2022年7月31日日曜日

アムステルダム・アンダルシアン・オーケストラ

 Tarab nights with Sanaa Marahati & Amsterdam Andalusian Orchestra

https://www.youtube.com/watch?v=Uy4CuHv_PPo

”Amsterdam Andalusian Orchestra”で検索すると、いろんな動画がぽこぽこ出てくる。そのいずれもが、1時間以上。長いぞ。

共通しているのは、アンダルシアだけあって明るい曲調が多い。このところ中東の音楽を聴いている我が輩には、奇妙に感じられるほど明るい。それゆえか、一度聞いたらそれで満足してしまう。いや、明るい曲は飛ばしてしまうので、一度すら聴いていない。

生まれてこのかた12音階の西洋的音楽を聴いてきた。我が国の音楽も、明治時代から12音階に支配されてきた。公教育の教科書にのっている滝廉太郎からずっとその譜系でやってきた。

だから、この歳になって飽きてしまった。ポール・マッカートニーから石川さゆりからELPからウィントン・マルサリスまで、ぜんぶ飽きてしまった。たしかポール・マッカートニーが言ったように、「リズムとコードパターンの組み合わせなんて、もう限界がきている」のだから、まるでファッション業界でスカートの長さが伸びたり縮んだりするみたいに、新しい世代の新しいオーディエンスに受けるためのコマーシャリズムが支配的になるのだろう。12音階という西欧のイデオロギーが行き着いたデッドエンドだ。

中間音を排除した12音階、それをもとに構築された和音、それを発展させ、アフリカ由来のリズムと融合させて完成したジャズ。スティーヴン・ジョブズが発明した、PCで音楽と動画を管理するという技術、ソニーが先鞭をつけた圧縮技術、ネット通信技術。それらの相乗効果で、居酒屋のトイレでビル・エヴァンスが流されるようになった。これで飽きるなというほうが無理じゃなかろうか。

12音階に代表される西欧のイデオロギーと文化が、我々が生まれ育った風土と身体性にしっくりくるかというと、それは別問題。思春期に聴いて衝撃を受けたような音楽:多くの同世代にとってビートルズ、我が輩にはCCRやオールマンブラザーズやELP、内儀の世代にはローリングストーンズやエリック・クラプトン。なんで「衝撃的」だったかというと、我が輩の場合、それは日常生活とは異質の、明るくてわかりやすい、いわゆるモダンだったからだと思う。

それ以来、明るくわかりやすいモダンさを追求してきた。しかしそのいっぽうで、琉球とか胡弓とか、中間音を保存する音楽の根強いファンがいた。西欧のイデオロギーとカルチャーに「ちょっと違う」と感じる人たちが、「明るくわかりやすくモダン」でないカルチャーを求めているのだと思う。

というわけで、アラビア音楽でありながらアンダルシアの「明るくわかりやすくモダン」な要素を盛ったアムステルダム・アンダルシアン・オーケストラ。使われる楽器は中東由来のものであるにもかかわらず、二度聞く気がしないのは、上述の理由ではなかろうかと思うのだ。

蛇足ながら、我が輩がいまだに飽きずに時々聴いているのがある。スタッフの、ミケールズのMP3音源ライブ。

2022年7月22日金曜日

司馬遼太郎 街道をゆく6  沖縄・先島への道 つづき

 では、「古語を温存している」はずの琉球語が大和語より新しいのか?という矛盾が生じる。

それについては、こういう説明ができると思う。

我々の言語が属するアルタイ諸語のグループには、母音調和という特徴がある。これは、前舌母音グループと後舌母音グループが、あたかも野球のセリーグとパリーグが普段は交流しないように、単語や単語群で共存しないとい不思議な現象である。

以下はあくまでたとえなので容赦願いたい。ウラル・アルタイ語で母音調和を現代まで保持しているのはトルコ語で、そのトルコ語をいま学んでいるのだが、まだ始めたばっかりなのでいい加減なことしか言えない。

例えば、4母音を1組として考える。前舌母音4+後舌母音4で、8母音となる。大和語では、万葉集の時代に母音調和が崩壊しはじめ、8母音が淘汰されて5母音に減少した。琉球ではそれが3母音になった。ヤマト語と琉球語は、それぞれ別々の生成発展のルートをたどって単純化したのである。

さらに、いまここで「ヤマト語」「琉球語」と単純化しているが、司馬遼太郎の標記の本にも出てくるように、琉球語の地域差はヤマトの東北・関東・京都・九州の差異の比ではないらしい。琉球でもヤマトでも、方言はそれぞれ固有のダイナミズムに従って生成発展してきたのであろう。

ヤポネシア語の母音構造はたしかに単純で、南方諸語と共通する局面がある。しかし南方から船でやってきた人々が、そういう人々も多かっただろうし、現に拙者の近い祖先も、その容貌や行動様式からして南方系としか思えないのだが、ヤポネシアで大陸系の色白の娘を口説いて子供をもうけ、その子孫が南方語の文法を捨てて、アルタイ語の文法を採用し、それに南方の音韻を載せた・・・とは考えにくい。それよりも、ヤポネシア諸語が固有の発展生成過程で、音韻を単純化させたと考えたほうが合理的だと思う。

またそのほうが、拙者の恩師・長田夏樹教授をはじめとする諸碩学による考証を積み重ねられた、日本語アルタイ語同源説とも矛盾しないと思うのである。

ヤポネシア諸語と南方諸語の関わりあいを考えるとき、シンプルな音韻以外に共通項が少なすぎる。両者の交流がないとは言えないが、それはあくまで黒潮に面した地域に限られるのであって、ヤポネシア諸島弧の、日本海側も含めて全域で、南方人と大陸系が結婚したと考えるのは、ロマンチックだが無理があると思う。

2022年7月21日木曜日

司馬遼太郎 街道をゆく6  沖縄・先島への道

寝る前に読む本がなくなったので、標記の本を読んだら、眠れなくなった。

柳田國男の「海上の道」と江上波夫の「騎馬民族征服論」を対比させて論じているので、そのことが頭脳をかけめぐったからだ。そして半ば混沌としたなかでの結論:

「異民族に征服されても文法は変わらない」

さらに言えば、

「異民族を支配して文法を変えようとしたら、教育制度を整備して組織的に変えなければならない。それは国家的事業であり、自然の変化ではない。そんな事業は、全盛期のイギリスやオランダでもやらなかったし、できなかった。」

つまり、我々日本人はずいぶん昔からこのヤポネシア列島で、いまの日本語と変わらない文法で話してきた。

周知のように日本語はいわゆるアルタイ語で、朝鮮語、満州語、モンゴル語などのテュルク諸語と同一の、膠着語と呼ばれるグループに属する。

翻ってジャワ語、マレー語、タガログ語、台湾の高砂族の言語、ベトナム語など南方言語は、形容詞がうしろからくっつく以外は印欧語とよく似た文法である。ただし冠詞はなく、性別や格や時制はかなりリラックスしている。単純なようでいて、接頭語や接尾語でバリエーションを稼いでいる。

日本語は、琉球諸語も含めて、音韻は南方的である。本土語は5母音、琉球諸語は3母音。琉球諸語がいにしえの本土語を温存しているという事実から、母音数が少ないほど古語、という思い込みも成り立つ。しかしそれはふつう逆である。言語が進化するほど音韻は単純化することが多い。

しかし、中国語の成立がそうであるように、(<- 楊海英)隣接する民族が合流し、言語がカバーする地域が拡がり、時代を経ると音韻は単純化する。満州族の支配で中国語の音韻が激変したように、異民族の支配によっても音韻は変化する。

さらに、アニミズム面からの思い込みがある。南洋の島々、特に吾輩の場合ボルネオ島やカリマンタンの熱帯雨林で、先住民のロングハウスに滞在したときの経験から、日本人の祖先は南洋であると信じ込まされることがある。しかしこれは、南洋の熱帯雨林に棲息する先住民の祖先の精霊が、日本人だけでなく、誰かれなく滞在した人々に見せる夢なのだ。その洗脳作用によって熱帯雨林は延命を図っている。

つづく。