いまは長野県東御市に定住して葡萄を栽培しワインをつくっている玉村豊男さん。1984年の本なので、著者39歳のころのエッセイ。
30代になって放浪の旅に出た時、リュックサックの重さにバランスを崩して転んでしまった、その余計な重さは酒と本であったという。つまり酒と本という定住者の悪弊を旅に持ち込んだ、自分の年輪に玉村さんは直面したわけだ。
考えさせられる逸話だと思う。
中学・高校と同級生で、小学校教員を38年間勤めて退職した友人は、まだ働き続ける我輩のことを「すごいな」という。「上の娘が40歳のときの子やからね」と、我輩は言う。20代と30代の違いどころではない。書物と酒、そしてどれほどの重さを荷物に加えたことか。
CONCLUSIONと題した節におもしろいことが書かれている。いわく、
私は、
「日常を旅する方法」
というものを、もしもあるとすれば、是非とも手に入れてみたいものだとつねづね夢想している。
どこにいても、たとえ一カ所に、まったく動かずにずっととどまっていたとしても、たとえ毎日まったく同じような(他人の目には刺戟のないないルーティーンそのものに映るような)暮らしをしていながら、その暮らしの刻一刻につねに新しい発見があるような日常。
云々・・・いままで自分の志向をどう説明すればいいのか、なかなか言葉にならなかった我輩である。しかし上の文章で、いい表現を得た気がする。
出自が貧乏人なので、旅というものをしたことがほとんどなかった。小学生のころ東海道新幹線が開通して、父が我輩と兄を新大阪駅に連れて行き、新幹線を見せてくれた。子供心に、新幹線に一生乗ることはないだろうと思っていた。
人生最初に新幹線に乗ったのは、バグダッドにいく途中、東京に立ち寄るための仕事だった。人生最初の飛行機は、バグダッド行きのイラキ航空だった。それ以来人生のほとんどのフライトは仕事のためだった。バグダッド滞在は7ヶ月、いちばん短い滞在だった。帰国して一ヶ月後に赴任したニューヨークで4年間働いた。
自腹で行く短期の旅行に憧れつつ、心のどこかで「現地の言葉もできない短期滞在で、はたして何か見たことになるのか?」と、短期の旅をいささか軽蔑していたことも確かだ。「そこに住み着いて現地人とともに働いて、はじめて異国を理解することができる」と考えていた。しかし「理解」していったいどうなるのか?それは本当の理解なのか?
いや、理解などではない。理解したつもりでも、さらにディープな奥行きが拡がっている。ほんとうに理解しようとすれば、現地人を配偶者に娶り、そこに骨を埋める覚悟が必要だろう。しかしそれでは面白くない。それならば「理解」などという言葉は不適切だ。
では、自分の志向するところは何だったのか?それは「日常を旅する方法」だったのだと、この本を読んで知ったのである。
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