「司馬史観」というのはようするに、日露戦争の203高地攻略で1万5千400人の死者と4万4千名の戦傷者を出した乃木大将を無能だったといって憚らなかった司馬遼太郎のことを批判する言葉である。司馬遼太郎自身がいうように、「大阪外国語学校でモンゴル語をまなび、自分をモンゴル人だと思っていた」若者が徴兵され、「関東軍に属し、満州の四平にあった陸軍四平戦車学校で教育を受け、そのあと東部国境に近い石頭という村落にある戦車第一部隊にいた。」その経験と、関西人らしい中央に対する天然の反抗心のままに、昭和天皇はじめ戦争犯罪について描き出すのに耐えられない人たちが言い出したことなのだろう。
司馬遼太郎はそこまで描いていないと思うのだが、化学者としての昭和天皇はみずから関わってつくり上げた731部隊の研究成果を差し出してマッカーサーに命乞いしたこと、安倍晋三の祖父・岸信介は盟友・里見甫とともに、満州傀儡政権の財政を支えた阿片取引のノウハウと、それで得た巨万の富の一部を上納することで助命され、それのみならず戦後政界の重鎮になったこと。司馬遼太郎がいまの情報自由化、文書開示の時代まで存命だったらと惜しまれるのである。
前述したように司馬遼太郎は大阪外国語学校(のちの大阪外大、現在の大阪大学外国語学部)でモンゴル語を学んだのだが、本人が標記の著作でいうように、「解放前に中国語を学んだ」すなわち大阪外国語学校時代の第二外国語として中国語を学んだ。だから中国語の聞き取りと簡単な会話ができるようだ。じっさいに通訳を介しながらも、市井の茶館などで庶民と交流している現場が想像できて楽しい。とくに最後のあたりで元老兵のことばは圧巻で、なまの言語を理解するものだけが描写できる迫力に満ちている。
ーーー 「うまいんだ。聴きにこないか」と老兵は、いった。
「第二外国語でそこまでできるわけがない」という人がいるかもしれない。しかし今の、あるいは我輩が学生だった40年前の第二外国語のレベルと比べても、司馬遼太郎や陳舜臣が学生だったころのレベルとは格段に異なることを書いておきたい。
陳舜臣は司馬遼太郎とたしか1年違いの同窓である。司馬遼太郎はモンゴル語、陳舜臣はインド・ペルシア語学科である。この「インド・ペルシア語」という括りに注目してもらいたい。現代的にいえば、イランのペルシア語と、パキスタンのウルドゥー語、インドのヒンドゥー語をひとまとめにしているのだ。パキスタンのウルドゥー語とインドのヒンドゥー語は、表記される文字は異なるとはいえ、話し言葉としてはほぼ互換性をもつ同一言語といっていい。しかしヒンドゥー・ウルドゥー語とペルシア語は印欧語族という同じグループに属するとはいえ、我輩がまなんだ限りではまったく違う言語である。それをひとまとめにして教え、訓練されたうえに、第二・第三外国語があった。それらを吸収してしまう当時の学生のレベルの高さを思うべきだ。ちなみに当時は、我輩の頃でさえそうだが、インターネットやYouTubeはない。
それはなにも司馬遼太郎・陳舜臣のころだけではない。我輩の5歳くらい年上の世代の東京外大には「ダッチ・インドネシア語学科」というのがあった。インドネシアはオランダに350年間支配されていたので、インドネシア語にはオランダ語由来の語彙が多量に流入している。とはいえ、オランダ語という低地ドイツ語と、オーストロネシア語であるインドネシア語を、インドネシア語の文法がいかに簡単とはいえ、いっしょくたに教え込まれたのである。それを受け入れた当時の学生のレベルの高さを思うべきだ。
たとえば、中国・タイ・チベット語学科なんてのがあって、中国語とタイ語とチベット語をいっしょに叩き込まれる、あるいは朝鮮・モンゴル・トルコ語学科なんてのがあって、複数の同族言語を同時期に同じ比重で教えられる、そんな感じといったらいいだろうか。タガログ、インドネシア、マレー、ベトナム語をいっしょくたに、もしくはタイ、ビルマ、ラオ語を同時に、みたいな。
さらに司馬遼太郎は戦後、産経新聞の記者をやっていたので種々雑多な分野に旺盛な好奇心をもっている。たとえば標記の本にはこんにゃくや家屋に関する記述があって、そこまで拘泥するかというくらい細部を観察し追求している。また竹の分類まで問題にしていて、室井綽先生の研究を引用している。室井綽先生は大学の一般教養で生物学を教えてもらった縁があり、いわば「謦咳に触れた」といえばいえるのだが、この本で名前を拝見してたいへん懐かしく思った。しかし竹の研究についての著作に触れたことはない。
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