2023年11月29日水曜日

我輩の手記02

 明治時代以来の海外情報収集がなんで民間主導だったか。それはおそらく、政府にお金がなかったからでしょう。たとえば世界で一番きびしく、かつ伝統文化を破壊する不条理な酒税法が制定されたのは明治13年つまり1880年。それ以来、厳しくされることはあっても、緩和されたり見直されたりしたことは基本的にありません。国家の面子というのはほんま不条理です。国家の面子といえば、我輩が働いている下諏訪には首塚が残されています。

そのストーリー。相楽総三はじめ8人の赤報隊が官軍の広報部隊として、「新政府になったら年貢半額(とか免除)」と宣伝するため京都を出発し、中山道を下諏訪までやってきた。その頃には官軍が優勢になったので、赤報隊が官軍にとって都合が悪くなった。相楽たちはニセ官軍とされて、1868年に処刑された。相楽たちの名誉が回復されたのは1928年。

60年のあいだ国家は事実を認めなかった。

バイデン政権はいまやアホの塊なので、ロシアのエネルギープロジェクトへの制裁をはじめた。日本が官民あげて出資するプロジェクトです。これはもうG7への踏み絵。ロシアの天然ガス買うか、それとも俺んとこの天然ガス買うか?俺んとこは値段数倍やけどな。・・・。誰も踏まなかったら、帝国の没落が加速するだけやん。踏み絵を踏んだら、G7で民主主義が没落する。帝国って、自由と民主主義が旗印やなかったんか?

あれれ?また既視感。コンテナには自由と民主主義のラベルが貼ってはるけど、中に入ったら自由も民主主義もない。

創価学会というコンテナには、栄光勝利平和の三色旗が貼ってあって、「日本を前に」とか「小さな声を聞く力」とか自由とか民主主義みたいなことも書いてある。でも中に入ると、自由も民主主義もない。どっちかというと、それを捨てたい人たちが入ってくる。公明党が与党でいるのに、非正規労働者の声は無視され、日本はどんどん後退する。

日本政府が自由と民主主義を捨てたいから、自由と民主主義を旗印にしているG7に入ってる。そうと仮定したら、いまいちど真剣にエーリッヒ・フロム先生の「自由からの逃走」を読むべき時代なのかもしれない。

バイデン政権はいまやアホの塊なので、ロシアのエネルギープロジェクトへの制裁をはじめた。日本が官民あげて出資するプロジェクトです。これはもうG7への踏み絵。ロシアの天然ガス買うか、それとも俺んとこの天然ガス買うか?俺んとこは値段数倍やけどな。・・・。誰も踏まなかったら、帝国の没落が加速するだけやん。踏み絵を踏んだら、G7で民主主義が没落する。帝国って、自由と民主主義が旗印やなかったんか?

あれれ?また既視感。コンテナには自由と民主主義のラベルが貼ってはるけど、中に入ったら自由も民主主義もない。

創価学会というコンテナには、栄光勝利平和の三色旗が貼ってあって、「日本を前に」とか「小さな声を聞く力」とか自由とか民主主義みたいなことも書いてある。でも中に入ると、自由も民主主義もない。どっちかというと、それを捨てたい人たちが入ってくる。公明党が与党でいるのに、非正規労働者の声は無視され、日本はどんどん後退する。

日本政府が自由と民主主義を捨てたいから、自由と民主主義を旗印にしているG7に入ってる。そうと仮定したら、いまいちど真剣にエーリッヒ・フロム先生の「自由からの逃走」を読むべき時代なのかもしれない。

今津で創価学会に入っていたのは、おもに主婦層と、半端な男性たち。何年か家族と離れていて帰ってきたけれど、夏でも半袖を着ないおじさんとか。そのおじさんはとても心優しい人で親しくしていましたが、あるとき地域の会合で、「池田先生のなにかあったら俺は・・・俺は・・・。」と思い詰めたように語りました。「また塀の中に行くということなのかな?」と思いましたが、それは言えません。いささか極端な例ながら、そんな人もふつうに受け入れられたコミュニティーでした。

シーアのモスクで胸叩き儀式に参加しても違和感を感じない。パキスタンで民族服を着てサンダルを履いて市場に歩いて行き、大衆に紛れてしまう。チャイナタウンで北京語を話して大陸移民と思われ、犬以下の扱いを受ける。それでぜんぜん平気なのはおそらく、今津で創価学会だった経験があったからでしょう。

ニューヨークでは別の経験をしました。ニューヨークの創価学会には、F武書店(いまのベネッセ)の現地法人副社長や、当時は総領事館勤務の外交官で、のちに参議院議員になるE藤O彦さんなどエリートがいました。もっともE藤さんは地元の会合にはぜったい出ません。幹部がE藤さん宅に伺って指導を受けるくらいなので、普通の会員は知る由もない。

ブラスバンドにはジャコ・パストリアスやマルカス・ミラーとやっていたケンウッド・デナードがいたし、他にも大野俊三さんとか有名なミュージシャンやアーチストがいた。住んでいた地域にはキャブ・キャロウェイの娘のクリス・キャロウェイがいたりして、今津とはぜんぜん違う世界でした。

創価学会をやめて日本に帰ったばかりの頃、妙言寺の住職と話していてこんなことを言われました。創価学会臭が抜けるのに10年はかかる、と。「これから創価学会はどうなるのか?」てな話をしていて、こう言われました。「日蓮正宗の700年余の歴史で生まれた異流儀は、万単位で数えられる。時の流れのなかで、創価学会もまた本尊を持たない単なる異流儀として歴史に埋没するだろう。」

それから30年以上が過ぎました。多少は臭みが抜けたかな。そんな時、同級生の訃報が届きました。

彼は朝鮮高級中学の生徒たちにボコボコにしばかれた経験もありましたが、それでも少数者のことをよく理解していました。学生だった当時、我輩が創価学会の中の人だったというのも知っていて、「創価学会でも思想信条の自由があるから共産党に投票してもええわいな」みたいな話をしていました。創価学会にも在日がおるで、っちゅう話になって、彼曰く、「あいつら学会と総連と民団、二股三股かけとぉで。ふつうやで。」と言いました。総連というのは朝鮮総連、北系です。民団というのは大韓民国居留民団、南系です。我輩にとっては目から鱗が落ちるようなコメントでしたが、異国で生きるための知恵、いざというときのセーフティネットという意味でも、見識です。我輩もおかんも、そんなダイナミックな考えかたを知ってたらよかったなと思います。ちなみに彼の亡くなったオヤジさんはバリバリの共産党、彼も共産党支持でした。

もうひとり、同学で我輩と同じ立場の中の人、つまり親が創価学会だったので自動的に創価学会員にされてしまった親友がいました。彼は我輩よりずっと真面目でした。行田道雄先生のもとでマルクスやヘーゲルなどを真剣に学び、いま読んでもとても難しい卒論を書きました。こないだ35 年ぶりに連絡を取ると、創価学会に完全に洗脳されていました。よくあることとは言え、寂しい限りです。

洗脳された親友の手紙にはこうありました。「私は創価学会の信心を続けていきます。」・・・我輩はこれに強烈な違和感がありました。創価学会の信心とな。創価学会員がやっているのは、第1に自分が献金し、他人にも献金させること。第2に公明党の票を集めること。第3に会員を辞めさせないこと。なんでそれを信心と言えるのか?そもそも宗教とか信仰、教義も本尊も、1991年に破門されるまで日蓮正宗におんぶに抱っこ状態。法華講(信徒団体)のひとつみたいな立ち位置だったのが、破門されてただの政治的な団体になりました。宗教法人としての要件を満たしているかどうかも疑問です。公明党の政治力がなければ、解散請求されても仕方がないと我輩は思います。

2023年11月23日木曜日

我輩の手記

本稿は書物ではなく、愚生が顔面本(フェースブック)にぼちぼち書いた文章をまとめたもんである。中村則弘さんを偲ぶ会で福井に行ったとき、どうやら越前一向一揆衆の想念らしきものが脳内にたんと飛び込んできた。恨みの言葉なので、我輩の想念でないことだけは確かである。ときあたかも、パレスチナでハマスがイスラエルを攻撃し、イスラエル軍が圧倒的な軍事力でパレスチナ人を虐殺しはじめた。現在進行形の戦争と、織田信長や豊臣秀吉が女子供含めて5000人の一向一揆衆を虐殺したという歴史が脳内でシンクロしてしまい、一向一揆衆に感応したようだ。

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「パパにはふつうかもしれないけど、ふつうの人には見えないから、こわいんだよ。」と娘たちに説教されます。他人の見えないものが見えるようだと悟ったのは、大学1年生の頃。ピクニックで行った京都。化野念仏寺の墓地で戯れに撮った写真をプリントしたら、顔がたくさん写っていました。クラスメートの八木に見せると、「これは木の葉っぱの影、これは墓石のでこぼこやんけ」と否定します。否定してるのに、八木は泣いています。その写真はたぶん八木がどっかの神社か寺に奉納したのでしょう。いいやつだ。

兄貴のクルマを借りて夜の六甲山をドライブした時も、カーブの崖っぷち、ガードレールの向こう、人間がいるはずのないところに人の姿が見えます。「いま、ヒトおったよな?」・・・一同無言。

フェースブックはきほんツルむためのツールだけど、サイキック同士がツルむのはあんまりよくない。

友人のミクニさんは他人が見えないものを見るだけでなく、死者の軌跡をトレースできます。トレースを辿っていったら死んだばかりの人の家に行き着いたり、集合写真で黒い顔の人がいると思ったら既に死んでいたり。彼がライブで見る死者たちは、だいたい彼の首を絞めにかかるそうです。なんと暴力的な霊たち。我輩に見える人たちは、不本意な死にかたを余儀なくされた気の毒な、いわば弱い立場の人たち。生きている友人でも、ウマが合う人、そうでない人、飲みに行きたい人、会いたくない人など色々。生きていない人たちとの関係も似たようなものです。

ある夕刻、ミクニさんと梅田の王将の餃子かなんかでビールを飲んでいると、「あの人おかしい」とミクニさんが言います。その人がやってきて、「俺は世界を征服できるんや」みたいなアホを言います。サイキック同士はだいたいわかるので、いきなりそんな話をする人もいます。そのおっさんは目がイッてました。関わりあいたくないので早々に店を出て、阪神梅田の駅で電車を待っていました。電車が入ってきたとき、飛び込みたくなりました。柱の影にしがみついて我慢しましたが、それで我慢できるくらいのパワーだったので、オッサンの世界征服は無理でしょう。サイキックと関わると、ロクなことはありません。かしこまった席で放屁してしまったら、そのおっさんのせいです。

他人の見えないものが見える、という能力を売りにして、そこそこいい暮らしをしている人たちがいます。飲み友達が固定してるように、見える人たちのタイプも固定している我輩としては、ちょっと違うんじゃないかと思います。たとえば、L、G、B、T、S、M、赤ちゃんプレイなど、あらゆる趣向のクライアントに対応できる風俗従業員なんてふつういないでしょう。あらゆるタイプの霊が見えて、対処できるとしたら、その人自身が人生捨ててるか、詐欺師じゃないか。

そういう資質は遺伝的なものか?それはよくわかりません。我輩のおかんがマレーシアにやってきた時、昼寝をしていると、「窓の隙間から8人くらい小人が入ってきてな。」と言います。「私の寝てるベッドをみんなで持ち上げて、ホイホイ言いながらくるくる回すんや。生きた心地がせんかった。」

どうやらダヤン影絵芝居に出てくるような人たちのようです。そんな愉しい経験ならしたいものだと思います。おかんと我輩は、見るタイプの人が違うようです。

長野県の上田市の別所温泉。そのはずれにある法輪寺という寺で、娘の気分が悪くなりました。通途なら見て見ぬふりをするのですが、娘がピンポイントで狙われたなら困る。どんな人なのか。負圧に惹かれるままに境内を彷徨すると、松本繊維学校の若者たちが学徒動員されて8人くらいが死んでしまった、その慰霊碑に行きつきました。不本意な死にかたを強いられた無念なのでしょう。うちの娘を狙ったわけではなさそうです。

生きた人の無念でも、死んだ人の無念でも、もし感応してしまったら、受け止めるのではなく、さらりと水にすべて流すのがいいと思います。流さないで溜めていたら、我輩が潰れてしまいます。そのへんは生きてる人相手のカウンセリングと同じ。入れ込み過ぎたらカウンセラーが潰れてしまいます。

先般逝去した大学の先輩の偲ぶ会で福井に行ったとき、泊まったホテルが旧福井城の隣でした。いろんな想念が飛び込んできました。ほとんどは恨み節。「だまされた」というような。歴史をググってみると、これほどオーナーが頻繁に交代したお城も珍しい。しかしながら「だまされた」というのは何なのか?

パレスチナ人がイスラエル軍に虐殺されているのを聞いた我輩はおそらく、一向一揆衆に感応する準備ができていた。一向一揆衆は、織田信長や豊臣秀吉に何千人と虐殺された。福井でとびこんでくる声は「だまされた」という恨み節。何に騙されたというのか?

一向一揆衆は2重に騙された。第1は、有無を言わさない戦場で、「死んだらホトケ、極楽浄土まちがいなし」と最強戦士に仕立て上げられた。第2は、浄土真宗が権力側に寝返った。抵抗勢力であり続けた一向一揆衆はアウトカーストに落とされ、浄土真宗は彼ら彼女らに「1/10だけ成仏を許す」という戒名を与えた。京都あたりで浄土真宗の寺が火災にあったとき、アウトーカースト信徒が何十人も進んで火中にとびこんだという。お寺で焼け死んだら、来世は平民に生まれ変わる。そこまで思い詰めるような苛烈な差別だったという。

浄土真宗は権力側に寝返った。パレスチナ戦争で寝返るのは、ハマスではなく、ユダヤ教のほうじゃないかと我輩は思う。

ネタニヤフ率いるイスラエルを支えるのは最右翼シオニスト=団塊の世代。イスラエル訪問したブリンケンの最初の言葉が「ユダヤ人としてここに来ました」だった。それなのに、何も成果を得られなかったブリンケン。ただ右往左往しただけの、かわいそうなブリンケン。習近平とうまく話をまとめたはずだったのに、ボケ老人の「習近平は独裁者」という一言で外交成果をぶち壊されたブリンケン。そのオヤジは、アメリカでは有名なダイハード・シオニスト。いま西欧で、パレスチナのためにデモをしている最先端は、まさにブリンケン未満の若いユダヤ系。

世界中のユダヤ人は、右翼シオニスト=段階の世代と、50歳代未満の親パレスチナ世代に分裂している。10〜20年後、団塊の世代が死に絶え、常識的な世代が大勢を占める。彼ら彼女らは、イスラエルという汚名を着た国家に必ずしもこだわらない。たとえイスラエルが国家として存続したとしても、周囲のイスラム国家と共存する方途を探るんではないか。

イスラム世界はずっと、ユダヤ教徒に寛容だった。イスラエルがイランを仮想敵とするのは、イスラエル国内政治の歪みの投影にすぎない。ユダヤ教徒が仮想敵とすべきなのは数百年にわたって残虐な弾圧をした欧州であって、イランではない。イランはおそらく、10〜20年後にイスラエルが穏健なユダヤ教国家になるか、あるいはシオニズムが消滅することをわかっている。

シーアもまた、一向一揆衆と共通する精神がある。歴代のイマーム12人は、ことごとくスンニのカリフによって幽閉+暗殺あるいは毒殺された、というのがシーアの解釈である。スンニでは名君とされるハルーン・アル・ラシッドは、シーアでは残虐の暴君である。例年アルバイン(40日め)には、老若集まって胸を叩き、虐殺されたフセインを、あたかも1ヶ月前に殺されたかのように悼む。我輩も参加したことがあるが、黒っぽい服装でいたら皆シーアと見なされ、いっしょに胸を叩く。その高揚感、一体感はハンパではござらん。

臨戦態勢のもとでは大同小異。皆がタリバン、あるいは念仏衆、あるいはシーア・アリーになり膨れあがった教団。しかるに平和な時代が続くと、百花斉放で異論が出る。浄土真宗では「御同胞の社会をめざす実践運動」で危機感を煽ったのだが。お釈迦さん自身が、西方極楽浄土というのはフィクションだったと言ってるし、と突っ込まれたりする。

キリスト教では、処女懐胎とか死後再生が「それはさておき」ポジションに置かれた。きっかけは30年戦争。当初は王家の争いが宗派の違いに収斂され、悲惨なことになった。

そもそもジーザスは「神よ、我らの借金を免除したまえ」と言って支持を集め、磔で殺された。「師匠、それはマズい」と考えたジョンとかポールが、「神よ、我らの原罪を許したまえ」に変換してローマ帝国に採用され、中世に教会は欧州トップの地主になった。借金免除どころか、金貸しである。世の中、どうなるかわからない。

クアラルンプールで昼寝していたら、窓の隙間から小人が何人か入ってきて、ベッドを持ち上げてくるくる回した。そんな楽しい(本人は怖かったらしい)経験をしたオカンですが、時空を遡って1970年を前にした頃、心を病んでしまいました。原因は、姑と大姑と小姑がガシンタレだったのと、亭主(我輩の父)が甲斐性なしだったから。近所の白雪酒造の社宅に住んでいたアダチさんという人が親切で、いろいろ愚痴を聞いてくれた。その人が創価学会だったので、オカンも入り、我輩も兄貴も自動的に入ってしまいました。だから我輩はかなり中の人。統一教会がらみのニュースを見聞きするたびに、宗教法人解散請求の本当のターゲットは創価学会なんだろうなと思います。30年以上前にやめちゃったから関係ないけど、宗教2世の困惑は人ごとではありません。

高校生になると、会合に出ろとうるさく言われます。会合にでると、学習塾を経営していたカミチカさんというおっちゃんが世話役で、いろいろ「指導」をします。そのカミチカさんの発案で、「人間革命など池田先生の著作の要言集を作る」ということになって、甲子園の駅に近いコカジさん宅というモダンな家に集まり、作業がはじまりました。そのおかげで、池田大作がいかに意味のない空疎な言葉を羅列しているか、よくわかりました。創価学会は「指導主義」といって、体育会系というかほぼ軍隊なのに、池田大作は「民主主義」という。これほど空虚なことはありません。高校生なりに達した結論は、「そうか。池田大作の本なんて、みんな誰も真剣に読んでないんだ。」

カミチカさんが高校生にそんな作業をさせたのは、おそらく政治的野心があったからです。成果を本部に持ち込んで名を挙げようという。のちに彼は県会議員の片上公人の秘書になり、片上コージンがセクハラで失脚したので、カミチカさんも三途の道連れ。諸行無常やけど、その作業がなかったら我輩は創価学会を辞めてないかもしれない。

就職して3年め、ニューヨークに赴任した我輩のところにカワサキという創価学会員がやってきました。なんでわかったんだろう?それはオカンがチクったから。嫌々ながら「せめてブラスバンド」に入ったら、おもろいやつが多すぎて楽しかった。1987年ごろ、ボランティアの通訳でアメリカ人会員にくっついて東京の会合に出たら、池田大作が出てきた。相変わらず意味のない退屈な話をしていました。アメリカ人誰も聞いてないやん。我輩は近所に座っていたマリー・アスキューさんが綺麗だったのと、お向かいに座っていたリサちゃんという日系ハワイ人の女性が可愛かったのを覚えています。池田大作の意味のない話を意味のある英語に翻訳した矢倉涼子さんは、その後サザンオールスターズだった大森ちゃんと結婚しました。夫婦ともに大麻所持で逮捕された。

1990年の終わりごろ、イワブチマサルという人が東京からニューヨークまでやってきて指導会を開き、日蓮正宗がいかにデタラメかなんて話をしました。質問会でアメリカ人が「お寺に行って坊さんの話を聞いていいか?」と尋ねたとき、イワブチが坊さんはくるくるぱーだからダメ、というジェスチャーをしました。お寺の静謐な感じが好きで時々行っていた我輩は、その足でクイーンズ区のお寺に行き、住職と話しました。住職はぜんぜんクルクルパーじゃなかったので、創価学会を辞めることにしました。嘘のかたまり。

最近この話を考えはじめて、思い出して調べてみたら、イワブチマサルという同じ名前の人が北関東で公明党の市会議員かなんかをやっています。我輩がもしイワブチだったら、あんまり楽しくない人生だろうなと思います。嘘のかたまり。

1987年ごろのこと、東京でホシノという人に会いました。小説人間革命にのっている(ここは本当のこと)、創価学会に批判的な僧侶を川に放り込んだ男子部ギャングのひとりだったとのこと。ホシノさんは半身不随で、我輩に「池田先生について行け」と指導を垂れました。僧侶を川に放り込んだりしたから半身不随になったんじゃないか、なんて本人は考えもしなかったようです。別れ際に、「貞永くんによろしく伝えてくれ。」と言います。貞永昌靖。アメリカ創価学会のジョージ・ウィリアムズ理事長のことです。我輩が知っているウィリアムズ理事長は、大きな会合でハービー・ハンコックやラリー・コリエルのバンドで下手くそなテナーサックスを吹いている偉い人。楽屋に行って、「ホシノさんがよろしく言ってました。半身不随でしたけど。」って気楽に言えるような存在ではありません。

ミュージシャンの加納洋さんとはニューヨークで知り合いました。彼は視覚障碍者で、彼の杖がわりにいっしょにうろうろしていると、外の世界のいろんなミュージシャンと出会えて、楽しい思いをしました。

彼はこういいます。「池田先生のピアノなんて音楽的にいえば糞だけど、(自分が創価学会にいるのは)そういうことじゃないんだよね。」

いろんな人々の「そういうことじゃないんだよね」という思いの受け皿というのが、この宗教法人の存在意義のひとつではないかと思います。

そういうことじゃなくて、何なのかというと、それは人それぞれ。けれど宗教2世として半分内側、半分外側から眺めていると、パターンが見えてきます。それは、生活全般で組織の活動を優先させること。組織の活動というのは、自分も献金し、自分の担当している会員にも献金させること。聖教新聞など創価メディアの新聞や雑誌を購読し、担当する会員にも購読させること。50人くらいの学会員を担当する幹部が、聖教新聞を50部くらい自腹で購読するというのは普通の話です。それから、公明党の票集め。自分も投票し、担当する会員にも確実に投票させること。組織のスキャンダルが表面化したときに開催される文化祭に出場し、担当する会員にも出場させること。地域の会合に出席し、担当する会員にも出席させること。その会合を準備するための会合にも出席すること。自分の時間などない、と考えはじめたら、上級幹部に指導を受けに行くこと。自分の時間がなくなるから活動したくない、という会員に指導し、その会員が自分の指導を受け入れなかったら、上級幹部の指導を受けさせること。

受け皿の中に入ると、自由とか選挙とか責任なんていう面倒くさい選択をぜんぶ捨てて、組織の指導に従って生きることができる。イメージ的に言うと、その受け皿には「勝利、栄光、平和」という三色旗が貼り付けてあって、「民主主義」「自由」「大衆とともに」「小さな声を聞く力」「日本を前に」などという抽象的なスローガンが付記してあります。これで安心。外の人に批判されても怖くない。政権与党やし。

2世になると、組織の指導が窮屈だと思う人がいる。週末や休日のすごしかた、どこの政党に投票するか、どんな新聞を購読するか、どんな本を読むか、どんな友達と付き合うか。誰を配偶者候補に選ぶか。ほっといてくれ。雨の文化祭で組体操とかしたくないし、池田大作のくだらない本も買いたくない。脱会者の家の玄関で犬に糞をさせるとか、ストーキングするなんてやりたくない。

自由な選択をすすんで放棄するといえば、まるでエーリッヒ・フロム先生の古典「自由からの逃走」ですが、その通り。この国の一定数の人たちは、選択の自由や民主主義やコンプライアンスや説明責任なんて面倒くさいと思っている。それはこの国だけではなく、おそらくいまの欧州人やアメリカ人の多くもそう考えているフシがある。

戦争状態のときに宗教に騙された、というのは昔の話。現代では、自由という面倒臭いものを捨てるために、自らすすんでカルトに入るんではないか。

当初考察したように、あくまで仮説ですが、一向宗はフィジカルな戦闘行為のもとで団結・拡大した。創価学会が急成長した1960年代後半から70年代は、荒っぽい時代でした。昭和30年代(1955〜1965)の少年犯罪は、その量と凶悪さで今日の比ではないそうです。さらに、学生を中心にしたベトナム戦争反対運動。それが分裂した赤軍派による内部者を惨殺する事件。週刊サンケイでは極真館をテーマにした暴力マンガ連載。明日のジョーの主人公も、タイガーマスクの主人公も孤児院育ち。その時代、我輩が生まれそだった今津では、創価学会と共産党と朝鮮総連が競合関係にありました。なんでやねん?宗教団体と政党と少数民族互助会が争う?砲弾が飛び交うことはなかったかもしれないけど、これは戦場でした。

戦場では異論や少数意見が封殺され、一致団結のふりができない人はよくて排除、気の毒な場合は制裁される。勝ったら拡大するし、負けても生き延びる。その時代に創価学会に入った人たち、いわゆる団塊の世代と、それより年寄りの人たちが創価学会に寄せていた思いと、それより若い世代はぜんぜん違うものを宗教に求めたんではないかと思います。

平和な時代が続くと、一致団結した宗教団体も、タガが緩むのに抵抗できない。自由とか民主主義という、日本の伝統にあんまりなかった考え方が移植されて70余年。創価学会だけでも60万人くらいの人が自由をみずから捨て、宗教法人の指導に従って生きている。60万人というのは、公明党の得票数の1/10、活動家ひとりが10票あつめるという仮定の数字です。その他カルトを合算したら、日本だけで100万人くらい。そのうち比較的若い世代は、自由なんて面倒臭い、ややこしいことは他人任せにしたいと考えていて、カルトに入ったんじゃないか。ウクライナやヨーロッパのネオナチは他人事ではない、ともいえます。しかしこの国では、片づけできない人は片付け屋さんに依頼し、書類仕事は税理士や司法書士に依頼し、地域のあれこれは政治家に依頼し、作文はAIに依頼する。年寄りは特養。アウトソーシングすれば何にも考えなくて済む、便利でユニークな国です。コンプライアンスだ、説明責任だ、それが面倒臭いのでカルト組織に入った会員たち。その受け皿の宗教法人は、コンプライアンスとか責任説明を果たさなければなりません。統一教会がいい見せしめになりました。アウトソーシング先が健全になれば、ヘイトクライムやテロに走る危険性が少なくなります。

日本は世界に先駆けてると思います。誇大妄想かもしれないけど。

1990年に創価学会が反日蓮正宗キャンペーンをやりました。1977年にいちどやって失敗したので、その反省をもとに一気呵成。聖教新聞、創価新報、第三文明、月刊誌「潮」など直系・傍系メディアのすべてで、大幹部、弁護士、芸能人、有名人など総動員して嘘を書き、嘘を語り、ついに自分らが言い出した嘘を自分らで信じ込んで、嘘の無限拡大再生産。それに加えて、脱会者・退会者に対するストーキングやハラスメントが日常活動に組み込まれ、辞めたらこうなるぞという見せしめ効果抜群。戦いの場で異論や少数意見は封殺され、みんな三色旗。500年前の越前一向一揆の戦場が、現代に蘇ってました。

30年以上たって「いやあ、酷かったよね。辞めてよかった。」と回顧してたら、西欧世界のメディアがロシア憎悪で似たようなことをはじめました。公明党支持者600万人に仕掛けられた謀略は、たんに閉鎖された空間のモルモット実験で、その成果を英米謀略期間がじっと観察していたんじゃないかと思うくらいの既視感でした。

ヒラリー・クリントンが国務長官だったころの、2012年に遡ります。リビアのベンガジという街のアメリカ領事館で、クリス・スティーブンスという大使が蒸し焼きにされて殺されました。ヒラリーがその知らせを受けたのが政府の公式メールではなく私用メール、しかも「あっつ、そう」てな感じで数時間放置。外交官が殺されるという最悪の事態を招いたのに、メディアは検証も何もしなかった。ヒラリーのくだりは我輩にはどうでもよくて、注目したのは気の毒なクリス・スティーブンス氏がピースコーの出身だということ。

ピースコー(平和部隊)というのはJFケネディがはじめた機関で、我が国の海外協力隊も「それに倣った」と言われています。協力隊関係者がそう信じているけれど、我輩は逆じゃないかと思う。木村肥佐生さんがチベットからインドまでやってきて投稿し、強制送還された。日本でGHQ(日本を占領していたアメリカ軍)に拘束・尋問されて洗いざらいしゃべった。その報告書がホワイトハウスに届き、JFKが注目して「これええやん」となってピースコーを発足させた。我輩はそう思っています。

ジョン・パーキンスというピースコーOBは世界銀行で働き、あるとき転向して「エコノミック・ヒットマンの告白」という本を書いた。青年海外協力隊OBがJICAで働いているように、いやそれ以上に、ピースコー出身者は外交官や国際機関で働く道が用意されている。そのヒントを与えたのが木村肥佐生さんだと思う。

江戸時代が終わって明治になり、日本が世界に目を向けるようになりました。東亜同文書院が設立されたのが1900年、明治33年。中国では義和団事件が起こりました。この年にはオーウェン・ラティモアが生まれました。ラティモアは中国で育ち、長じてルーズベルトの推しで蒋介石のアドバイザーになったアメリカ人です。前年1989年、石光真清がシベリアに渡りました。1902年には、シンガポールに日系妓楼83件、日本人の娼婦が611名いたそうなので、嗅覚のいい日本人はどんどん海外進出していたようです。日露戦争開戦が1904年。

我輩が注目しているのは東亜同文書院と石光真清です。東亜同文書院は民間で設立されたのに、選抜試験は県単位。選抜された学生には渡航・滞在・学費など全額支給されます。優秀な子弟は東大に行くか東亜同文に行くかと言われた時代。東亜同文に行ったら上海で徹底的に中国語を仕込まれ、最終学年の4年次には自分達で計画した「大旅行」、中国各地をチームで数ヶ月間にわたって旅行し、その報告書が卒論がわり。我輩が学んだ神戸外大の教授のひとりも東亜同文卒業生でした。ガチのトップスパイ養成大学といってもいいでしょう。石光真清は陸軍幼年学校を出た生粋の軍人ですが、ロシア研究が必要という主張が認められ、退役して民間人としてロシアに行きました。この頃の日本はめちゃダイナミック。彼の伝記は現場の雰囲気を生き生きと伝えています。

のちに阿片王と言われた里見甫が修猷館を卒業して東亜同文書院に入ったのが1913年。2年後にはシンガポールに本願寺ができました。宗教の進出は早い。石光真清も、あちこちで真宗僧侶を兼ねた軍人に意外なところで出会ったりしています。1916年に里見甫が第13回生として東亜同文卒業。翌年1917年はロシア革命。この年、天理教がマレー半島に布教拠点を作りました。天理大学の外国語学部が有名なのは、このへんに源流があります。関東大震災のあった1923年、里見甫は京津日日日報に入社。京津というのは北京と天津。京都と大津ではないので念の為。日本軍が御用メディアとして作った満州国通信と、電通が合体した国通の初代編集主幹に就任したのはこのメディア経験ゆえでしょう。この年に大杉栄を殺害した甘粕正彦は、のちに満州で里見甫、岸信介とともに活躍します。岸信介は安倍晋三の祖父です。岸信介はのちに里見甫の墓碑銘「その逝く処を知らず」を自筆で書きました。電通と安倍・岸一族。腐れ縁に歴史あり。

1937年、昭和12年に満州国がペルシア(イラン)から輸入した阿片が20万ポンド。岸信介が支配し、甘粕正彦がメディア界で活躍する満州国の財政の根幹は、中華マフィアと密接な関係を持つ里見甫がアヘン公売で稼いでいたようです。一説には国庫の1/4が阿片と。

東亜同文書院がエリート養成期間とすれば、もっと現場に近いレベルの組織もなんちゃって民間で作られます。それが1930年にできた蒙古善隣協会。善隣協会が1939年に作ったのが興亜義塾。軍事訓練と語学、そしてモンゴル人と起居しながらの生活で、現場レベルのスパイを育成します。卒業生で生き残って有名になったのが西川一三と木村肥佐生さん。我輩が注目する点は、日本が国(政府と軍)をあげてエリートから現場レベルに至るスパイの分厚い層を養成していたこと、そのほとんどが直営・国営ではなくアフィリエイトとして、いちおう民間で立ち上げられていること。その発想と実績は、当時どの国にもなかったダイナミックさがあります。青年海外協力隊も当然その延長線上にあります。戦争目的ではなく平和目的ですが、真剣に日本の行く末を考えた有能な人たちが動き、それに賛同した政治家がいたことは間違いありません。その青年海外協力隊がアメリカのピースコーを手本にしたと?臍が茶を沸かします。逆に決まってる。

ピースコーの初代派遣国リストを眺めると、ほとんどの国でのちにアメリカはクーデターか戦争のいずれかを始めています。ピースコーが国際協力ではなくスパイ養成目的だったのは明白。それだけでも青年海外協力隊とぜんぜん違います。どっちかといえば、ピースコーは興亜義塾のパクリです。

敗戦で行き場のなくなった東亜同文書院。その膨大な図書資料コレクションが関係者の苦労の末に日本に持ち帰られ、それを受け継いだのが愛知大学。東亜同文書院のOB会である滬友会も愛知大学が引き継いでいました。道理で愛知大学の中日辞典は、中国語業界でスタンダードだったわけだ。我輩が神戸外大の中国学科に入って、中日辞典を買わされたとき、そんな経緯はぜんぜん知らなかった。閑話休題。東亜同文書院卒業生で小説家になった沖縄出身の大城立裕さんの「朝、上海に立ちつくす」を読むと、東亜同文書院生、商社マン、軍人などの現地における交流が描かれていて、とても興味深い。

今は閉塞状態に見えるかもしれないけれど、それに対処する日本人のユニークなやり方は、あんがい世界に先駆けているかもしれない。きっとどこかに有能な官僚と、彼ら彼女らを支持する政治家がいて、オモテナシやアニメ以上のダイナミックなことが進行中かもしれない。じっさい、じいちゃんのじいちゃんくらいの世代は、めちゃダイナミックに動き回っていた。商社マンや軍人や坊さんだけでなく、ポン引きやデリヘル嬢まで。メディアなんていちばん遅いんじゃないか。

多くの企業がブラック呼ばわりされたくなくて、ハラスメント対策や情報漏洩対策などコンプライアンスに取り組んでいます。宗教法人で内部告発をするのは、きっと2世や3世でしょう。団塊の世代が死に絶えたら、絶滅する宗教法人もきっと出てくる。自由を放棄することに喜びを感じる人の受け皿は、カルトでなく、NPOになるかもしれない。きっと日本人は、ユニークな解決法を提示するに違いありません。

2023年11月4日土曜日

中村則弘 脱オリエンタリズムと日本における内発的発展

オリエンタリズムというのはアレである。石油欲しさに中東を制圧し、原材料と労働力欲しさにインドを植民地にしたイギリス、インドネシアから350年間も搾取して自国だけ発展させたオランダ、北アフリカを植民地にしたフランスが、学術界で手前勝手なスタンダードなるものを確立した。そして、正しいけれど自分達に都合の悪い論文に対し、特にそれが東方に関することであれば、「それっていわばオリエンタリズムだよね。」とケチをつけるときに使う用語である。

もうひとつ、西欧でもエキセントリックなやつが東方研究にはまり込み、イーデス・ハンソンの関西弁ほどやないけど、ムンバイをボンベイと言わないくらいのレベルとか、ちょっと漢字かけますくらいになってる人らがおった。本人らは一所懸命やねんけど、明らかに西欧白人系である視点から東方を眺めている態度、おんなじことを有色人種の研究者が言っても取り上げられないレベルの内容やのに、白人であるからこそジャーナルに掲載される文章を「オリエンタリズムやんけ」と小馬鹿にするのに使われる。

なんで小馬鹿にするかというと、白人はアジアに来ると目立つ。目立つし、金持ちやと思われるから、有利な場合もあるけれど、調査という作業では不利な点もある。不利な点は、どこまでいっても特別扱いされるところ。

ここからは我輩の自慢と思い出し話、つまり閑話。

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1984年にニューヨークに送り込まれ、マンハッタンのチャイナタウンで北京語を使ったら、犬以下の扱いを受けた。犬以下の扱いだったけど、野菜とか肉をまけてくれた。華人は同胞(に見える人たち)を犬以下に扱うんだな、と思った。でも、まけてくれたよな。

1999年、クアラルンプールに送り込まれた。ケダ州のどっかで、華人系と思われてマレー人から不公平な扱いを受けた。日本人であることが相手にわかったら、地位が急上昇した。その時の高速エレベーター感は忘れがたい。

2009年ごろのある朝、寧波の路上飯屋でタイ人の同僚と一緒に不味いワンタンを食っていた。我輩はタイ語がほとんどできないので英語で話していた。気がつくと、周囲に人だかりができていた。「おたくら、なんで英語喋ってんだ?」と聞かれたので、「いやこの人タイ人だから中国語できないんだ。」と説明すると、「ああそおなんだ。」と納得して人だかりが消滅した。誰も我輩に「じゃあんたは何人なんだ?」と尋ねなかったので、誰かに自慢したくなった。

同じ朝の同じ場所で、白人がやってきてカウンターの中のおっさんに「何ができるかい?」と、とても流暢な北京語で尋ねた。カウンターのおっさんは面倒臭そうに、「壁(のメニュー)見な。」といった。白人は困った顔をして、「俺、漢字読めねえんだよな。」と英語でぶつぶつ言った。助けてやろうかと思ったが、不味い店だし、不味いって言ったのが聞こえたら面倒なので、助けるのはやめておいた。

あとで考えると、英語訛りのまったくない完璧な北京語を話すまで、たいそうな努力をした白人である。たいした努力もせず、漢字が読める我々の助けなど、おせっかいに違いない。

高速バスで浙江省を移動した。乗客の中に旅慣れない女性がいて、バスの中で嘔吐し、悪臭がバス内に立ち込めた。窓際の人たちは窓を開け、周囲の人たちがありあわせの新聞を集めて、吐瀉物を拭き取った。丸めた新聞紙を運転手に渡した人がいた。運転手は窓を開け、走行中に外に捨てた。罵り言葉を呟いたのはその運転手だけで、それ以外の誰もが無言で連携して作業を進めた。一番端っこの窓際に座っていた我輩は、窓を開けただけで、あとは静かに感動していた。周囲の人たちは、女性と顔見知りとか、そういうのではなさそうだ。誰にでもありがちなことに対する寛容さ。お互いさま精神。

高速鉄道で移動していたとき、同僚のタイ人と離れた席になった。列車が動きはじめてから、そのタイ人が困った顔をしてやってきた。「俺の席に他のやつが座っているんだ。」我輩はアドバイスした。「タイ語で文句を言ってみな。」中国人じゃないとわかったら、ちゃんと席をどいてくれたらしい。外国人には一定の敬意を払うようだ。寧波は古い港町だからだろう。

2012年、パキスタンのイスラマバードに送り込まれた。近所のモールのシーアの店に民族服を着て行ったら、店の若い人に「ブラザー」みたいに言われた。シーアの同胞ということなのだろう。その時、これでペルシア語ができたら楽しいだろうなと思った。

在パキスタン日本国大使館から「一部の日本人で民族服を着ると、アフガニスタンのハザールというモンゴル系のシーア派にしか見えない人がいる。タリバンはハザールを殺すので、該当する人は民族服を着ないように周知あられたい。」云々の通達が出された。あれは我輩のことだった。

我輩の密かな愉悦が発覚したのは、金曜日だった。職場のオフィスでは金曜日が民族服の日で、ある金曜日の夕刻に日本人学校のPTA会があった。娘の同級生の親が外交官で、情報収集インテリジェンス系のプロである。最初は「なんでパキの使用人が会場に座っとるんやろ?」と思ったらしい。会合が終わって、娘が我輩をパパと呼んだので、日本人とバレた。

近所のモールには、オフィス帰りに立ち寄る八百屋がある。いつも洋装だし、たいてい家内と一緒なので、「ハロー、サヒーブ(旦那ぁ)!」と認識してくれる。ある日、民族服で一人で立ち寄ると、全然認識してくれない。「ハロー!」と手を振っても無視である。その八百屋には、近在のお屋敷から差し向けられた民族服のピックアップボーイが何人もたむろしている。その一人だと認識されたようだ。我輩の容貌が、パキスタンまで通用するとは思わなかった。

それがおもしろかったので、民族服のおっさんらの隣、歩道の縁石に座っていた。その時に思った。我輩は、これが楽しいんだ。ふつうの人らにまぎれ、同じ目線で風景を眺め、同じ風に吹かれている。ときに犬以下に扱われるかもしれないが、そんなことは、この楽しさに比べたらどうでもいい。

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完全に第三者視点なら、文化人類学をやったらいい。社会学とか、ふつうの人たちが何を考えているかを知りたいなら、溶け込む容貌でないとまずい。ときに犬以下に扱われても。異人には、やっぱり限界がある。にもかかわらず、あたかも限界なぞ存在しないかのように、西欧白人の観点から見て悦に入っておる。オリエンタリズム。

学術業界ではあまりに長く西欧がスタンダードとなってきたので、極東の我々は、西欧スタンダードというだけで平伏する奴隷根性の持ち主たちと、一方でその臭いがしただけで「むかっ」とくる者の極端な2グループに分かれた。中村さんはもちろん後者です。

我輩なぞ「むかっ」と来るほうだ。イギリスはスコッチとギネスとフェイクのブリティッシュ訛りの英語、フランスはチーズとワインとフェイクのフランス語訛り、オランダはゴータチーズとポテトフライとビールのグローシュくらいを贔屓にしておいて、あとはあんまり立ち入らない、関わらないで生きてきた。そんなけ知っておけば、その国の出身で万が一いいやつに出会ったとき、それなりに話題を持たせることができる。

中村さんは全然違って、学術界で真正面から勝負を挑んだ。勇者である。

そんな中村さんが、63歳で去ったのは、残念としか言いようがない。

本の内容についての感想はまたの続きで。