2024年10月1日火曜日

朝鮮語4週間 大学書林

奥書によると、昭和52年に第30刷が出ている。我輩が大学に入学した年である。どうして手に入れたか忘れたが、おそらく坂本好史先輩に貰ったのであろう。ページを開くと、どうやら我輩による書き込みがたくさんある。おやおや、そこそこ勉強していたんだな。例文とかぜんぜん憶えてないけど。45年くらい開いてなかった本だ。

いま暗記しようとしている本は、ハングル検定3級から1級の過去問集。例文と対訳しかない。文法書があったほうが宜しかろうとこの本を久しぶりに開いた。こんなことが書いてある。曰く、

朝鮮語という言葉は他の言語に比して文法形態が非常に細かく分化されていて、それを十分によく整理するまでに至っていないのである。それにその文法構造は日本語のそれに酷似しているので、我々日本人にとってはその構造原理やその他の面ではすでに先刻承知のことが多い。

云々。だから、文法はあっさりすっ飛ばして、例文のあとで必要なところだけ詳しく書く、という。
なんじゃいな。ほな、例文暗記に飽きたらぼちぼち眺めることにするか。



2024年8月22日木曜日

アフガニスタン紀行 岩村忍 現代教養文庫

やっと手に入れた。嬉しいので、まだ読んでないけれど感動を書いておく。昭和でいうと29年、西暦でいえば1949年の調査旅行記録である。出版されたのが翌年。長らく絶版になっていたのが文庫に収録された。それが昭和でいうと52年、西暦でいえば1977年。その文庫版を手に入れた。最後の一文がすばらしい。

「明日からは汽車も電燈も飛行機もある普通の旅行になる。こんなあたりまえの旅はもう私にとっては、ちっとも旅行らしい気がしなくなってしまった。」

岩村忍さんは1905年生まれ。トロント大学の大学院を出てから、共同通信社。あるとき突然、西北研究所に出現したようなイメージがある。西北研究所は、満州を足がかりにモンゴルに進出しようとしていた日本帝国の出先機関のうち、高級な研究機関。

日本帝国の出先機関としては、官民連連携したかたちで、いろんなレベルがあった。中国でいちばん有名なのは東亜同文書院。その遺産は愛知大学が引き継いでいる。ハルピンではハルピン学院。ロシア語人材育成機関である。モンゴル方面でいちばん高級なのは西北研究所。我が恩師の長田夏樹さんもちょっとだけ関係していた。木村肥佐生さんがいた蒙古善隣協会は、いまでいえば青年海外協力隊みたいな感じの、現場レベル。その木村さんや、西川一三さんがいた興亜義塾は民間組織ながら、15歳くらいから満州に送り込んで辮髪を結わせ、現場で青少年を育成したらしい。

スパイ育成といってしまえばそれまでだが、ジェームズ・ボンドみたいに現場でひとりで(あるいは美女とふたりで)なんもかんもやってしまうというのではなく、高級なのは学術研究から、最前線では半グレまとめて根性入れるみたいな民間塾も含めて、総体として組織で動いている。

西北研究所の人脈は、のちに京都大学人文科学研究所にそっくりそのまんまというイメージで移植される。岩村さんもそこの教授になる。

ちょっとしか読んでいないけれど、いまとまるで一緒やん、ぜんぜん変わってないやん、というイメージである。アフガニスタン。すごいぞ。

2024年8月18日日曜日

ユーラシア大陸思索行 色川大吉

旅行記が好きだ。新刊本屋でも古本屋でも、かならず旅行記の棚を眺めている。我輩の世代に膾炙したのは、なんといっても開高健。

標記は1971年7月から11月まで、色川大吉さんが若手といっしょにフォルクスワーゲンのバスでポルトガルのリスボンからインドのコルカタまで陸上の旅をした記録。東京経済大学の教授という肩書きと、三笠宮崇仁親王と友達であるという以外に箔もスポンサーも紹介状もない旅だったという。

そのへんが開高健と違う。開高健がベトナムに行ったのは朝日新聞の記者として、アメリカ軍の従軍記者としてだった。「オーパ!」は集英社の月刊プレイボーイ、「もっと広く」「もっと遠く」は朝日新聞。開高健は旅先のあちこちで在外公館にやさしく応対されるが、色川大吉さんはあちこちで冷たくあしらわれる。在イラン日本公館の弁務官が色川さん一行に「普通に」応対したのは、三笠宮崇仁親王の紹介状があったからだった。

ゆえに記述は客観的になる。現地の商社マンがイランについて「この国を支配しているのは国王と1000家族で、あとの2500万人はドンキーだと、彼ら自身が認めていますよ。」という発言をそのまんま新聞に寄稿して大きな問題になる。開高健の旅行記も面白いが、色川さんの本はさらにスリリングだ。

色川大吉さんは我輩の死んだオヤジと同じ1925年生まれ。開高健は1930年生まれで、我輩の母親とほぼ同世代。親の世代となると、ものの見方や価値観がかなり違う。色川さんの記述にも違和感をおぼえるところがある。

ひとつはアフガンにおけるモンゴル軍の残虐さについて。杉山正明さんの労作で、欧州人がいうほどモンゴルは残虐ではなかったことが明らかにされた。欧州人がいうほど残虐ではなかったけれど、抵抗する人たちには徹底的に残虐だった。アフガンの人たちはたぶん抵抗したので、モンゴル人も徹底的に殺し、破壊したのだろう。アフガン人が抵抗したから残虐に対応したのか、色川さんが当時定説だった欧州人の見方しかしなかったのか。そのへんがわからない。

もうひとつは、祖国日本に対する肯定感の違い。
「ここ(アフガニスタン)にいて、日本をはるかに考えてみると、私には日本がとても嫌悪すべき国のように見えてくる。びっしりと生い茂った湿性の植物群と流行歌の節まわしがまず浮かんでくる。日本人の大半が溺愛しているあの甘いメロディとお涙頂戴の精神風土のことが浮かんでくる。あの小さな島国、奇妙な天皇島での人間と人間との甘え、人間と自然とのなれなれしい内縁関係」云々。

我輩が1985年に7ヶ月を過ごしたバグダッド。ぱりぱりに乾燥した空気の中、ドミトリーのベッドに寝っころがって想うのは、水木しげるが右手だけで丹念に描いた背景の、しっとりした樹木のこと。そんな湿潤の風土だから、麹という黴を利用して、旨い味噌醤油日本酒を産みだした。演歌のなかでも「与作」のようにパキスタン人まで受ける要素をもった歌や、「北国の春」のように東アジア全般で支持される歌がある。それほど忌み嫌うことはないんじゃないか。

世代の違い、と言ってしまえばそれまでだが、それにもかかわらず、この本はとても刺激的だ。



ムニール・バシール マカマート

https://www.youtube.com/watch?v=Y-1VVtZnO_0

ムニール・バシールはウードの演奏家。バグダッド流派の巨匠と言われています。世界にとってラッキーだったのは、30代でハンガリーに移住したこと。ドイツとかヨーロッパのあちこちでいい録音を残してくれました。1997年没。

アートをBGMにするのは失礼だけれど、入門コースとしてはそれしかない。何度も聴いていると、曲の違いや、そのうちにスケールの違いが聞き取れるようになる・・かな?

ウードは音域が低いので、聴いていて耳障りになりません。逆にウードなど環地中海音楽から西欧音楽に切り替えると、うわっ、なんとキーの高いこと。刺激的すぎて疲れてしまいます。

諏訪郡原村の別荘地に、チューニングキーの低いピアノがあります。お邪魔して演奏を聴いたり、ピアノに触らせてもらったことがあります。オーナーによると、西欧音楽ではキーがだんだん高くなった歴史があって、ついに現在のA=440Hzになってしまったそうな。

ピアノが誕生したのは1709年。赤穂浪士討ち入りの5年後。日本ではちょんまげ時代。そのころはA=415Hzだったと言われています。低いチューニングで演奏していたので、いわゆるクラシック音楽はいま聴くよりまったりしていたんじゃないか・・・というような話を原村で聞きました。おそらくナカムラクニコさんがきた時だったか。

フェースブックにFans of A=432Hz Modern Pianoというのがあります。うむ。かなりスピリチュアルな世界の人だ。

チューニングを上げることができたのは、がっしりした鉄枠に高張力鋼線を何十本も張るというテクノロジーがあってこそ。逆にもっとチューニングを下げれば、ピアノはもう少し軽く、ヤマハのCP88くらいになるのかな。あるいはフェンダーローズとか。A=440Hzを432Hzにすると、張力が30%弛むそうです。

https://ameblo.jp/otokobopiano/entry-12588129752.html

ピッチを変えるという面倒なことをするより、キーを変えたらええんじゃないかと思うのだが、クラシックの世界でキーを変えるというのはタブーみたいです。曲名が変わっちゃうから?

ピアノはともかく、音域が低いまま現代に至り、音楽の最前線で活躍しているウード。ウードに西洋人がフレットをつけたリュートは「古楽器」になってしまったのに、ウードはばりばりの現役です。それに伴い、トルコなんかのボーカルの音域も低めです。「ホテル・カリフォルニア」とか「ダンシング・オールナイト」みたいに、普通の人が歌えないような音域の曲はあんまりない。

バンドをしていた人なら、ボーカルがモゴモゴゆってて前に出てこないじゃん、というかもしれない。ま、音楽の楽しみかたは人それぞれ。

佐久の5月の音楽祭で、たっちゃんがギターで参加したバンドのボーカルは80歳近いおばあちゃん。ソウルフルでファンキーなボーカルを聞かせてくれました。本人によると、年々キーが下がってきたそうな。もうジャニス・ジョプリンは歌わないそうです。

「キー下げたらジャニスじゃなくなっちゃうよね。」

2024年8月15日木曜日

ベルナルド・サセッティ アセント

https://www.youtube.com/watch?v=j9Gftb6AGGQ

イタリア人と思っていたら、ポルトガル人だそうな。ジャズの人だと思っていたら、映画音楽とかコマーシャルフィルムでも有名だそうな。うん。ジャズというより、上手なコントラバスやドラムや、ときにはヴィオラ(チェロかもしれない)がきっちり絡みあい、彼独自の世界を作り上げている。いい意味でとてもヘンだ。

台風が近づくという夕方、うたた寝しながら聴くと、ヘンな世界に没入できる。我輩の場合、黄色の背景にモノクロームのミッキーマウスの怒り顔や呆れ顔が散らばったレコードジャケットが脳内に出現した。

2024年8月12日月曜日

千曲川ワインバレー 新しい農業への視点 玉村豊男 集英社新書

良書である。山本博さんの「日本ワインをつくる人々」でよく理解できなかったところなどを、この本で説得力豊かに展開され、理解できるようになった。

例えば、欧州で主流のワインぶどう種を、なぜ日本で栽培すべきなのか、という点など。

玉村さんの書く本は、彼がワイナリーを始める前から読んでいた。ワイン作りを始めてからも、時々読んでいる。はじめは留学帰りのおフランスかぶれと思って読んでいたし、実際にそういう面もあったと思う。しかし日本でワイン農園を始めたあたりから、日本人としての見方が確固たるものになったようだ。

グルジアで農家の土間に甕が埋められ、その中でブドウが熟成しているのを見て、ワインはブドウの漬物だったと玉村さんは気づく。

原産地がどこであれ、ブドウは植えられたテロワールに順応して育ち、そこで育まれた食事と調和する。それはフランスであってもいいし、グルジアでも長野県でもいい。

11年前の本。ほどよい時間が経った。自分の感動を伝え、人を感動させる本の内容が、まったりとした時間のなかで展開している。それを眼前にするのは素晴らしい。


2024年7月25日木曜日

マイケル・ハドソン先生の「政治と経済の激震」抜粋

https://manhaslanded.blogspot.com/2024/07/blog-post_182.html

マイケル・ハドソン:SCO諸国は、欧米のNGOがいわゆる民主化運動を展開するのを積極的に阻止したい。彼らがすでにヨーロッパに対して行ったように、アジアを植民地化するのを阻止するという点で、ほぼ一致している。

ニマ・ロスタミ・アルホルシド:今回のSCOサミットの直後、ペペ・エスコバルの記事がありました。彼はプログラムについて、2015年にプーンが提案したより大きなユーラシア・パートナーシップのコンセプトから始まったと語っていました。この計画のイデオロギーは、2018年にロシアの歴史家セルゲイ・カラガノフによって練られたようです。

マイケル・ハドソン:実に興味深い。カラガノフは最近、戦略の全容を明らかにした。カラガノフが行ったのは、NATOとユーラシア大陸の間で現在見られる文明間の闘争を長期的な視野でとらえることです。

彼はそれを1000年前の十字軍にまでさかのぼらせた。12世紀から13世紀にかけての十字軍は、ローマがキリスト教を支配し、逆転させようとする試みだった。

11世紀には5つの総主教座[ペンターキー]があり、ローマは総主教座の最底辺だった。ローマ教皇庁は、イタリアの地元一族によって支配されていたため、「娼婦の教皇庁」と呼ばれていた。

正教会はローマ帝国時代から存続し、コンスタンティノープルにあったが、アンティオキア、アレクサンドリア、エルサレムにもあった。これがキリスト教の中心だった。

1075年だったと思うが、ローマはすべてのキリスト教を支配しようと考えた。文明においてまったく前例のないことを始めるつもりだった。過去3000年間、多くの帝国が存在した。ペルシャ帝国、アジアのさまざまな帝国、イスラム帝国があったが、共通項があった。それらはすべて宗教的に寛容だった。聖書の中で、ペルシアのキュロス王がユダヤ教を崇拝することを許可したことは皆さんもご存じの通りです。バビロニアに捕らえられ、バビロニアに連れ戻されたユダヤ人たちがユダヤに帰ることを祝福した。

他にも、例えばエルサレムではイスラムが寛容だった。コンスタンチノープルにつながる主要なキリスト教総主教座のひとつは、イスラムの支配下にあった。そこでは両教会とも寛容だった。

十字軍の後のオスマン帝国は、非常に寛容だった。そこにはユダヤ教、イスラム教、キリスト教、その他あらゆる宗教があった。ローマ帝国は、基本的に自分たちだけしか存在してはいけないと言った。西欧は他の全世界と戦争をすることになった。

それが何世紀にもわたって続いた。カトリック間の戦争でヨーロッパは引き裂かれた。ついに北欧のプロテスタントが分裂した。

ひとつの考え方しか認めない倫理観、西洋の社会組織の行動に対する不寛容さ、宗教に対する不寛容さは、イギリス、オランダ、フランス、その他の国々に対する帝国主義や搾取と相まって、世界にとってまったく新しいものだった。

すでにご存知のように、私はシュメールやバビロニアの歴史を長い間扱ってきた。すでに4千年紀には、シュメールの都市ウルクが原材料を手に入れるための試みが行われていた。青銅は銅とスズから作られる。第4千年紀には、いくつかの都市、要塞都市が建設された。その後、要塞はすべて姿を消した。

「ちょっと待てよ。本質的に他国と戦って平和的な関係を築けるわけがない。貿易を行なえば、原料をくれるし、手工芸品や織物、絨毯など、私たちが作っている製品をあげればいい。」その発想が舞台を整えた。

クブライ・ハーンはそうやってロシア全土に帝国を築いた。カラガノフは、ロシア独立の創始者であるアレクサンドル・ネフスキーが中国に行き、モンゴルに行き、クブライ・ハーンに会ったことを指摘している。ロシアはこのユーラシア全体の開かれた相互発展の一部だった。彼は、ロシア、ひいてはアジアの他の国々の意識全体を、この文化的、さらには宗教的文脈、とりわけ宗教的文脈の中に置いた。

だからこそ、プーチン大統領は最近の多くの演説で言う。ウクライナ人がまず最初にやっていることは、我々は西洋人だから、あなたたちの教会を閉鎖し、破壊する。これが西洋人のメンタリティだ。

プロテスタントとカトリックの戦争でフランスが引き裂かれたのと同じように、破壊的な戦争をウクライナは私たちに押し付けようとしている。

カラガノフは、これは経済的な断絶、ドルからの脱ドルだけでなく、宗教の対立だけでなく、文明と文明のルール、まっとうな世界秩序とは何かということについての対立だと指摘した。

[中略]

西洋は常に軍事征服によって行動した。上海協力機構は対テロ軍事組織であり、軍事的な防衛なくして明確な経済や社会、宗教を持つことはできない。

+++++

「12世紀から13世紀にかけての十字軍は、ローマがキリスト教を支配し、逆転させようとする試みだった。11世紀には5つの総主教座[ペンターキー]があり、ローマは総主教座の最底辺だった。ローマ教皇庁は、イタリアの地元一族によって支配されていたため、「娼婦の教皇庁」と呼ばれていた。正教会はローマ帝国時代から存続し、コンスタンティノープルにあったが、アンティオキア、アレクサンドリア、エルサレムにもあった。これがキリスト教の中心だった。1075年だったと思うが、ローマはすべてのキリスト教を支配しようと考えた。」

塩野七生さんの十字軍物語をはじめから終わりまで読んだつもりだが、上記引用の指摘はなかった。塩野さんはイタリアで暮らしていたから、自分のいるところを相対化するのは難しい。

政治的動機なのか宗教的動機なのか知らないが、なんでそこまで自分らのやり方で征服しようとしたのか。別に宗教とか、イエルサレムのことだけじゃない。音楽では12音階を徹底して広め、アラビアの音階(マカーム)を駆逐した。西洋のことだから、マカームとかウードにこだわるミュージシャンを、おそらく弾圧したんだろう。トレドの翻訳事業でお世話になったユダヤ人も、なんだかんだ言って追放してしまった。「改宗したら追放しない」と言って改宗させておきながら、同化させなかった。人種差別ですな。

簡単に言えば、西欧人が(ローマ法皇と)神の名のもとに、ぜんぶナチになった。ナチが特殊なんじゃなくて、西欧人はもともとナチ的であり、ナチスはそれが表層化した一部にすぎない。「すべての西洋人の心の中に小さなアドルフ・ヒトラーがいる」と喝破したのは我輩だが、アドルフ・ヒトラーはみんなが言いたくて言えなかったことを言い、やりたくてできないことをやっただけだ。麻生太郎とか森喜朗みたいなもんか。「あんたの心の中に小さな麻生太郎がいる」と誰かに言われたら、絶対否定するし、「お前に言われたないわ。」て言うと思う。

キリスト教が緑の森の欧州に入って行こうとしたとき、森を拝む人たちがいた。その人たちが森を拝めなくなるように、キリスト教の宣教師たちは木をぜんぶ切ってしまった。どっかで読んだ話だ。切ったのは木だけじゃなくて、キリスト教に帰依しない人たちの首も切ったんじゃないか。あるいは魔女扱いして森に追放したり。

「欧州は秦の始皇帝の出なかった中国である」と喝破した我輩であるが、ちょっと考え直した。欧州における秦の始皇帝はローマ法王である。ローマ法王は秦の始皇帝ほどの力がなかったので、あちこちの世俗の王を使わなければならなかった。だから地方のわがままが残された。

西欧の秦の始皇帝は、世界征服の野望を捨てない。だから中国が羨ましく、妬ましくてしかたがない。自分たちがやりたくてできない一党独裁を75年間もやっている。欧州は自分たちが言い出した環境配慮とか脱二酸化炭素とかコンプライアンスとかポリコレとかに絡めとられて苦労しているが、中国はばんばん製造して商売して儲けている。ああ妬ましい。

飛び道具と火器と騎馬の機動力はモンゴル人から学んだ。エッセンスを抽出して理論化して敷衍するのは得意だ。