2021年9月10日金曜日

忘れられた日本人 宮本常一 岩波文庫

江戸末から明治にかけて生まれた世代の、老人たちの語りを記録した本。文字をもたなかった人もいれば、文字を使っていた人もいる。たいへん興味ぶかい。とくにちかごろアフガンあたりのことをずっと考えているので、刺激的である。

愛知県北設楽郡設楽町という場所で採集された老人たちの話のなかで、小笠原という女性がこう語る。

「もとは一軒ごとにヒマゴヤがありました。」

「(月の)さわりがはじまるとそこにはいって寝起きもし、かまども別にして煮炊きしたものであります。いっしょに食べたのでは家の火がけがれるといって。しかしわたしの15歳の頃にはだいぶすたれました。それも車の通る道のできたためかもわかりません。この山のむこうにある宇連というところにはつい近頃までヒマヤがありました。」

「このあたりでは、ヒマヤは早くなくなりましても、月のさわりのときは、仏様へお茶湯をあげることもならず、地神の藪へは12日間もはいってはいけぬことになっておりました。」

「女はヒマヤのときは男の下駄をはいてもいけないものでありました。いまでもわたしらのような年寄りは腰巻きは日のあたるところへは干しません。また腰巻きをひろげて干すこともありません。わたしのうちの若い嫁なのそういうことはしませんが、わたしは自分の気がすみませんけに、自分のだけはかげに干しております。」

https://goo.gl/maps/KmCL5xt8HWmJ5HoQ8

こういう話に触れると、タリバンの考えかたが身近にみえてくる。しかし「車の通る道」ができると、住む人の考えかたがぼちぼち変わってくるというのである。

「安房トンネルができてから、飛騨高山を訪れる人が飛躍的に増えました。」と語ってくれたのは、石川県羽咋郡志賀町の宿のおやじさんである。この人は若いころ船橋と羽咋をずいぶん往復したらしい。安房峠というのは長野県松本市と岐阜県高山市の境界で、じっさいに我輩は安房山の峠道を何度か往復したことがある。積雪や路肩崩落のため通行止になることもふつうにあって、トンネルなら季節天候を問わず数分で抜けることができる。このトンネルができたのは1997年、たった24年前である。

伊那谷と木曽をむすぶ権兵衛トンネルができたのは2006年、いまから15年前である。土地の人は「権兵衛トンネルができてずいぶん便利になった」という。それまでは権兵衛さんが開拓した峠道しかなかったのだが、トンネルであっというまに行き来できるようになった。近代日本でも土地の人々はトンネルの威力を肌身で知っている。

アフガニスタンの山にトンネルを穿って人とモノが行き来するようになり、100年も経てばさすがに女性の地位は向上するのではないか。カーブルですら標高1800メートルなので、簡単な工事ではないだろうけれど。

1936年(昭和11年)、甲子園で「躍進大日本博覧会」があったというのをこの本で知った。我輩の死んだ父が11歳のとき、両親が離婚して貧困のどん底に喘いでいたころである。

古い考えかたをする男たちを空爆しても、無線機をもっている男をドローンで発見しミサイルで爆殺しても、タリバンを増やすだけだった。それよりも道路を整備し、トンネルを穿ったほうが、遠回りに見えるようでいて、人々の考えかたや行動様式を内側から変えていく力になると思う。

アフガニスタンはピースコーの初期派遣国のひとつだが、ピースコーはいったいなにを見て、なにを学んで帰ったのだろう?


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