歳くらいから満州に送り込んで辮髪を結わせ、現場で青少年を育成したらしい。

スパイ育成といってしまえばそれまでだが、ジェームズ・ボンドみたいに現場でひとりで(あるいは美女とふたりで)なんもかんもやってしまうというのではなく、高級なのは学術研究から、最前線では半グレまとめて根性入れるみたいな民間塾も含めて、総体として組織で動いている。

西北研究所の人脈は、のちに京都大学人文科学研究所にそっくりそのまんまというイメージで移植される。岩村さんもそこの教授になる。

ちょっとしか読んでいないけれど、いまとまるで一緒やん、ぜんぜん変わってないやん、というイメージである。アフガニスタン。すごいぞ。

2024年8月18日日曜日

ユーラシア大陸思索行 色川大吉

旅行記が好きだ。新刊本屋でも古本屋でも、かならず旅行記の棚を眺めている。我輩の世代に膾炙したのは、なんといっても開高健。

標記は1971年7月から11月まで、色川大吉さんが若手といっしょにフォルクスワーゲンのバスでポルトガルのリスボンからインドのコルカタまで陸上の旅をした記録。東京経済大学の教授という肩書きと、三笠宮崇仁親王と友達であるという以外に箔もスポンサーも紹介状もない旅だったという。

そのへんが開高健と違う。開高健がベトナムに行ったのは朝日新聞の記者として、アメリカ軍の従軍記者としてだった。「オーパ!」は集英社の月刊プレイボーイ、「もっと広く」「もっと遠く」は朝日新聞。開高健は旅先のあちこちで在外公館にやさしく応対されるが、色川大吉さんはあちこちで冷たくあしらわれる。在イラン日本公館の弁務官が色川さん一行に「普通に」応対したのは、三笠宮崇仁親王の紹介状があったからだった。

ゆえに記述は客観的になる。現地の商社マンがイランについて「この国を支配しているのは国王と1000家族で、あとの2500万人はドンキーだと、彼ら自身が認めていますよ。」という発言をそのまんま新聞に寄稿して大きな問題になる。開高健の旅行記も面白いが、色川さんの本はさらにスリリングだ。

色川大吉さんは我輩の死んだオヤジと同じ1925年生まれ。開高健は1930年生まれで、我輩の母親とほぼ同世代。親の世代となると、ものの見方や価値観がかなり違う。色川さんの記述にも違和感をおぼえるところがある。

ひとつはアフガンにおけるモンゴル軍の残虐さについて。杉山正明さんの労作で、欧州人がいうほどモンゴルは残虐ではなかったことが明らかにされた。欧州人がいうほど残虐ではなかったけれど、抵抗する人たちには徹底的に残虐だった。アフガンの人たちはたぶん抵抗したので、モンゴル人も徹底的に殺し、破壊したのだろう。アフガン人が抵抗したから残虐に対応したのか、色川さんが当時定説だった欧州人の見方しかしなかったのか。そのへんがわからない。

もうひとつは、祖国日本に対する肯定感の違い。
「ここ(アフガニスタン)にいて、日本をはるかに考えてみると、私には日本がとても嫌悪すべき国のように見えてくる。びっしりと生い茂った湿性の植物群と流行歌の節まわしがまず浮かんでくる。日本人の大半が溺愛しているあの甘いメロディとお涙頂戴の精神風土のことが浮かんでくる。あの小さな島国、奇妙な天皇島での人間と人間との甘え、人間と自然とのなれなれしい内縁関係」云々。

我輩が1985年に7ヶ月を過ごしたバグダッド。ぱりぱりに乾燥した空気の中、ドミトリーのベッドに寝っころがって想うのは、水木しげるが右手だけで丹念に描いた背景の、しっとりした樹木のこと。そんな湿潤の風土だから、麹という黴を利用して、旨い味噌醤油日本酒を産みだした。演歌のなかでも「与作」のようにパキスタン人まで受ける要素をもった歌や、「北国の春」のように東アジア全般で支持される歌がある。それほど忌み嫌うことはないんじゃないか。

世代の違い、と言ってしまえばそれまでだが、それにもかかわらず、この本はとても刺激的だ。



ムニール・バシール マカマート

https://www.youtube.com/watch?v=Y-1VVtZnO_0

ムニール・バシールはウードの演奏家。バグダッド流派の巨匠と言われています。世界にとってラッキーだったのは、30代でハンガリーに移住したこと。ドイツとかヨーロッパのあちこちでいい録音を残してくれました。1997年没。

アートをBGMにするのは失礼だけれど、入門コースとしてはそれしかない。何度も聴いていると、曲の違いや、そのうちにスケールの違いが聞き取れるようになる・・かな?

ウードは音域が低いので、聴いていて耳障りになりません。逆にウードなど環地中海音楽から西欧音楽に切り替えると、うわっ、なんとキーの高いこと。刺激的すぎて疲れてしまいます。

諏訪郡原村の別荘地に、チューニングキーの低いピアノがあります。お邪魔して演奏を聴いたり、ピアノに触らせてもらったことがあります。オーナーによると、西欧音楽ではキーがだんだん高くなった歴史があって、ついに現在のA=440Hzになってしまったそうな。

ピアノが誕生したのは1709年。赤穂浪士討ち入りの5年後。日本ではちょんまげ時代。そのころはA=415Hzだったと言われています。低いチューニングで演奏していたので、いわゆるクラシック音楽はいま聴くよりまったりしていたんじゃないか・・・というような話を原村で聞きました。おそらくナカムラクニコさんがきた時だったか。

フェースブックにFans of A=432Hz Modern Pianoというのがあります。うむ。かなりスピリチュアルな世界の人だ。

チューニングを上げることができたのは、がっしりした鉄枠に高張力鋼線を何十本も張るというテクノロジーがあってこそ。逆にもっとチューニングを下げれば、ピアノはもう少し軽く、ヤマハのCP88くらいになるのかな。あるいはフェンダーローズとか。A=440Hzを432Hzにすると、張力が30%弛むそうです。

https://ameblo.jp/otokobopiano/entry-12588129752.html

ピッチを変えるという面倒なことをするより、キーを変えたらええんじゃないかと思うのだが、クラシックの世界でキーを変えるというのはタブーみたいです。曲名が変わっちゃうから?

ピアノはともかく、音域が低いまま現代に至り、音楽の最前線で活躍しているウード。ウードに西洋人がフレットをつけたリュートは「古楽器」になってしまったのに、ウードはばりばりの現役です。それに伴い、トルコなんかのボーカルの音域も低めです。「ホテル・カリフォルニア」とか「ダンシング・オールナイト」みたいに、普通の人が歌えないような音域の曲はあんまりない。

バンドをしていた人なら、ボーカルがモゴモゴゆってて前に出てこないじゃん、というかもしれない。ま、音楽の楽しみかたは人それぞれ。

佐久の5月の音楽祭で、たっちゃんがギターで参加したバンドのボーカルは80歳近いおばあちゃん。ソウルフルでファンキーなボーカルを聞かせてくれました。本人によると、年々キーが下がってきたそうな。もうジャニス・ジョプリンは歌わないそうです。

「キー下げたらジャニスじゃなくなっちゃうよね。」

2024年8月15日木曜日

ベルナルド・サセッティ アセント

https://www.youtube.com/watch?v=j9Gftb6AGGQ

イタリア人と思っていたら、ポルトガル人だそうな。ジャズの人だと思っていたら、映画音楽とかコマーシャルフィルムでも有名だそうな。うん。ジャズというより、上手なコントラバスやドラムや、ときにはヴィオラ(チェロかもしれない)がきっちり絡みあい、彼独自の世界を作り上げている。いい意味でとてもヘンだ。

台風が近づくという夕方、うたた寝しながら聴くと、ヘンな世界に没入できる。我輩の場合、黄色の背景にモノクロームのミッキーマウスの怒り顔や呆れ顔が散らばったレコードジャケットが脳内に出現した。

2024年8月12日月曜日

千曲川ワインバレー 新しい農業への視点 玉村豊男 集英社新書

良書である。山本博さんの「日本ワインをつくる人々」でよく理解できなかったところなどを、この本で説得力豊かに展開され、理解できるようになった。

例えば、欧州で主流のワインぶどう種を、なぜ日本で栽培すべきなのか、という点など。

玉村さんの書く本は、彼がワイナリーを始める前から読んでいた。ワイン作りを始めてからも、時々読んでいる。はじめは留学帰りのおフランスかぶれと思って読んでいたし、実際にそういう面もあったと思う。しかし日本でワイン農園を始めたあたりから、日本人としての見方が確固たるものになったようだ。

グルジアで農家の土間に甕が埋められ、その中でブドウが熟成しているのを見て、ワインはブドウの漬物だったと玉村さんは気づく。

原産地がどこであれ、ブドウは植えられたテロワールに順応して育ち、そこで育まれた食事と調和する。それはフランスであってもいいし、グルジアでも長野県でもいい。

11年前の本。ほどよい時間が経った。自分の感動を伝え、人を感動させる本の内容が、まったりとした時間のなかで展開している。それを眼前にするのは素晴らしい。